昨日は、朝早くに、従兄弟たちが帰るというので、お土産用意するの忘れてて。
さて、と。
9時前に買い求め、というのは、どうしたものか、だったんだけど。
静岡駅のキオスクが開いていて。
朝の6時過ぎからなんだよね、たしかに、新幹線で帰る時に、便利だな。
結構、人も並んでいて、だった。
どうも、追分羊羹が気に入っていて、それを買い求め、だけでなく、わさびづけやら黒はんぺんやらがあり。
あれもこれも、なんて気になっちゃったんだけど、さすがに、過ぎたるは及ばざるが如し、ってことだな。
やめといた。
そんなこんなで、無事終了。
夕べは、その喪主とのわが家での呑み。
あれやこれやと懐かしい昔話、思い出話に花が咲いた。
土地とか家とか、そういうモノをきっかけとしてのそれぞれの思い出、ね。
改めて、つくづく、人間ってのは、精神というのか、意識なんだな、なんて思ったな。
意識の堆積、集積、というわけだ。
しかも、それはなかなかに見える化が簡単なようでいて難しくも楽しくもあり、ってことだな。
法要の時のお経の冒頭、あまねく、という言葉が耳に入ってきて、そうか。
おじは、この後、あまねく、これらの人たちの日常であったり人生であったりの中になんらかの徴をもたらすんだろうな。
なんて気分になった。
人間ってのは、一人で生きているようでいて、その実、此岸彼岸の人々とともにあり、そんな人々と生きているようで。
実は、一人、なんて感じでもあるな。
その辺りの塩梅が、いい塩梅かどうか、ってのだね。
どちらかに偏り過ぎず、とね。
そうだ、そのお寺さんに、「行基の時代」という本、金達寿著、ってのがあったな。
なにせ、僕の前世は、行基さんだ、なんてある霊能者に言われたことがあったので、ね。
その言に縛られることもないけれど、なんらかのご縁の言葉でもあるんだろうから。
ま、このところ、またぞろの病気みたいな、いつの間にか本が溢れ始めてもいるんで、要注意だけど。
というわけで、半夏生ず、の夏至・末候の月曜日に出かけるとするか。