福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

眞言付法纂要抄

2021-12-30 | 諸経

 

 
眞言付法纂要抄 成尊
後三条天皇(11世紀)の護持僧でもあった小野僧都成尊(小野曼荼羅寺二世、東寺長者、明算の師)は天皇の諮問にこたえて『真言付法纂要抄』を呈した。
成尊に対する後三条天皇の信頼は特別で、即位灌頂も成尊から受けている。大江匡房「後三条院御即位記」に「 又 ( 三条院)即位時は 、 小 安殿より 笏を端し、歩 行 云 々 、今の 度 は 然らず 、主 上 (後三条天皇)此 間手を 結び 、 大 日 如 来の 智 拳 印の如し 」とでてくる。之が記録上に出てくる即位灌頂の始め。
この「眞言付法纂要抄」では様々な特徴的なことを天皇に御進講しており、主な点をあらかじめ箇条書きにしておくと
・密教の殊勝なることを「一、灌頂殊勝。二、受法殊勝。三、梵文殊勝。四、相承殊勝。五、誓願殊勝。六、宝珠殊勝。七、道具殊勝。八、入定殊勝。九、法則殊勝。十、外護殊勝。」の十種に分けて説き、
・粟辺土観をくつがえし、日本こそが仏教の本拠地と説き
大日如来(あるいは大師)は天照大神と同体と説いた。「今、遍照金剛、日域に鎮座し、金輪聖王、福を増す。神を天照尊と号し、刹を大日本国と名くるは自然の理、自然に名を立つ。」
・また仁壽殿の観音供も大師が始めたとする。)

「夫れ眞言付法相の承は明かに經傳にあり。之を尋ねらるる煩ありと云うと雖も。何ぞ更に注縎すべき乎。而して今、祇奉令旨(つつしみて令旨をうけたまはり)俛仰恭命し、聊さか時代の年歳を記し、偏へに等閑の照覽に備へん矣。
天竺。
第一高祖。常住三世淨妙法身法界體性智摩訶毘盧遮那如來
第二傳法の祖。金剛薩埵菩薩
第三祖。龍猛菩薩
第四祖。龍智菩薩
第五祖。金剛智三藏(付法第五祖、伝持三祖)
善無畏三藏(伝持第五祖)
大唐
第六祖。大辯正廣智不空三藏(付法第六祖・伝持四祖)
一行阿闇梨(伝持第六祖)
第七祖。法諱惠果(付法第七祖・伝持第七祖)
日本
第八祖。弘法大師

第一高祖。法身大毘盧遮那如來。自眷屬
法身如來と祕密法界心殿中において自受法樂の故に、
常恒不斷に此の自内證智三摩地法を演説す。具には
金剛頂經の説の如し。若し釋迦説教次第に准ぜば、法華經の後に眞言教を説く故に。金剛頂瑜伽三十七尊出生義に云く、化城(法華経化城喩品)を起し以って之に接す。糞除に由って以って之を誘ふ。及于大種姓人法像已熟三祕密教説。時、方に至る。遂に自受用身を却住して色究竟天宮に據り、不空王三昧に入り、諸聖賢を普集し、地位之漸階を削り、等妙之頓旨を開く。

金剛頂瑜伽三十七尊出生義に「我能仁如來。憫三有六趣之惑。常由蘊界入等。受生死妄執。空華無而虚計。衣珠有而不知。於是乎收跡都史天宮下。生中印土。
起化城以接之。由糞除以誘之。及乎大種姓人法縁已熟。三祕密教説時方至。遂却住自受用身。據色究竟天宮。入不空王三昧。普集諸聖賢。削地位之漸階。開等妙之頓旨。從普賢金剛性海。出塵數加持色身。然後演普
賢金剛語業之密言。)

第二祖。金剛薩埵。法身如來海會に親對し、
灌頂職位を受け、則ち自證三密門を説き、以って盧舍那及び一切如來に獻じ、便ち加持の教勅を請ふ。毘盧舍那如來言く「汝等將來、無量世界に於て最上乘者の爲に、現生に世出世間の悉地を成就することを得しめよ」と、具には經説の如し。

第三祖。昔釋迦如來掩化之後、八百年の中に、
一大士あり。名て龍猛菩薩といふ。迹を南天竺に誕じ、化を五印に被らしむ。本則を尋ぬれば妙雲如來・阿彌陀。現迹し則ち位は歡喜に登り或は邪林に遊ぶ。而して塵に同じ、事に同じ、或は正幢を建て以って佛威を宣揚す。千部論を作り摧邪顯正し上は四王自在
處に遊び、下は海中の龍宮に入る。あらゆる一切法門を誦持し遂に則ち南天の鐵塔中に入り、親しく金剛薩埵の灌頂を受け、此の祕密最上曼荼羅教を誦持し、人間に流傳す。楞伽經及び摩耶經等なり。釋迦如來懸記(かねて予言)の所なり。則ち是れ人也。

