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謝花昇

2016-08-16 22:48:09 | 日記


謝花昇(じゃはな・のぼる)1865~1908(明治41)は、
沖縄の自由民権運動の中心的人物。

若い頃、カメラ片手に沖縄ひとり旅で彷徨っていた私は、
沖縄南部のとある小学校を訪ねました。
その小学校に、謝花昇の資料があると何かに書いてあったからです。
しかし、学校によると彼の資料は在るのだが、何んの整理もしていないとの事でした。
ひどくガッカリして小学校を立ち去ったのを記憶しています。

謝花昇は、沖縄の貧しい農家の出身です。
父親は、農民に教育は要らない主義でしたが、
小学校時代から俊才と言われるほどに優秀でした。
向上心の強い昇の気持ちを思った母親の存在で、
県費留学生5人の1人に選ばれて上京。
学習院から東大農学部に入学、中江兆民や幸徳秋水らと知り合い、
自由民権運動に触れました。

1891年(25歳)に卒業後、
沖縄に帰った昇は沖縄県庁の技師となります。
そして沖縄県人として初の高等官となって農業の近代化に奔走します。

ところが、沖縄県知事に赴任した、
薩摩藩出身の、奈良原繁と対立します。
奈良原繁は県知事として沖縄開発を専制的に進め、
最終的には琉球王と呼ばれるほどの存在となった人です。



奈良原県知事は周辺を薩摩など、本土出身者で固め、私腹を肥やします。
それを見抜いた謝花昇は知事一派の排斥運動を起こします。
しかし、奈良原県政やそれに癒着する支配者の抵抗は大きく、
さまざまな妨害に遭います。

それでも何とか努力が実って、
1898年に沖縄県民に参政権を付与する選挙法改正案が議会に提出されます。
ところが、時期尚早を主張する政府の反対にあい、
権利は与えるが勅令によって定める事となり、
いわば有名無実となってしまったのです。

これは謝花にとって敗北に等しいものでした。
同志はまたたく間に去っていき、運動は急速にしぼんでいきました。
全財産を失った謝花は生活も苦しくなり、
1901年、職を求めて山口県へ赴く途中に発狂してしまいます。
そして、不遇のうちに1908年、
44歳の若さで病死したのです。






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