おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

沈黙

2019-05-03 11:26:31 | 日記

 マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」を観た。スコセッシ監督と言えば何と言っても「タクシー・ドライバー」が有名だろう。それまで「スター・ウオーズ」とか「ジョーズ」とか、映画とはそんなものと思っていた僕が、初めて映画にはもっと深刻なものがあると知ったのが、ベトナム戦争の帰還兵を主人公にした「タクシー・ドライバー」だった。

「沈黙」の原作は遠藤周作だ。遠藤周作と言えば、日本でも珍しいカトリック信者としての作品も多く、「沈黙」でもキリシタン弾圧下の宣教師や信者たちが描かれている。キリシタン弾圧は日本の出来事なのに、日本映画やドラマでは今まで取り上げて来られなかったテーマじゃないだろうか。第二次大戦下の硫黄島の戦争を描いた「硫黄島からの手紙」も、クリント・イーストウッドが監督を務めたが、日本人以上に日本の歴史に興味を持っている外国人がいるのには畏れ入る。

 「沈黙」の中で、宣教師のこういうセリフがある。日本ではキリスト教信者になる者が大勢いたが、それはキリスト教の精神とは異なるもので、日本的な解釈の神様だ。日本という国は沼のようで、結局キリスト教は根を張ることができなかった。

 日本という国は、ほかの国のようにイスラム教やキリスト教、ヒンズー教など、様々な宗教が混在している国ではない。ほかの宗教との違いを目の前で知る機会が少ないので、日本人は自分が無宗教だと感じている人が多いが、外国人から見ると実は日本教という教義や聖書を持たない宗教の確固たる信者なのである。

 大昔、聖徳太子はその頃先進国であった中国から、仏教の精神を輸入しようとした。が、日本に根付いたのは、厄災から逃れるための装置としての仏教で、精神の方は置き去りにされた。キリスト教が入って来たときも、貧しい農民が苦しい毎日から逃れるための装置としての宗教だった。同じことは明治以降、科学の精神は置き去りに、科学の成果である技術や工学ばかりを輸入した。今でも日本では、良い結果を得るための方法には意欲を見せるが、その精神を追い求めようとすると、面倒臭いことを言うなと忠告される。

 さて、神様はどんな悲惨な状況になろうと沈黙を続ける。キリスト教徒はそのことを神様からの試練と考えるが、沈黙するのは神様ばかりとは限らない。信仰とは本来神様と自分の間のことで、他の人は関係ない。信仰をひけらかす必要もないし、高らかに宣言する必要もない。沈黙の中でひとり信仰する、それだけが大切なことだと映画は語る。

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