河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

懐かしのラジオドラマ

2018-01-24 06:32:29 | 日記
◆T15. 笛吹童子 (ステレオ) ひばり児童合唱団


1952年から1960年にかけて、
NHKラジオで月曜日から金曜日、6時30分~45分まで、
15分間放送され、日本中の少年少女を夢中にさせたのが、
「新諸国物語」の時代活劇でした。

1952年(昭和27年)白鳥の騎士
昭和28年・・・笛吹童子
  29・・・・紅孔雀
  30・・・・オテナの塔
  31・・・・七つの誓い
  32・・・・天の鶯
  33・・・・黄金孔雀城

この中で最初に有名になったのが、
第二作の「笛吹童子」だと思います。

「♪ ヒャラーリ ヒャラリコ
  ヒャリーコ  ヒャラレノ」

この歌詞を胸を熱くして聞いた少年少女がどれだけ居たか?
かく言う、当時小学生だった私も、
平日の午後6時30分を心待ちにして、
ラジオに耳を傾けて聴いたものです。

この歌を聴くと、あの子供だった頃を思い出します。
まだ何も無かった時代、
家庭内の娯楽と言えば、ラジオだけしかありませんでした。
テレビ時代の今から思うと、何と退屈かと思いますが、
それを知らない時代には「退屈」などと思った事などありません。



ここにはテレビがありますが、
それの無い時代はみなラジオだけでした。

家族みんなで、耳をそばだてて聴いたラジオドラマ。
それは、現代の家庭が一人一人別々のテレビを観ているなんて、
まとまりの無い、空虚感などは、そこにはありませんでした。

お父さん(私の家には居ませんでしたが)お母さん、
そして子供たち全員が、耳を澄ませて聴いたのです。
一台のラジオに耳を集中させていたのです。

お母さんは夕食作りの手を休め、
子どもたちは宿題の手を休め、
15分間の夢物語の世界に、本当に夢中になりました。
そんな時間は、今はもう無いもので、
素朴の中に(人としての心)があったのです。
それは今思い出すと、どれだけ素晴らしく輝いていた事かと思うのです。

◆T12. 紅孔雀のうた 諏訪佳代子& ゆりかご会


笛吹童子が終わり、次に放送されたのが「紅孔雀」
このドラマも前作に負けない秀作でした。
NHKはまたまた子供たちの胸をとらえてしまいました。
良かったですね~、夢中になりました。

新諸国物語 オテナの塔


紅孔雀の後に放送されたのが、
この「オテナの塔」という事なのですが、
これは、何故か記憶に残っていないのです。
ただ、その主題歌だけは何となく少し覚えています。

TV・映画主題歌: ♪新諸国物語 七つの誓い(三角帽子) 歌:beni9jyaku(紅孔雀)


その次(昭和31年)に放送されたのが「七つの誓い」
これは私を最も夢中にさせました。
映画館に行った事も覚えています。

東千代之介・中村錦之助・大友柳太朗・片岡千恵蔵・月形龍之介・伏見扇太郎・
千原しのぶ・高千穂ひずる・丘さとみ・大川恵子・

そんなスター達の名前を聞くだけで、
あの頃を思い出し、夢の世界に・・子供の頃に戻れるのです。



30代の頃、
湘南電車で、あの悪役だった「吉田義夫」を見かけた時は嬉しかったな~。
きっと大船の撮影所にでも行く所だったのでしょう。
でも、あの悪い奴だった彼が懐かしく思えて嬉しかった。

風雲黒潮丸 - ラジオ劇主題歌


この歌もNHKのラジオドラマだとばかり思っていたのですが、
それはどうも違うらしいのですが、
私はこの歌を何故か強烈に覚えているのです。

いずれにしても、
あの時代のラジオドラマは、
現在のテレビ以上に日本中を熱くさせました。
「君の名は」がいい例でしょうね。

あんなに心を熱くさせてくれたラジオドラマ。
貧乏で、ささやかで、幸せだったあの時代。
本当に(心が豊かで幸せ)でした。







コメント
この記事をはてなブックマークに追加

アントニオ猪木の身長にビックリ

2018-01-21 05:44:41 | 健康
アントニオ猪木さん、なんでも鑑定団に登場!! 力道山の遺品を鑑定


プロレスラー・アントニオ猪木の身長は190センチです。

身長190センチ・体重102キロ(全盛期108キロ)



