今朝の表題は、なんの脈絡もないけど、たしか、三ヶ日みかん、と書くんじゃなかったかな。
なんて気分になったのでした。
としたら、年中、めでたい地名だな、と。
年の初めの極め付けは、フォームローラーに出会ったことだ。
円筒形の50センチくらいのやつで、カラダの下に敷いてほぐす、というもので。
娘に聞くと、バレーの選手が、試合の前後にみんな使ってる、と。
いわゆる筋膜リリースというウタイだけどね。
これがいい。
カラダの筋肉、って、そこここに使ってない部位があるみたいで、使わない、硬くなる、他に影響。
で、痛みになる、なんて関係らしい。
この間、著者名忘れた本、彼の言い方は、とにかく、動かないことが害悪だ、カラダにとって、というわけで。
何本、筋肉があるのか知らないけれど、相当数が、大して動かさずに日常を送り、腰が、膝が、肩が。
痛い、ってことになるようなんだよね。
ま、とにかく、気に入ったものに出会った次第。
こいつは春から縁起がいいわい、ってなもんだ。
なにか、今年を象徴するような出会いだな。
楽しみだ。
年始のツイートだったかな、日本人は、become、〜なる、とかいう言い方が得意だな、そこが問題だ。
みたいな書き方を、どこぞのインテリゲンチャがしていたような、うろ覚えだけど。
よく主語がない、なんて言い方、あるよね。
ところが、ここんとこ、もしかしたら、とても深い境地の表れかも、という気もしていて。
うまく言い表せないんだけど、ずっと前にご紹介した。
国分功一郎さんという哲学者が、中動態という、つまり、〜する、と、〜されるの間に、その昔は。
〜なる、というような、言葉の使い方を、自分のことに対してしていた時代があった。
のだけれど、いつの間にか、それは消えていた、なんての。
書いていて、それ、いまだに気になっているんだよね。
近代、現代の法治国家は、自分のしたことは自分で責任取らなきゃ、ということで成り立っている、ともいえて。
知らぬ間に、こんななっちゃっていたんです、じゃ、刑法の責任を取れないじゃないか、ってなもんだ。
のだけれど、実は、自分がしているようで自分じゃない、なんてこと、あるんだろうな、と。
言ってみれば、大きな意識、あるいは、なんだろう。
出会いにしても、いろんな出来事が我が身にやってくることにしても、大きな縁(えにし)とでもいうか。
自分の力でないもの、宇宙でも、神でも、なにか、そんな大きくて深くて遠くて、そんな領域から訪れる。
なんて気分にもなろうってもんだ。
と、年の初めから大言壮語して、本日のブログ、終了します。