まほろば日記

fujioの日常の出来事、記録等を思いつくままに書いた日記です

淳仁天皇淡路陵に行く

2020-01-29 23:38:03 | 日常
令和2年1月29日
今日、淡路島の南あわじ市に行く仕事がありかねてより訪れてみたいと思っていた淳仁天皇の淡路陵を見物しました。47代の天皇でありながらその存在を抹消され明治時代になって復権したという悲劇の天皇です。ことの発端は孝謙上皇が道鏡を寵愛することを淳仁天皇が諫めたことで対立が深まったようです。
彼は独身の女帝・孝謙天皇から天平宝字2年{758年)譲位され、同時に孝謙天皇は太上天皇(孝謙上皇)となったが実権は握つたままであった。彼の後見人でもあり妻の父である太政大臣・藤原仲麻呂が同8年{764年)9月、乱を起こしたが失敗。彼は加担しなかったが翌月になり「仲麻呂と関係が深かった」ことを理由に廃位を宣告され淡路国に流され廃位となつた。翌年{756年)10月逃亡を図ったが捕まり殺害された。公式には病死となっているが葬礼をしたとの記録も存在していない。再び女帝が返り咲き48代天皇・称徳天皇として即位した。敵対した称徳天皇の意向により天皇としての存在が抹消され、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていたが、次の49代・光仁天皇により現在地の南あわじ市賀集に山形形式の陵が造られた。
近世の明治3年になり、明治天皇から「淳仁天皇」の諡号を送られた。
明治6年には同様には配流先で憤死し、「三大怨霊」として名高い崇徳天皇を祀る白峰神宮に合祀されて慰霊に努めた。
御陵は玉ねぎ畑の広がる畑の中の小高い森の御陵でした。隣には天王池というため池がありました。この辺り一帯は山に囲まれた広い湿地帯の様なところです。
この先1キロのところには母親の「山背」の小山の御陵がありました。同じく宮内庁の管理のもとにあるようですが「崇道尽敬皇帝妃 大夫人山背淡路墓」との看板が掲示してありました。
「崇道尽敬皇帝」とは父親の舎人親王(天武天皇の第6子)の尊称。
一緒に配流されて来て殺されたのでしょうか。
この時代は索漠とした殺し合いの時代、噂、密告だけで有罪とされた時代。葬儀も行われないとは、天辺地異、死亡や不可思議な出来事があれば怨霊が原因とされ慰霊した時代。天皇後継者が次々に殺害され、人材不足も女帝誕生の因ともなったのではないでしょうか。
静かで質素なたたずまいでしたが小鳥たちのにぎやかな声に少しは心が安らぎました。

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