それは、猪木が全盛期の写真などを見ても分かります。
左の、カール・ゴッチの身長は188センチです。
また、様々な写真・動画を見ても190センチでした。
仮に何センチかのサバをよんでいたにしても188センチはあったでしょう。

プロレスラーはよく身長にサバをよみます。



力道山の公式身長は180センチでしたが、
実際は176センチでした。
これは様々な記録など見ると、間違いないと思われます。

しかし、テレビの「お宝鑑定団」を見てビックリしました。
これは多分2~3年前のテレビかと思います。
この時の猪木の年齢は70歳を少し越えたあたりでしょう。

右側の今田耕二の身長は174センチ。
左側の福澤朗は181センチだそうです。

ではアントニオ猪木は・・180センチを越えたとしても数センチ。
182センチくらいにしか見えません。
どう見ても190センチなどには見えませんね。

数年前、猪木が北朝鮮に行ったかした時に、
大勢のマスコミに囲まれての映像を観た時に、
私は「あれッ?おかしいな~」と感じました。
だって猪木より背の高いマスコミが幾人かいるのです。

190センチを越える一般人などそうそう居る筈がありません。
その時から、何か変だな~とは思っていましたが・・・

それでネットで調べてみたら、
数年前の記事にこんなコメントがありました。
猪木本人の言葉ですが、
「まだ180センチはありますが、縮んじゃうのはどうし様もないですね」と。

確かにプロレスラーという仕事は一般人とは、
比べ物にならない肉体の酷使です。
尋常でない肉体の酷使の連続で、
きっと軟骨組織がかなりすり減ってしまうのでしょう。

しかし、あの強い男・大男のイメージが強い、
アントニオ猪木が、こんなに背が低くなってしまうなんて。
96歳で逝った私の母も、
153センチだったのが、最期は146センチでしたけど。
それは一般人の女性だから仕方ないにしても、
アントニオ猪木には、そうなってほしくなかったね。

それにしても5センチ以上、
10センチ近く身長が縮んじゃうなんて、ガッカリしました。
もう、最近の猪木の映像はあまり見ない様にしよう。
若き日の強かった猪木のイメージがぶっ壊れちゃうよ。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

清里・・あれは何だったのか?

2018-01-19 10:06:02 | 旅行
清里1986年


1970年代から1980年代にかけて、
長野・山梨県境の清里高原に一大ブームがありました。

当時の女性雑誌「アンアン」「ノンノ」が、
清里・野辺山周辺の八ヶ岳山麓の高原地帯を取り上げたのです。
それがきっかけになって、いわゆる「アンノン族」が大挙して訪れ、
一世を風靡する清里ブームが起きました。





清里には中央線・小淵沢駅から小海線に乗り換えて行きます。
小海線はJRの中で最高の標高駅(野辺山駅)がある高原鉄道です。

私が初めて行ったのは1970年末頃、
まだ30歳になるかならずかくらいだったと思います。
「清里に行けば何かが起こる」
などと、若気の至りの馬鹿丸出し。
それでも小淵沢駅から、いざ小海線に乗り換える時など、
周りの若い女性たちばかりが気になって、胸がドキドキしました。
「さぁ、何かが起こるぞ~ッ」



清里と言ったら「清泉寮」
そこでソフトクリームをほお張るというのが、
清里に来た証でもありました。

私は宿泊予約などせずに、出たとこ勝負の旅行。
最盛期でもあったので宿が取れずに、どうなる事かと思ったのですが、
野辺山駅の近くに「列車ホテル」があって、
そこは使われなくなった寝台車の車両がホテルになっているのです。

そこで、何処で知り合ったのか全然覚えていない女性にくっ付いて、
列車に入ったのですが、
車両は男性専用車両と、女性専用車両に分かれているのです。
私はちゃっかりその女性と女性専用車両に居座ってお喋り。
これから何かが起こるぞと、いい予感だったのですが、
女性の車掌さんが来て「男性はあっちの車両に出て行って下さい」
と、無情にも追っ払われてしまいました。
あ~、勿体なかったな~。
その頃から俺はスケベやってたみたい・・・

その何年か後に、もう一度清里に行った様な・・
清泉寮への道を歩いていたら、向こうから来る家族連れ。
「あれ?この男どっかで見た事がある」
お互いに思いは同じだった様で、向こうも立ち止まって私を見ている。
私が思い出せないままで突っ立っていると、
向こうが「城南中学」と言ってきた。
そうだった、こいつとは同級生ではないが、
同期生だったのだ。
彼とは数年、年賀状のやり取りをしました。