第四祖。龍智菩薩。即ち龍猛菩薩付法之上足
也。位は聖地に登る。神力難思。徳五天に被る。名は十方に薫ず。上は天に入り、地は無礙自在。或は南天竺に住し弘法利人し、或は師子國に遊び、有縁に勸接す。貞元録(貞元新定釈教録)云。「龍樹菩薩の弟子、名は龍智。年は七百餘歳。今猶ほ見(げん)に南天竺國に在し、金剛頂瑜伽經及毘盧舍那總持陀羅尼法門・五部灌頂諸佛祕密之藏・及諸大乘經論等を傳授す」と。亦た大辯正三藏(不空三藏)表製集に曰。
「昔毘盧舍那佛。瑜伽無上祕密最大乘教を以て
金剛薩埵に傳ふ。金剛薩埵は數百歳にして方に龍
猛菩薩を得、傳授焉り、龍猛又數百歳にして乃ち龍智阿闍梨に傳へ、龍智又數百歳にして金剛智阿闍梨に傳ふ」と。不空阿闍梨に及ぶ。
大師(「秘密曼荼羅付法教伝」に)云。「彼の龍智菩薩は年七百餘歳。面藐は三十計ばかりと。今見(げん)に南天竺國に住し此宗を流傳す矣」


第五祖。金剛智。年三十一。南天竺に往き、
龍智阿闍梨に承事す。七年を經て金剛頂瑜伽經
及毘盧遮那總持陀羅尼法門・諸大乘經典・竝びに五明論を受學し、五部灌頂諸佛祕密之藏を受く。通達せざるなし。兼て九十四書を解し、尤も祕術に工みなり。妙に粉繪に閑ならへり。飯食に至る毎に天厨自陳す。金剛薩埵は常に現前す。觀音菩薩は應現して是の言を作す「汝之所學今已に成就す。大唐國に往くべし、文殊師利菩薩に禮謁し彼國の汝に縁あり。宜しく往きて傳教し群生を濟度すべし」。是の聖告を承り、遂に大唐に入る。開元八年(養老四年に配す)。佛滅度後經千六百十九年。金剛界大法、始めて漢土に來り、初めて東都に到る。所有の事意、一一奏聞す。勅を奉うけて處分し、安置せしめて四事供養(飲食,衣服,臥具,湯薬)す。是において廣く祕教を弘め曼荼羅を建つ。法に依って作成するに皆靈瑞を感ず。沙門一行(一行禅師)は斯の祕法を欽(ねごふ)て、數(しばし)ば就いて諮詢す。和尚、一一に指陳す。後に爲に壇を立てて灌頂す。
唐朝の灌頂此時に始まる矣。一行は敬んで此法を受けて、譯して流通せんことを請ふ。十一年、「瑜伽念誦法四卷」・「七倶胝經」等を翻譯す。十八年、「曼殊師利五字心」及び「觀自在瑜伽法要」を譯出す。祕教の流傳は寔(まこと)に斯の人か矣。
又一時、亢旱して月を連ぬ。玄宗皇帝、軫慮納惶(しんりょのうこう。憂慮)して即ち和尚をして祈雨せしむ。和尚、大広福寺廊の下に結壇し密かに真言を誦す。食頃しばらくして、壇中より龍頭出現す。和尚手を申べて龍頭を把投し須臾にして放却す。其龍、直ちに廊宇を突きて騰空す。雷電震地して雨霈然として洪澍す。淹日息まず。皇帝其の漂物を恐れて更に止雨せしむ。譯經する所、都すべて一十一卷。竝びに「開元釋教録」及び「貞元新定釋教録」に入れてげんに世に行はる。
種種の靈驗、兩國の珍敬等、具つぶさに本傳に載せたり。煩述を勞せず。

善無畏三藏は是れ龍智菩薩の弟子、金剛智三藏の同門也。寶位を捨て道林に入る。神氣清靈。道業怪著。精しく禪惠に通ず。妙に總持に達す。三藏の教門一心に遊入す。五天の諸國に久しく芳名を播く。大悲利生、縁あって東漸す。乃至、北天竺乾陀羅城王の請により。金粟王所造塔邊において、聖の加被を求むるに此の供養法、忽ち空中に現ず。金字炳然たり。遂に便ち寫取し、即ち其の王にあたふ。(この部分は「供養法疏」(釋不可思議 撰)に「〔善 無 畏〕至北 天竺、 乃 有 一城、 名乾 陀羅 、 其國 之 王 、仰 憑和上、 受法念誦 〔念 誦 法 力〕其 經文廣 義 深
不能尋逐供養次第 、求 請 和 上供養 方 法、 和上 受請 、於 金 粟王 所 造塔 邊、求 聖加 被 、此 供養 法忽 現空中 、金 字 柄然 、和 上 一遍 略讀 、分 明記 著 、仰 空 云、 誰所 造也 、 云我所 造也 、問 阿 誰我 也、 云我是 文殊師 利也。」)

途に北印土境に至るに、響摩訶支那に震ふ。皇帝、賢良を搜集して使を發して迎接す。開元四年景辰を以て大いに梵篋を齎して長安に來達す。初め興福寺南院に於いて安置し、次後五年丁已、菩提院に於いて「虚空藏求聞持法」一卷を譯す。十二年賀に隨って入洛し、大福光寺に安置す。遂に沙門一行の為に「大日經」一部七卷、「蘇悉地」「蘇婆呼」兩部の經を訳す。三藏、性、恬簡を愛し、靜慮恬神。時に禪觀を開きて初學を奬勸す。慈悲念を作し、接誘無虧。人或は疑を問へば、割折無滯なり。

