本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

村役場の宿直春秋抄(17)

2008-03-31 10:00:31 | Weblog
村役場の宿直春秋抄(17)

収入役
 六月三日付けで「収入役」と題した項がある。しかしこの日づけは明らかに七月三日の誤りだ。六月十日の筆録に「六月の月に入り、始めて宿直をなす」とあるではないか。なによりも六月二十七日の項と七月六日の項の間に書かれている。それでも、この日録帳の順序に従ってここで採り上げる。

 さて、この筆録で意外な事実に接する。「足掛け六年書記を勤め、耳疾に因りて一旦退職した余はまったく官辺に身を置くことは断念した」という状態にあったのだ。
 ところが「去年の秋、(現職の)収入役が召集せられた。それは村の収入役としてよりも国家のために少尉の必要がより甚だしいためなり」と事態が一変する。そうしたいきさつから「その際、余は自宅で静養せりが村長の勧めにて不本意ながら役場に逆戻り、収入役の椅子に就いた」

 先に制定された町村制の規定に「収入役ハ町村長ノ推センニ依リ町村会之ヲ選任ス」とある。収入役といえば村長、助役に次ぐ顕職である。耳の不具合で退職したにもかかわらず、その後釜の推薦を受けた。よほど仕事振りを買われていたのだろう。昨秋からその職に就いているということは、収入役も宿直していたことになる。おそらくこの復帰を機にこの日録帳『豊栄考』を提起したのではないかと思われる。
 
 続けて「収入役の責任は金銭にあることを余は断言した。決して公金は消費せぬ。之で収入役は心配なく勤まることと思ふた。また耳は遠くなっても在職半年余にして収入役の職責は余が思ひしよりも重からざりし。併し仕事の煩雑なりしことは余が想像の外なり」と収入役の心境を語っている。公金をジャブジャブと費消する省庁の役人に「決して公金は消費せず」の言葉を聞かせたいものだ。博多の旅の費用をこと細かく記録していたが、これも収入役らしい。

村役場の宿直春秋抄(16-2)

2008-03-30 09:15:26 | Weblog
村役場の宿直春秋抄(16-2)

 憶測を述べたい。日田郡役所には情報は入っていたと思う。役所には「使送」という手段がある。字義通り使いの者に持たせて文書を管轄先などに送ることである。情報高速化が進んだ今日では形骸化してしまったが、当時、その手段を使って、戦局や戦病死者の情報が郡役所から届いたと考えられる。あるいは村役場からも報告書などを小使いが持参していたかもしれない。
 そのどちらかのタイミングで全権委員の任命発表の情報を入手したのではないか。

 郡役所の制度は大正十二年まで存在した。日田郡役所は日田町にあった。このことは日田に農林学校の設立が認可された明治三十五年に、設立準備の事務所を日田郡役所に置く、と学校沿革(『日田林工高校百周年記念誌』)にある。ただし、使送の仕組みがあったとしても日田・大鶴村間の徒歩は生易しいものではないとすでに述べた。戦局の情報は日田町から光岡村、夜明村、大鶴村の順でリレー式に伝えたのではないか。むろんこれは思いつきにすぎない。やはり、大鶴村までひた走りに走ったか。

 筆録に引き返す。真弓は和平交渉の報を慶賀するとしながら、舌鋒鋭くこう続ける。「然りといえども我が国民は決して之を耳にかすべからず。もとより委員の会合ありといえども必ずしも平和克復と限りたるものに非ず。第一次、第二次の会合において決するものに非ず。日清戦争においてさえ第三次の会合において決せり。況(いわん)や陰謀詐術に長じたる露国においておや。宜しく国民は當初の目的に向かいて猛進すべし。樺太を略取せよ。浦塩(ウラジオストック)を屠(ほふ)れ。角力(すもう)の勝敗は土俵際において決す」
 交渉を焦るな,騙されるなと力説する。見識の持ち主である。


村役場の宿直春秋抄(16)

2008-03-29 11:04:31 | Weblog
村役場の宿直春秋抄(16)

日露交渉
 真弓は前夜に続き十一日も宿直している。その書き出しに「本日、米国大統領の勧告により交渉委員を任命する旨回答ありとの報を耳にす。慶すべし。賀すべし」とある。
 史実によれば、日本政府が全権委員を任命すると発表したのが、前日十日のことだ。ロシア皇帝ニコライ二世も講和の提案を承諾していた。その発表を当日に知らなかったため、十日はロシアの強硬な姿勢に閉口したような書きぶりだった。
 ところが、翌日の十一日にその報が大鶴村に飛び込んできたわけだ。その伝達の速さは信じがたい。

 大鶴村はその情報をどのようにして入手したのだろうか。報を耳にするとあるから新聞情報ではない。そもそも新聞は郵送される。記事が載るであろうその日の朝刊が届くはずもない。むろん、ラジオもない時代だ。また、大鶴郵便局の電報電話の取り扱いは昭和に入ってからになる。早い話、大鶴村では情報の入手は遅い。だから速い伝達手段に首をかしげた。(この項続く)


鎮守の祠

2008-03-28 09:54:27 | Weblog
 近くの小高い場所に小さな祠がある。大正9年、明治神宮に参拝してお札を受け、それを祀ったと郷土史にある。明治神宮は同年11月1日の創建だから、ちょいと眉唾に思う。というのは当時の交通事情を考えると、ひょいと上京できるはずがない。

 まァ、それはそれとして、この祠が地区の鎮守である。その地区はいくつかに細分されているが、今年、細分化された我が地区が祠の担当(これを元方というらしい)になった。何が担当かと言えば、春秋に祭典と称して宴会を行うのだが、その接待係である。
 娯楽のない時代であればともかく、今や陋習だろうが、こういう惰性はなかなか改まらない。
 さて、その春の宴会は4月の第一日曜日にある。小生、担当の一員としてあいさつを仰せつかった。無難な話にするか爆弾的発言にするか悩んでいる。

村役場の宿直春秋抄(15)

2008-03-27 11:15:06 | Weblog
村役場の宿直春秋抄(15)

ロシアの気概
 同じ六月十日に「露国の続戦論」と題した項もある。「露国は日本海の海戦以来、既に日本との戦争の要素は喪へり。然るに頑冥にも尚続戦論を発表す。…沙河、遼陽に敗れ、奉天に大敗し、旅順を喪い、海にあっては東洋艦隊を亡ぼし、今また波艦隊(バルチック艦隊)を挙げて日本海の海戦で殲滅(せんめつ)せしむ…尚、(ロシアが)続戦論を主張するが如きは、日本人のなし得るべきところか。もとより常識以外の頑迷の然らしむところなり。とは言えその意気に至りては之を日本人に移して可也」

 漢詩ではロシア人を「露助」とさげすむ一方、ロシアの頑迷さを常識外としながらも敵国の意気に感心している。その意気は日本人にも移したいという具合だ。掉尾に「余は露国贔屓(ひいき)に非ず。亦露探(ロシアのスパイ)にもあらざるなり」と付け加えたのはご愛嬌だ。

 余談を加える。明治三十八年七月十五日の京都の新聞に「波艦隊(バルチック艦隊)来寇の噂専らなりし当時、即ち四、五月の交は皆無の姿なりしが、既に全滅して海路も安全なりしを以て多数外人の来京したるものならん」とある。
 ロシアの艦隊が攻め来る噂で、外国人観光客が落ち込んでいたが、その艦隊に勝った報で再び外国人が京都を訪ねたという記事だ。戦局は外国人観光客にも影響を及ぼしていたわけだ。
 それにしても、開国四十年足らずで、京都観光が盛んだったことに驚くほかない。