私は結婚して、中国人の妻を連れて清里方面にドライブに行った時。
国鉄最高地点で、向こうから小海線の車両が走って来ました。
それを見た妻は、
人生でこんなに笑った事は無いというほど、腹を抱えて大笑い。
私は意味が分らずにポカーンとしていたら、
「かわ(妻は私を赤川の川で、かわと呼んでいたのです)、
かわ、電車ひとつッ!」
そうなんですね、中国では列車は何十両とながーい編成でやって来るのです。
それが、たった一両で電車が走っているのを産まれて初めて見たのでした。
彼女にすれば、そりゃビックリしたんでしょうね~。
あの頃は私も新婚で、楽しい時代だった・・・

そして、現在の妻と行ったのは、
2014年に清里にキャンプに行った時でした。
再び見た清里に、昔の面影はありませんでした。













人影もまばらで、
最盛期の「高原の原宿」と言われた喧騒はまるで夢の如し。
建物が残っているだけに、人が少ない事が尚更目立つのです。

若い頃は気恥ずかしいくらいに、
白やピンクといった乙女チックな建物が、若い自分の
欲情をそそるみたいな、卑猥なイメージすらあったのに、
それが年老いた現在の私には、
若い頃の恥を見せつけられたみたいで、もううつ向いてしまうのです。

清里自体は本来、とてもいい観光地なんですが、
あの、足が地に着いていない喧騒がイメージをすっかり損ねてしまっているという、
損な、勿体ない気がしてお気の毒。
乙女チックな建物を全て取り壊して、
もっと大人にいいムードに作り替えられれば、
昔とは全然違い、いい観光地になるんでしょうがね~。

でも、
大袈裟に言えば「我が青春の清里」的な思いの残る所なんですね。



コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

天才作曲家・古関裕而

2018-01-17 14:51:43 | 音楽
「昼のいこい」のテーマ


私は、古関裕而を天才作曲家だと思っています。



NHKラジオで昼にかかるテーマ音楽「昼のいこい」
ずっと以前から「実に日本の農村風景を彷彿とさせるいい音楽だな」と、
思っていましたが、
これが、古関裕而作曲である事を知ったのは、
かなり大人になってからでした。

「エレキの神様」こと、寺内タケシは、
この音楽を聴いて、プロになる決心をしたと以前、語っていました。

古関裕而・本名は勇治。
1909年(明治42)福島市生まれ。
1930年(昭和5)日本コロムビアに作曲家として入社。
1989年(平成元年)80歳で死去。

早稲田大学応援歌 紺碧の空  高音質音源


1931年(昭和6)
早稲田大学・応援歌「紺碧の空」
この歌が評判になり、作曲家・古関裕而の名が世間に知られる様になります。

古関裕而は曲を作る時は、一切の楽器は使わずに、
五線紙とペンだけで作曲したそうです。
仕事部屋には3つの机が置いてあり、
ひとつの机毎に違う曲を書いていて、3つを同時に作曲していました。
それもそうです、生涯5000曲という事は、
4日に一曲を作曲していた計算なのですから。

「曲は技巧で作るものではありません、心で生み出すものです」
彼はそう言っていたそうです。

耳が全く聞こえなくなってからも名曲を作曲し続けた、
あのベートーベンを思わずにはいられません。
楽器などで音を確認するまでもなく、
彼もベートーベンも、「音」がハッキリと聞こえていたのですね。
これを「天才」と言わずして何を天才と言うのでしょう。

彼の作曲は5000曲に及ぶそうです。
日本中の学校の校歌も数多く手掛けていて、
47都道府県中、4分の3は彼の作った校歌が残っています。

有名な歌を書いてみると、
「露営の歌」「暁に祈る」「長崎の鐘」「憧れの郵便馬車」「高原列車はゆく」
「とんがり帽子」「君の名は」「栄冠は君に輝く」「スポーツ行進曲」
「愛国の花」「夢淡き東京」「イヨマンテの夜」
「東京オリンピックマーチ」「紺碧の空」・・本当にキリがないのです。
面白いのは野球の巨人軍の応援歌「闘魂こめて」と、
そのライバルである阪神の応援歌「六甲おろし」
この二つとも古関裕而が作曲しているのです。

闘魂こめて


六甲おろし 唄:立川清登


私は20代後半から中国の歌に魅せられ、
40年以上、中国の歌一辺倒でした。
持っていたカセットテープ、レコードの類は、
100本以上でしたが、
それらを買う時は何を基準に買っていたか?