第六祖。大辨正廣智不空三藏和尚は南天
竺國人也。年甫(はじめ)て十四にして金剛智三藏にまみえて、之に師事す。二十四年、左右を離れず、影の形に隨ふが如し。開元八年、方に東洛に至る。二十一年、悉く五部瑜伽を受く。始め二十歳より從心迄、五十餘年、毎日四時に道場念誦し、御殿に上昇す。下って几に至る、刹那之頃も曾って間あらず焉。開元二十九年秋、先師厭代、入塔の後、詔あり。師子國に國信を齎もたら使む。未だ一年をこえざるに師子國に至る。國王郊迎して宮中に七日供養し、便ち佛牙寺に安置せしむ。即ち龍智阿闍梨に遇ひ奉って即ち授くるに、十八會金剛頂瑜伽十萬頌經、竝びに大毘盧遮那大悲胎藏十萬頌經、五部灌頂、眞言祕典經論梵篋五百餘部を以てす。みな以って其の所傳を得たりとなす。金剛界及び大悲胎藏兩部曼荼羅法、竝びに尊樣圖等、悉く指授を蒙ること寫瓶に異ならず。天寶五載。却きて上都に至り、玄宗皇帝に恩命を奉ず。内に道場を建立し、齎す所の梵經、盡く翻譯を許す。即ち神龍道場也。
内道場の始也。皇帝引入して壇を建て灌頂を授く。時に愆允(げんこう・旱)連日、詔有り。和尚に祈雨せしむ。和上結壇して期に應じて油雲、四(よも)に起こり霈然として洪澍す。十二載、勅あり。大道場を立てしむ。梵僧含光、俗弟子開府李元琮、及び使幕の宮寮等に五部灌頂を授く。時に道場の地、之が爲に大動す。竝びに金剛頂眞實大教王經一十卷を譯す。肅宗皇、靈武に行在す(肅宗は北伐をすすめ靈武で即位を宣言)。大師密かに祕法を進め、竝びに撥亂收京之日を定む。遂に其の言の如し。乾元年中、内道場において護摩及灌頂法を建立。代宗皇帝。廣徳元年十一月十四日。和尚國の爲に奏して灌頂道場を置く。永泰元年四月二日、仁王經等を訳す。大暦四年十二月十九日、和尚奏して京城及天下僧尼寺内に各の一勝處を簡えらんで大聖文殊院を置き、及び天下食堂内に賓頭盧上に文殊を以て上座となさんと。歴事すること三朝(玄宗・粛宗・代宗)。授くるに列卿を以てし、品に特進を加ふ。疾に臥すに及んでは宸儀(天子)典げて臨み。勞問相ひ仍る。中使・名醫は晨昏に相繼ぐ。特に開府を加へ肅國公に封ず。薨ずるに及んで上は彌よ震悼す。朝をやむこと三日。贈をたまひ優を増す。授くるに司
空を以てし、大辨正と諡おくりなす。翻經するところは都て一百五十卷、竝びに盛に世に行はる。九重(宮中)の萬乘は恒に五智之心(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を觀じ、闕庭(御所)の百寮は盡く三密之印(身口意の印)を持す。此時密教漢土に盛ん也。

沙門一行は金剛智三藏之法化也。二十一。荆
洲景禪師に遇ひ出家す。嵩山大照禪師に從ひて禪
法を諮受し無生一行三昧を契悟す。因って名となす焉。開元八年、金剛智東漸之後、道場を始開し、灌頂を親受す。
十二年、無畏三藏、毘盧舍那經を訳すに竝びて義疏を製す。眞言を扣たたきのぶるは禪師之功也(善無畏口述の大日経疏を著したがその中の真言は一行の功績)。又た勅を奉じて大衍暦竝びに開元暦を述ぶ。先賢の所誤は皆以って之を正す。九流(儒家・道家・陰陽家・法家・名家・墨家・縦横家・雑家・農家)を借學し、皆幽旨。兩部を研竅し共に疏主となる。内外經書に汎じ目歴すれば便ち誦す。律部經論のあらゆる要文を撰じて「調伏藏」十卷となす。兼て自ら注解す。是故に東都聖上は侍するに師禮を以てす。累代居内。日に益す欽敬す。玄宗皇帝は自ら親しく碑銘を製して讃揚し竝びに石上に書す。遂に十五年十月八日を以て趺坐正念恬如寂滅す。

