大学院の修士2年の時、研究室の調査旅行でロシアへ2週間滞在した。訪れたのは、ロシア極東の、ハバロフスク、ウラジオストク、それから首都モスクワ。
帰国後、この旅行中に書き留めていた日誌を加筆して、ひとまとまりの日記とした。以下は、2006年12月になって、当時のテキストデータをBlog記事とした日記である。
帰国後に加筆編集しているため、帰国後に起きた事柄も記載されているが、原則的に、加筆は1992~93年に行っており、今回のBlog化に際してはほとんど加筆していない。従って2006年時点では、既に状況が異なる事柄もかなり多い。また、Blogというシステム自体が存在しなかった時代に、Blogを使って日記を書いたことになってしまっている。
軍港都市ウラジオストクは、冷戦の終結を受け、90年台になって、ようやく外国人の立ち入りが認められた街で、1992年当時は、訪れる外国人もまだ少ない状態だった。現在では、かなりアジア系の外国人も多くなったようだが、当時はまだ日本人などは珍しがられた。ソビエトからロシアになったばかりで、経済状態・経済感覚も、日本とは全く異なる文化であるので、かなりのカルチャーショックを私は受けた。
私の初めての海外旅行は、このロシア旅行だった。以下は、初めて外国へ行った私が、限られた範囲ながら体験した、ロシアという国の実態についての記述である。
帰国後、この旅行中に書き留めていた日誌を加筆して、ひとまとまりの日記とした。以下は、2006年12月になって、当時のテキストデータをBlog記事とした日記である。
帰国後に加筆編集しているため、帰国後に起きた事柄も記載されているが、原則的に、加筆は1992~93年に行っており、今回のBlog化に際してはほとんど加筆していない。従って2006年時点では、既に状況が異なる事柄もかなり多い。また、Blogというシステム自体が存在しなかった時代に、Blogを使って日記を書いたことになってしまっている。
軍港都市ウラジオストクは、冷戦の終結を受け、90年台になって、ようやく外国人の立ち入りが認められた街で、1992年当時は、訪れる外国人もまだ少ない状態だった。現在では、かなりアジア系の外国人も多くなったようだが、当時はまだ日本人などは珍しがられた。ソビエトからロシアになったばかりで、経済状態・経済感覚も、日本とは全く異なる文化であるので、かなりのカルチャーショックを私は受けた。
私の初めての海外旅行は、このロシア旅行だった。以下は、初めて外国へ行った私が、限られた範囲ながら体験した、ロシアという国の実態についての記述である。
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