まるで手掛かりが無いのですから、すべて当てずっぽうでした。
しかし、その内、手掛かりが分ってきたのです。
つまり、歌手ではなく作曲家なんです。

いい作曲家は、いい歌を作曲するのです。
ダメな作曲家は、やっぱりダメなんです。
A級の作曲家は失敗作でもB級の歌ですが、
B級の作曲家がA級の歌を作曲する事はまず、ありません。
彼等は出来が悪いとC級の歌となり、つまり話にならないのです。

ですから、カセットを買う時には、作曲家で選ぶのです。
そういった基準で選ぶと、
それが日本の場合ですと古関裕而に行きつくのです。
彼の作品には、外れはほぼありません。
作曲というのは「才能」だけしか無い、それが全てだと私は思っています。
才能の無い人はどうあがいても、B級の歌しか作れないのです。
それも、B級が出来れば上出来で、
ほぼC級の歌しか出来ないのですね。

古関裕而の凄さは、
単なる歌謡曲だけではなく、
世界的なレベルから言っても一流の行進曲も作曲している事です。
「スポーツショー行進曲」「東京オリンピックマーチ」

スポーツショー行進曲/古関裕而の世界


これは、行進曲レベルから言ってもかなり「いい曲」です。
この延長にあるのが「東京オリンピックマーチ」です。
これも、世界的レベルの行進曲な事は間違いありません。

「箱根駅伝」のテーマ曲も、
古関裕而が作曲していれば「喜びの飛行」
あるいは、それ以上の名曲を生み出していたかも知れません。
日本テレビで「箱根駅伝」のテーマ曲を現在、作曲中です。と聞いた時、
「これは絶対に失敗作になる」と私は確信し、その通りになりました。
曲というのは作曲家が全てなんで・・で、失敗作を我々は毎年、聴かされているのです。

AIKOKUNOHANA / MORIMASAKO


あまり知られてはいませんが、
こんないい歌もあったのですね「愛国の花」

古関裕而・・いつまでも、いつまでも生きていて欲しかった天才作曲家。







コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

ド迫力・超ド級という言葉

2018-01-16 14:26:10 | 軍艦
妻が「超ド級」という言葉を知りませんでした。
では「ド迫力」はと訊いたら、それは知っていました。
実は、超ド級のドと、ド迫力のドは、同じ意味を持つのです。

これは以前、ミクシーには書いたと思うのですが、
それではという事で、再び解説したいと思います。

ドというのは、軍艦の名前から来ているのです。
その軍艦とは、イギリスの戦艦「ドレッドノート」



1906年(明治39年)
イギリスはそれまでの戦艦の常識を一変させる画期的な戦艦を造り上げます。
それが「ドレッドノート」
「ド」とはこのドレッドノートの頭の「ド」を取っているのです。
18000トン。全長160メートル。全幅25メートル。速力21ノット(時速38,9キロ)
この戦艦はそれまでの戦艦を一気に旧式艦にしてしまいました。

それまでは、日本の戦艦「三笠」が最も強い戦艦でした。



戦艦・三笠(日本海海戦で旗艦を務めた有名な戦艦です)
15000トン。全長132メートル。全幅23メートル。速力18ノット(時速33,3キロ)

重さは3000トン増えただけだったのですが、
その砲力が桁外れだったのです。

三笠・12インチ砲4門なのが、
ドレッドノートは、同じ12インチ砲ながら、その数は10門。
一気に三笠の2、5倍になったのです。
そして速力も速くなりました。
これではまるで、勝負になりません。

ドレッドノート以前の世界中の戦艦が、
その日を境に全てが(旧式艦)扱いにされてしまったのです。

日本の戦艦「薩摩」「安芸」などは、
まだ造船所で建造中だったのですが、
完成を待たずして「旧式艦」に成り下がるという事態になります。

世界中がドレッドノートに驚愕し、
こぞってドレッドノート級戦艦を造る建艦競争が起こります。

ドレッドノート以前に造られた戦艦を「前ド級戦艦」
ドレッドノートと同じクラスを「ド級戦艦」
そして、以後段々とドレッドノートを越える戦艦が建造される様になりますが、
それらを「超ド級戦艦」と言います。

「ド迫力」「超ド級の新人」といった具合に、
「ド」というのは桁外れに強力であるといった意味に使われます。

日本語では「弩」という漢字が使われています。

ただ、「ど根性」「どあほ」「ど真ん中」などは、
ドレッドノートとは無関係で、それ以前から使われていた様です。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加