第七祖。法の諱は惠果阿闍梨は不空三藏之付
法入室也。髫齓(ちょうしん・7,8歳)之日天寶十二年也大照禪師に隨って(不空)三藏に見ゆ。三藏乍見驚曰「此兒密藏の器あり」と。稱歎已まず。「汝必ず當に我法を興すべし」と。之を撫し、之を育すること父母に異ならず。即ち三昧耶佛戒を授けて之に受職灌頂位を許す。口ずから「大佛頂」「大隨求」、及び梵本の金剛頂瑜伽經、竝に大日經等を授く。和尚禀氣沖和(気がやすらか)。精神爽利。顏回之十を知るに均しく、項託の詰孔に同じ(項託が孔子に教えたこと)。龍駒之子、驥子之兒も寧ぞ比肩することを得ん乎。年甫はじめて十五にして靈驗を得。年弱冠に至りて、之を具足に進む。四分兼學し三藏該通す。金剛頂五部大曼荼羅法、及び大悲胎藏三密の法門、眞言密契、悉く師授を蒙る。即ち、兩部大法阿闍梨位、毘盧舍那根本最極傳法密印を授かる。三藏告て曰く「吾百年後。汝此の兩部大法を持して佛法を護持し國家を擁護し有情を利樂せよ。此の大法は、五天竺國にもはなはだ見るを得ること難し。一尊一部も得易からず。何ぞ況んや兩部をや。所有の弟子、其數多しと雖も、或は一尊を得、或は一部を得る。汝が聰利精勤を愍れんで、許すに兩部を以てす。努めて精進し吾恩に報ぜよ」と。代宗皇帝之を聞き、迎へ入れ之に命じて曰「朕疑滯あり。願はくは爲に之を解け」と。和尚即ち兩三の童子をして法に依って加持し摩醯首羅天を請降す。法力不思議の故に即ち童子に遍入す。和尚、王に白して言く「法已に成就せり。聖意に隨って請問したまへ」と。皇帝下座して天に問へば、則ち三世の事を説き、委しく帝王暦數を告ぐ。皇帝歎じて曰「龍子は小なりと雖も能く雲雨を起す。釋子は幼なりと雖も法力降天す。入瓶の小師(阿育王は七歳の沙弥が瓶に出入りする不思議を見て尊敬したという故事あり)、今において見つ」と。即ち絹綵をたもうて以って神用を旌(あらわ・ほめる)す。從爾已後。飛龍迎送し、四事優給す。大暦十年十一月十日、皇帝錦綵各二十疋を恩賜。貞元二十年、醴泉寺に於いて弟子僧儀智が為に金剛界大曼荼羅を建立し及び尊位を拼布(ほうふ・縄墨で書く)。時に般若三藏及び諸大徳等、法筵に集會す。和尚、手に香爐を把り、口に要誓を説いて云く「若し
我今所置の尊位をして法と相應せしめば、天忽ち降雨せよ」と。所有る衆徳、諸弟子等、師に代わりて流汗す。言了って則ち雷雨滂沱。人皆な感伏す。歎じて未曾有なりとす。般若のいわく「あらゆる阿毘跋致之相即ち是之に當れり」と。如是の神驗、途に觸れて稍
多し。具しく載せるべからず。訶浚の辨弘は五天を経て接足す。新羅の惠日は三韓を渉って頂載す。劍南の惟上、河北の義圓、風を欽って振錫し、法を渇して負笈す。是故に代宗、徳宗、及び以南内三代皇帝以って灌頂國師と為す。金殿に出入し、紫極に奉對し、祕法を敷演し、妙理を宣布すること四十餘載。
即ち永貞元年十二月十五日五更を以て即世す。春秋六十。法夏四十焉。

