電脳筆写『 心超臨界 』

だれもみなほめ言葉を好む
( エイブラハム・リンカーン )

19世紀のヨーロッパでは、国家成立史を中心に歴史学の急速な発展を見た――高山博さん

2009-10-13 | 04-歴史・文化・社会
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「歴史から見る現代」
東京大学教授・高山博

  [1] なぜ歴史を学ぶのか
  [2] グローバル化が分水嶺
  [3] 過去とは未知の世界
  [4] 偏り除き事実に迫る
  [5] 資料から過去を復元
  [6] 欧州近代歴史観の限界
  [7] 揺らぐ国民国家
  [8] 冷戦後の世界
  [9] 単線史から全体史へ
  [10] 持続する知の重要性
  [11] 未来見通す光に


「歴史から見る現代」――[6] 欧州近代歴史観の限界
【 やさしい経済学 09.10.12日経新聞(朝刊)】

歴史は最初から存在するものではないし、自然に生まれるものでもない。人々の活動があっても、それは意味を与えられて人々の記憶にとどめられなければ、歴史とはならない。個人の歴史でも、君主の歴史でも、国の歴史でも、歴史はある個人がある時点から過去をふりかえって、現在の自分自身あるいは自分が属する集団の由来や来歴を説明するところから始まる。それは、単なる好奇心から発する場合もあれば、自らの支配の正当性や血統の優秀さを誇示するために意図的に作り上げられる場合もある。

しかし、一度生み出された歴史は、時に、その後の人々が共有する歴史の礎となり、様々な修正を受けながら、集団の記憶となる。この歴史を共有する集団は、拡大したり縮小したり、分裂したり統合されたりしながら、記憶としての歴史を保持してきた。

しかし、そのような集団の記憶としての歴史は、文学として記録されることにより長い生命力を獲得し、時には、後の時代に作られる新たな歴史の礎となる。多くの集団を支配する広域政権が生まれたところでは、大抵その統治者の功績をたたえたり、統治者の正当性を示したりするために歴史書が書かれた。

ヨーロッパでは、近代国民国家が成立する時期に、それまでの様々な歴史が、国の歴史へと整序されていった。国境内に強力で排他的な支配権をもつ国家は、その成立の正当性を確保する意味でも、また、その成員に集団の記憶を共有してもらう意味でも、国の成り立ちを説明する歴史を必要とした。

こうして、19世紀のヨーロッパでは、国家成立史を中心に歴史学の急速な発展を見たのである。この時代には、時間の流れや集団の記憶としての歴史を含む様々な差異が、近代国家の枠組みで統合され、平準化されていった。つまり、それまで重層的に存在していた多様な法慣習・言語・文化の広がりが国境によって分断され、国ごとに固有の時間や歴史が再編されたのである。これ以後、ほとんどあらゆる分野で国家が基本的枠組みとなった。法慣習・言語・文化、そして経済活動までも、この枠組みに大きく規制されるようになった。

このヨーロッパの近代歴史学は、20世紀半ばまでについてはそれなりの説得力を持ちえたように見える。しかし、ヨーロッパ以外の地域の政治的、経済的、文化的存在感が飛躍的に増した今日、このヨーロッパ中心的歴史観が説得力を持ちええないのは明らかである。

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