電脳筆写『 心超臨界 』

人生の逆境は、人の個性から最善を
引き出すために欠かせないものである
( アレクシス・カレル )

客観的に復元しえない過去を、できるだけ客観的に復元しようと努力する――高山博さん

2009-10-10 | 04-歴史・文化・社会
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「歴史から見る現代」
東京大学教授・高山博

  [1] なぜ歴史を学ぶのか
  [2] グローバル化が分水嶺
  [3] 過去とは未知の世界
  [4] 偏り除き事実に迫る
  [5] 資料から過去を復元
  [6] 欧州近代歴史観の限界
  [7] 揺らぐ国民国家
  [8] 冷戦後の世界
  [9] 単線史から全体史へ
  [10] 持続する知の重要性
  [11] 未来見通す光に


「歴史から見る現代」――[5] 資料から過去を復元
【 やさしい経済学 09.10.09日経新聞(朝刊)】

史料が幾重にも重なる認識のフィルターを帯び、研究者の主観も排除できないとすれば、客観的な歴史研究はありえないのではないかという疑問が生じてくるかもしれない。実際、歴史家の研究成果や作品には、常に主観的解釈が介在しているという批判、史料(テキスト)から過去の現実を見ることはできないという批判が存在している。

もちろん、最終的には誰も過去を客観的に復元することも認識することもできない。私たちに過去の本当の姿を知ることはできないし、客観的な歴史が存在するわけでもない。しかし、歴史家は、そのことを了解した上で、過去を研究しているのではないだろうか。歴史学にかぎらず、いかなる学問も、絶対的な客観性を保証されているわけではないし、究極の真理、あるいは、現実を手にすることができるわけでもない。

学問は私たちが生きている世界にかかわるあらゆることがらをその研究対象にしうる。そこには、私たちの精神活動や思考も含まれる。現実に存在していると見なされるものすべてが、学問の対象となるのである。そして、学問はそれらの様々な現象を言葉の論理によって、説明しようとしている。すべての学問は、人間が生活している世界(外界)を認識することができる。歴史学の場合は、その研究対象が過去から現在に至る人間社会というだけである。歴史家は過去の人間社会に関する断片的な情報を集めて、自然科学者たちと同様、その現象を理解するための説明の体系を作ろうとしているのである。

私たち人間が自分の生活する世界を客観的に認識することは最終的には不可能である。しかし、私たちは外界を認識しようとしている。たとえ最終的に不可能だとしても、自分が住んでいる世界に関するより客観的な、つまり、より整合性のある説明の体系を作りたいという強い欲求をもっているのである。

そして、人々に過去をよりよく認識したいという欲求があるかぎり、歴史家は最終的には客観的に復元しえない過去を、できるだけ客観的に復元しようと努力する。歴史家は自分が持つあらゆる能力を用いて、史料から過去を可能なかぎり客観的に復元しようとする。そして、歴史家が史料を読み解く技術と知識を身につけた上で、史料から過去を客観的に復元しようとするかぎり、歴史学は歴史を恣意(しい)的な自己表現の場にすぎないという批判はあたらないだろう。

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