第八祖。弘法大師。昔佛前において誓願を発して曰「吾
佛法にしたがい常に要を尋求するに、三乘五乘十二部經、心神疑あり。未だ以って決をなさず。唯願くは三世十方諸佛、我に不二をしめしたまへ。一心に祈感するに夢に人有て告げて曰はく、「此に經あり、名字は大毘盧遮那經といふ。是れ乃ち所要也」と。即ち隨喜して件の經王を尋ね得たり。大日本國高市郡久米道場東塔下にあり。此に於いて一部緘を解いて普く覽るに衆情滯ありて憚問する所無し。更に發心を作して去んじ延暦二十三年五月十二日を以て入唐す。初めて學習せんが為なり。天應慰懃にして勅を載せて渡海す。
八月福洲に至り著岸、十二月下旬、長安城に致り宣陽坊官宅に安置す。大唐貞元二十一年(延暦二十四年に配す)二月十日、勅に准じ西明寺永忠和尚故院に配住す。爰に則ち諸寺を周遊し師依を訪擇す。幸に
青龍寺灌頂阿闍梨法號惠果和尚に遇へり。以って
師主と為し、兩部之大法を學び、諸尊之瑜伽を習ふ。六月十三日。長安城青龍寺東塔院灌頂道場において、學法灌頂壇に入る。是日、大悲胎藏大曼荼羅に臨んで即ち五部灌頂に沐し、三密加持を受く。此より以後、胎藏之梵字儀軌を受け、諸尊之瑜伽觀智を學す。七月上旬。更に金剛界大曼荼羅に臨み、五部灌頂を受く。八月上旬、亦た傳法阿闍梨位灌頂を受く。是日五
百僧の齋を設け、普く四衆に供す。青龍大興善等供奉の大徳等、竝びて齋筵に臨み、悉く皆な隨喜す。金剛頂瑜伽五部眞言密契、相續して受く。梵字梵讃。間以學之。和尚告曰「眞言祕藏。經疏隱密。圖畫を假らざれば相傳すること能はず」。則ち供奉丹青・李眞等一十餘人を喚んで胎藏金剛界等大曼荼羅等一十鋪を圖繪し、兼ねて二十餘の經生を集めて、金剛頂等最上乘密藏經を書寫す。又供奉鑄博士楊忠信趙呉を喚んで、新たに道具一十五事を造る。圖像寫經、漸く次第あり。和尚告曰「吾昔、髫齓(ちょうしん・7・8歳)の時、初て三藏に見ゆ。三藏一たび見ての後、偏えに憐むこと子の如し。内に入り寺に歸るにも影の如く離れず。竊に告て言はく「汝、密教之器あり。努力努力。兩部大法祕密印契、是によって學び得たり。自餘の弟子、若しくは道、若しくは俗、或は一部の大法を学び、或は一尊一契を得て、兼貫するを得ず。岳瀆(がくとく・山よりも高く、海よりも深い恩)を報ぜんと欲するに。旻天極り罔し。今此の土の縁盡きぬ。久しく住すること能はじ。宜しく此の兩部大曼荼羅・一百餘部金剛乘法、及び三藏傳付之物、竝びに供養具等、請ふ、本鄕に歸りて海内に流傳せよ。纔かに汝の來れるを見て、命の足らざるを恐れぬ。今則ち授法在る有り。經像の功畢んぬ。早く鄕國に歸りて以って國家に奉り、天下に流布して蒼生の福を増せ。然れば則ち四海泰く萬人樂しまん。是れ則ち佛恩を報じ、師徳を報ず。國の為には忠也。家に於いては孝也。義明供奉は此處にして傳へん。汝は其れ行きて是を東國に傳へよ。努力努
力。」と。付法慇懃なり。遺誨も亦た畢んぬ。遂に乃ち十年之功。兼之四運。三密之印。貫之一志
矣十二月十五日。惠果和尚。蘭湯洗垢。結毘盧舍那法印。右脇而終。大同元年十月二十二日、判官
正六位上行大宰大監高階眞人遠成に附して奉表
以聞す。經律論疏章傳記、竝びに佛菩薩金剛
天等像、三昧耶曼荼羅、法曼荼羅、傳法阿闍
梨等影、及び道具、竝びに阿闍梨付屬物等の目録を請來す。同二年歸朝。佛滅度後千七百五十六年、眞言教渡漢土後九十二年。來此朝に来るを始めとなす。
弘仁三年十一月十五日、高雄山寺において金剛
界灌頂を修す。受者、釋最澄、大學大允和氣仲世、美
濃種人等也。金剛界大法灌頂は此時を始となす。
十二月十五日、傳教大師の為に灌頂道場を開く。百餘の弟子と持明灌頂誓水に沐し、十八道眞言、胎藏界大法灌頂を學す。此年始てなり。
同四年三月六日、金剛界灌頂を修す。受者、泰範・圓
澄・長榮・光定・康教・沙彌十二人也。
十三年、平城太上天皇、從って灌頂を受く。聖父聖子。佛戒を受持し佛位に頓入す。
十四年、嵯峨天皇、又た灌頂を受け、三密法門を修行す。此より以後、一人三公、之を敬して師と爲す。四衆萬民之に依って接足す。同年眞言の庭となすために東寺を給ふ。又眞言宗僧五十人、東寺に住せしむ。已上官符あり。
天長元年、神泉苑において祈雨法を修す。靈
驗掲焉、少僧都に任ずぜらる。竝びに東寺を以て別當大僧都長者となし、造西寺に遷住す。弘法大師を以て、造東寺所に補任す。此れ東寺
長者の始なり。
承和元年十二月二十四日、五十僧の内から擇びて三綱に宛用する官符を給ふ。
同月二十九日。大師の表に依って毎年宮中金光明會の官符を賜ふ。七日間、眞言解法僧二七人、沙彌二七人を擇びて、一室を莊嚴し別に修法せしむ。護持國家に同じ、共に五穀を成就す。
同二年正月二十三日、眞言宗年分度者三人の度を賜ふ。八月二十四日官符を賜ふ。眞言宗年分度者の學業を試み、竝に得度の日處を定む。帝四朝を経て、國家のおん為に建壇修法し皇家を輔翼す。
同三年五月九日、官符を賜ふ。東大寺眞言院に於いて二十一僧を置き修行せしむ。
同十一月十六日、實惠の表により、國家の奉為に、東寺に於いて眞言宗傳法職位竝びに結縁灌頂が定め置る。恒例御願。大師御入定之後。諡號を賜位さる。皆詔勅あり。其後、代代御願の伽藍にして弘道を仰風し、供僧を割封す。竝びに亭子院法皇・圓融院法帝、御灌頂等の事は、各の別紙にあり。注湒する能はず。
抑も本朝傳眞言教、家家不同なり。而して東寺一家において諸家に勝ること十種殊勝ありと。
一灌頂殊勝 二受學殊勝 三梵文殊勝
四相承殊勝 五誓願殊勝 六寶珠殊勝
七道具殊勝 八入定殊勝 九法則殊勝
十外護殊勝
一、灌頂殊勝とは、青龍和尚相承の文に云く「即ち、兩部大法阿闍梨位毘盧舍那根本最極傳法密印を授す。此の印は廣智三藏南天より歸之後、惠果一人に唯授す。惠果和尚は又た弘法大師に唯授し餘人に授けず。是の故に惠朗は六を紹き七と爲す。師位を得ず。義明は
印可紹接すれども入室と謂はず。不空、惠果、既に之に授けず。隨誰傳哉。而他家與本處。爭力猶如游夏。
不聞張禹漫讒耳。

