福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中論觀六情品第三

2021-12-27 | 諸経

中論觀六情品第三(八偈)            

問曰、經中(小乗の論のこと)に説かく、六情有りと。所謂

「眼耳及び鼻舌身意等の六情、此の眼等の六情は色等の六塵に行ず。」(第一偈)

此中に眼を内情と為し、色を外塵と為す。眼は能く色を見る。乃至意を内情と為し、法を外塵と為す。意能く法を知る。答て曰く、無也、何以故、

「是の眼は則ち自ら其の己體を視ること能はず。若し自ら見ること能はずば 云何んが餘物を見ん。」(第二偈)

是の眼は自體を見ること能はず。何以故。燈は能く自ら照し亦た能く他を照すが如く、眼若し是れ見相ならば、亦た應に自ら見、亦た應に他をも見るべし。而も實には爾らず。是の故に偈中に説かく、若し眼が自ら見ずんば何ぞ能く餘物を見む、と。問て曰く、眼は能く自ら見ずと雖も而も能く他を見る。火は能く他を燒けども自ら燒くこと能はざるが如し。答曰く、

「火の喩は則ち眼見の法を成ずる能はず。去・未去・去時とに已に總じて是の事を答へたり。」(第三偈)

汝、火の喩を作すと雖も、眼見の法を成ずる能はず。是の事は去來品中に已に答へたり。已去中に去無く未去中に去なく去時中に去無きが如く、已燒・未燒・燒時倶に燒あること無きが如く、如

是に已見・未見・見時に倶に見相無し。復次に

「見、若し未見の時は 則ち名けて見と為す。而も見能く見ると言はば 是の事則ち然らず。」(第四偈)

眼未だ色に對せずんば則ち見ること能はず。爾時は名けて見と為さず。色に對するに因って名けて見と為す。是の故に偈中に説く、未見時に見無し。云何んぞ見を以て能く見ん。復次に二處倶に見法無し。何以故、

「見に見ある能はず、 非見も亦た見ず。若し已に見を破せば 則ち見者を破すと為す」(第五偈)

見は見ること能はず。先に已に過を説くが故に。非見も亦た見ず。見相無きが故に。若し見相無くば云何んが能く見ん。見法無きが故に見者も亦た無し。何以故。若し見を離れて見者あらば、眼なき者も亦た應に餘情を以て見るべし。若し見を以て見ば、則ち見中に見相ありて見者は見相無きなり。是故に偈中に説かく、若し已に見を破せば則ち見者を破すと為す、と。復次に

「見を離るるも見を離れざるも 見者は不可得なり。見者なきを以ての故に 何ぞ見と可見と有らむ」(第六偈)

若し見有るも見者は則ち成ぜず。若し見無くも見者は亦た成ぜず。見者無きが故に云何んが見と可見と有らむ。若し見者無くば誰か能く見法を用ひて外色を分別せむ。是故に偈中に説く。見者無きを以ての故に何ぞ見と可見と有らむ、と。復次に

「見と可見と無きが故に 識等の四法も無し。四取等の諸縁は 云何んが當に有りことを得べき。」(第七偈)

見と可見との法は無きが故に識・觸・受・愛等の四法は皆な無し。愛等無きを以ての故に四取等の十二因縁分も亦た無し。復次に

「耳鼻舌身意、聲及び聞者等、當に知るべし如是の義は 皆な上説に同じ」(第八偈)

見と可見の法空にして衆縁に屬するが故に決定無きが如く、餘の耳等の五情、聲等の五塵も當に知るべし亦た見・可見の法に同じ。義同じきが故に別して説かず。(終わり)

 

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