二、受學殊勝とは、付法傳(秘密曼荼羅教付法伝)に云「孔宣の三千、徳行は四人なり(孔子の弟子は三千人いても徳行の者は顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓のみであった)。廣智の數萬、印可は八箇なり(不空三蔵の弟子は数万いたが八人のみが印可を受けた)。就中、七人は金剛界一部を得、青龍は則ち兩部師位を兼得せり」と。又惠果阿闍梨行状に云く「常に門人に語って曰く『金剛界大悲胎藏兩部大教は諸佛の祕藏、即身成佛の徑路也。普く願はくは法界に流傳して有情を度脱せん。訶淩の辨弘、新羅の惠日は胎藏師位を授け、劍南の惟上、河北の義圓には金剛界大法を授け、義明供奉には亦た兩部大法を授く。今日本沙門空海あり、來りて聖教を求むるに、兩部の祕奧・壇儀・印契を以てす。漢梵差(えらぶ)こと無く悉く心に受くるに猶し寫瓶の如し』。爾乃ち不空は兩部祕奧を以て偏に惠果に授け、惠果は單に弘法大師に授く故に、先徳歎じて云く、『如來祕密之旨傳、印可相承、惠果甚深之詞、寫瓶、意を漏さず之に在る歟』と。
三、梵文殊勝とは、眞言深祕の旨は、梵字悉曇にあり。請來表に云「釋教は印度を本とせり。西域・東垂、風範天(はるか)に隔てたり。言語楚夏之韻に異んじ、文字、篆隷之體に非ず。是故に彼の翻譯を待ちて、乃ち清風を酌む。然れども猶し眞言幽邃にして字字義深し、音に隨って義を改むれば賖切(しゃせつ・緩急)謬り易し。粗ぼ髣髴を得て清切なることを得ず。是れ梵字にあらずんば長短別へ難し。源を存するの意、其れ茲に在り」と。是故に金剛智阿闍梨、初めに試みに不空に悉曇章を教えて梵經を誦せしむ。梵言の賖切(しゃせつ・緩急)一たび聞いて墜すなし。又不空三藏、竊かに惠果に告げて曰く「祕藏の器有り」「汝
必ず當に我法を興すべし」と。「大佛頂」「大隨求」の梵本、「普賢行願」「文殊讃の偈」を授く。其後梵夾を討尋すること二十餘年。書夜精勤、伏膺諮禀す。又惠果阿闍梨は弘法大師に授くこと、漢梵差なし。悉く心に受て猶ほ寫瓶の如し。故に知る、傳法の匠は寫瓶之器を得ることを。梵漢相竝び全く受學せしむことを。
若し單に漢字を学び梵本を習はざれば、猶し兒女士の假名經を讀みて漢字を知らざるが如し。他家雖傳梵本悉曇至于兩部大法諸尊瑜伽者。不得梵漢合存比授
傳受而已四相承殊勝者。大師遺告云「若し灌頂の流を存せる者は我身より始まり、祕密眞言は此時に立つ。
夫れ師資相傳嫡嫡繼來する者は、大祖大毘盧遮那佛、金剛薩埵菩薩に授けたまひ、金剛薩埵菩薩は龍猛菩薩に傳ふ。龍猛菩薩より下、大唐玄宗・肅宗・代宗三朝の灌頂國師特進試鴻臚卿大興善寺三藏沙門大廣智不空阿闍梨に至るまで六葉なり。惠果は則ち其の上足の法化(弟子)也。凡そ付法を勘(かんがふ)るに、吾身に至るまで相傳八代也。

出生義云「故に佛より已降、相ひ迭(つい)で付囑す。釋師子毘盧舍那如來において方便を得、授て誓約し、金剛薩埵に傳ふ。金剛薩埵、之を得て數百年、龍猛菩薩に傳ふ。龍猛菩薩、之を受て又た數百年、龍智阿闍梨に傳ふ。龍智阿闍梨、又た任持すること數百年、金剛智阿闍梨に傳ふ。金剛智阿闍梨、悲願力を以て、將に中國に流演せんと遂に瓶錫杖を摯とる。開元七載、自至上京、十載遂に其人を得る。後以誓約し、不空金剛阿闍梨に傳ふ。然るに其の枝條付屬には、頗る其人あり。若家嫡相承。准此而已。豈以夫瑣瑣苗裔可比此嫡嫡祖宗乎。假使葉直強條弱幹乎

五に誓願殊勝とは、請來表に云ふ、「空海與西明寺の志明・談勝法師等五六人と同じく往ひて和尚に見ゆ。和尚乍ちに見て笑を含み、喜歡して告て曰く『我先に汝が來ることを知りて、相待つこと久し。今日相見ること大ひに好し。命竭きなんと欲すれども付法に人なし。汝須からく速かに香花を辨じて灌頂壇に入るべし』と。」
惠果和尚碑文に云く「和尚掩色之夜、境界中において弟子に告げて曰く『汝未だ知らずや。吾と汝と
汝宿契之深きことを。多生之中に相共に誓願して
密藏を弘演す。彼此に代る師資と為ること只一兩
度のみにあらざるなり。是故に汝が遠渉を勸めて
我が深法を授く。受法已に畢りぬ。吾願も足りぬ。
汝西土にして我足に接す。吾は東生して汝の室に
入ん。久しく遲留する莫れ。吾前に在って去也』と。
私云。唐家和尚は師となり、大師は資となる。
本朝大師を師と為し、和尚を資と為す。香象は香象
を以て嫡と為し、輪王は輪王を以て父と為す。云く
師、云く弟。皆な是れ往古の佛菩薩也。
昔迦葉佛の時、二菩薩あり。兄は曰く日珠。弟は曰く月鏡。常に是の願を作す。生生處處に相捨せず、同
学知識正法を建立せん。昔の日珠月鏡は、今馬鳴龍樹是也。天竺の龍猛龍智、震旦の金智廣智、日本弘法大師、三國各の師祖となり、密教を弘演す。皆是宿願の
致す所也。曩代(前代)既爾、今時豈んや然らざらん乎。非蛇不知蛇足而已

六、寶珠殊勝とは、大師遺告曰「如意寶珠は方に
其實體を伺へば自然道理の釋迦の分身也。或時は
善風を出し雲を四洲に發して萬物を生長せしめ一切衆生を利益す。
水府(竜宮)陸地の萬物、誰か利益を蒙らざらん
哉。但し大唐大師阿闍梨耶付囑されるところの能作性如意寶珠、戴頂して大日本國に渡る。名山勝地に勞籠すること既に畢。是を以って密教劫榮、末徒博延なり。
私に云く、實に薄福者と為すも、暫も雖不雨寶。自然に善風を出し常に萬物を生長す。則ち是れ無爲の徳也。百性は日用して知らず。猶し壤父の帝力を忘る如き歟。

七に道具殊勝とは、大師の請來表に云く「
五寶五鈷金剛杵一口
五寶五鈷鈴一口
五寶三昧耶杵一口
五寶獨鈷金剛一口
五寶羯磨金剛四口
五寶輪一口
已上各の佛舍利を著す。

五寶金剛橛四口
金銅盤子一口
金花銀閼伽盞四口
佛舍利八十粒、就中金色舍利一粒
刻白檀佛菩薩金剛天等像一龕
白緤金剛界三昧耶曼荼羅尊一百二十尊
五寶三昧耶金剛一口
金銀鉢子一具二口
牙床子一口
白螺貝一口
健陀穀子袈裟一領
右八種の物等は、本と是れ金剛智阿闍梨、南天竺國より持ち來って、大廣智阿闍梨に傳付す。廣智三藏又
青龍阿闍梨に傳與す。青龍和尚又空海に傳賜したまへり。斯れ乃ち傳法の印信、萬生の歸依たるもの也」。
私に云く、如來付囑の袈裟は永く天竺鷄足山に留まる達磨法信の袈裟なり。今震旦曹溪寺に在り。
(迦葉は、釈迦から袈裟を受けて鷄足山に入定し、それが恵果から大師へと伝わった「健陀穀子袈裟一領」とするか)
唯眞言一家の印信道具は源を月支に出ず。大唐を過ぎて流れて日本にいたる。今東寺眞言に嚴重にあり。知べきもの歟。

八に入定殊勝とは、遺告曰「また弘仁七年、表して紀伊國南山を請ひ、殊に入定處と爲す。一兩の草庵を作り、高雄の舊居を去って南山に移入す。厥の峯は絶遙にして遠く人氣を阻てたり。吾、居住の時、頻りに明神の衞護有り。常に門人に語るらく、「吾性は山水に狎れて人事に疎なり。亦た是れ浮雲之類なり。年を追って終りを待つこと窟東となさん。乃至、吾去んじ天長九年十一月十二日より、深く穀味を厭ひて專ら坐禪を好む。皆な是れ令法久住の勝計、并びに 末世後生弟子門徒等の爲也。方に今、諸弟子等諦聽諦聽。吾生期今幾(いくば)くならず。仁等(なんだち)好く住して愼みて教法を守れ。吾れ永く山に歸らん。吾入滅せんと擬するは今年三月二十一日寅剋なり」。
承和二年三月十五日遺告之文也
私に云く「即ち定力を以て永く依身を留めらる。法久住ならしめ鎭護國家の為也。故に大寶積經に云「菩薩修定。復た十法あり。一修定吾我あることなし。如來の諸禪定を具祖するが故に・・乃至十修定能く正法を興し三寶を紹隆し便ち斷絶せざらしむる故に」。往古の聖人、鎭護國家之誠ありと雖も豈に入定留身之力の如きならん乎。

九に法則殊勝とは、弘法大師、「國家のおんために、修法を請ふ表」に云「沙門空海言す。空海幸に先帝の造雨に沐して、遠く海西に遊ぶ。儻(たまたま)灌頂道場に入て、一百餘部の金剛乘法門を授けらるることを得たり。其の經は則ち佛の心肝、國の靈寶也。
是の故に大唐開元已來、一人三公(皇帝、大尉・司徒・司空)親しく灌頂を授けられ、持誦觀念す。近くは四海を安んじ遠くは菩提を求む。宮中は則ち長生殿を捨てて内道場と為し、七日ごとに解念誦僧(修行の足りている僧)等をして持念修行せしむ。城中城外に亦た鎭國念誦道場を建つ。佛國の風範も亦復た如是なり。其の將來する所の經法中に、仁王經・守護國界主經・佛母明王經等の念誦法門有り。佛、國王の為に將に此の經を説きたまふ。七難を摧滅し、四時を調和し、
國を護り、家を護り、己を安んじ、他を安んず。此の道の祕妙也」と。請來表に云ふ「唯だ我祖大廣智阿闍梨のみいまして、初め金剛智三藏に受さずけ、
更に南天竺龍智阿闍梨の所に詣して、十八會瑜伽(十八会からなる金剛頂経)を括曩(ふくろの口をくくる)し。胎藏等の密藏を研竅したまふ。天寶中(713から741年)に、却って大唐に歸る。時に玄宗皇帝始て灌頂を受け、尊を屈して師資たり。自降、肅宗・代宗・相續して受法し、禁内に則ち神龍精舍を建て、城中に則ち普く灌頂壇を開く。一人百寮、壇に臨んで灌頂を受け、四衆群生膝歩して密藏を學ぶ。密藏之宗、是
日欝(さかん)に興り、灌頂の法は茲より軫(あと)を接ぐ」と。
私に云ふ、大唐は天竺の風範を移し内道場を建て、七日ごとに僧をして持念修行せしむ。此朝亦た唐風を移す。中務省内に一室を莊嚴し、毎月三箇日に晦御念誦を修せらる。佛僧供料し、大炊寮供奉す。又毎月十八日に、仁壽殿内に一室を莊嚴し、觀音供を修せらる。佛僧供料し、内藏寮供奉す。其後承和元年を以て、大師、詔命を奉り、中務省において始て後七日御修法を修せらる。此間、勘解由司廳に請申して眞言院を建立せらる云云。
又大唐不空三藏は、勅を被りて大官道場を以て祕
密之場と為し改號して青龍寺となす。本朝弘法大師は東寺を給はり、即ち眞言密教庭と為し既畢り
堂舍を結構し佛像を造立さる。年中行事、僧衆の威儀、皆な悉く青龍寺之風を移す。夫れ海内の伽藍幾千か或は本處を擬すや。纔に萬の一か。眞言一家に至っては全て佛國の風範を移す。豈に同日に論んずべけん乎。

十に外護殊勝とは、弘法大師、天長元年、詔
命を奉はり、神泉苑池邊において請雨經法を勤修さる。元と此池に龍王あり。名て善女。元と是れ無熱達池龍王の類なり。慈ありて人に害心を至さず。御修法の間、祕密壇に入り金剛天となる。即ち眞言奧旨を敬し、池中より現形し人に託して誓約す。祈雨の靈驗其れ明かなり。從爾より以降、祈請を致す毎に、降雨霶霈たり。智度論に云「訶波羅邏龍王、善心にして化を受け、佛弟子となる。世の飢饉を除く故に常に好雨を降らす。是故に國豐む、摩訶陀國也」と。彼を以て此れに准ぜよ。我朝の豐樂は只だ此の龍にあり。故に大師試みに云はく「若し此の池の龍王、他界に移らば、池淺く水減り、世乏しからむ。方に此の時に至って須く公家に知らしむべからず。私に祈願を加へて已む。可謂る大師雨露の功、猶ほ傳説風雲之徳に過ざる乎。抑も贍部州八萬四千聚落之中において、陽谷(日本)内准じて感ぜよ。祕密教事。見上。
又昔、威光菩薩摩利支天は即ち大日の化身也。
常に日宮に居り、阿修羅王の難を除く。今、遍照金剛は日域に鎭住し金輪聖王の福を増す。神號を天照尊といひ刹の名を大日本國といふ乎、自然之理、自然に名を立つ。誠に此之由を識る矣。
是故に南天の鐵塔は迮しと雖も、法界心殿を全包す。東乘陽谷は鄙と雖も皆是大種姓の人なり。明かに知れ、大日如來加持力之所致也。豈に凡愚の識る所ならん乎。今正に佛日再曜す、專ら聖運を仰ぐ焉。諸阿闍梨耶以前の氏族徳行は各別傳を見る矣。
今撰集する所者は只だ是れ密藏流布之大觀也。輒(すなわち)拙詞を課し敢て以って奉進す。謹みて眞言付法纂要抄を進ず。
康平三年十一月十一日

眞言付法纂要抄
康平三年十一月十一日
大法師成尊撰進
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