フィヨルドの変人 ~Odd person in fjord~

ぇいらっしゃ~い!!!

機械なんてそんなもんさ

2023年11月25日 11時03分08秒 | 日記
以前ミゼット2のオーディオを交換した話をしたが、その後このオーディオ、右側のスピーカーから音が出ないことが分かりましてね。
いや、2スピーカーの片側から音が出ないのにしばらく気付かないとかお前の耳はただの飾りかと笑われると思うのだが、長らく気づかなかったものは仕方ない。
一応自己弁護するなら、軽トラックのオーディオの音質など標準では牛乳パックスピーカーレベル。令和の世の中ですら1DINのAM/FMラジオ(モノラルスピーカー内臓)なんて製品が普通に標準装備されてる世界である。さらにはぬたりが最近音楽をめっきり聞かなくなった、ってのもある。Youtubeのラジオ系や解説系の動画の音を流すのが最近のメインだが、これだとスピーカーが一つ死んでても気づきにくい。
んでまあこの事態に気付いたのが結束バンドの「青春コンプレックス」(リンク先音出ます)だった、ってのがアラフィフにもなってまだその世界に漬かっとんのかい、という感じで微笑ましい(?)。イントロでエレキギターのソロがほとんど聞こえないというのは非常に座りが悪いですな。
んでステレオ外して接続見てみたりスピーカーも確認してみたんだが、見た感じ不具合はなさそうでこれは断線してるんじゃないか、と見当をつけた。ミゼット2はドアスピーカーなのだが、車体本体とドアの間の配線なんかむき出しで、この辺りがいかにも断線してそうな感じ。スピーカーがダメになってる可能性もあるけど全く音が出なくなるって事態はあんまり考えられないし、断線直す方が費用も掛からない。まあ配線なおしてダメなら次はスピーカーだ。
ステレオとスピーカーの接続はソケットを介しているのだが、中を覗いてみると接続自体は端子。調べてみると「平形端子」というらしく、端子を組み付けるには専門の用具が必要(なくても出来るけどかなり無茶)

で、カー用品店行ってこんなのを購入。スピーカーコード、電工ペンチと端子セット。電工ペンチは使ってみるとホント便利。ファミコンのRFスイッチ繋ぐときにこれ欲しかったなあ(何の話をしてるんだ?)
で、早速作業。ステレオ外してスピーカーに繋がる配線もすべて外して新たに配線をドアから車体に通して、さあ、平形端子をソケットにはめようかとしたところで早くもオチが来た。
端子の大きさが微妙に違って入らない。
新しい端子は規格品(110型というサイズ)なんだが、ソケットの穴が小さい。外して古い端子と見比べてみると、なるほど微妙に今までハマっていたものの方が小さい。店頭ではここまで厳密に比較できなかったもんなあ。でもたしか110型って店頭にあったものの中で一番小さかったような…。実際ネットでも見てみたが110型より小さいものはなさそう。え?これどうしたらいいの?

というわけで、この写真は旧ツイッターにも載せたが、車の中をごちゃごちゃにした挙句途方に暮れるという状態になった。
だが途方に暮れていたのはほんの少し。男の子が機械いじりをするなら教科書とすべきは「エリア88」のマッコイ爺さんなのは周知の事実(?) 機械なんてのは口金のサイズさえあってればいいんだから右スピーカーに関してはソケットに頼らず直接配線しちゃえばいいんじゃなかろうか?

幸いにしてペンチ端子のセットにはこのようなギボシ端子が入っている。ステレオから出てきた右スピーカー用の線(2本)にこの端子つけてスピーカーの線を直接接続すれば用は足りる。ソケットは要はこの手間を簡素化するためのものなんだから丁寧に配線しても不都合はなかろう。
というわけで改めてステレオの説明書を引っ張り出す。えっと、右スピーカー用の配線はこの色とこの色か、じゃあ外そうかと一応ソケットの相手方の位置も確認した。そしてこの瞬間に最後のオチが来た。
どこにも繋がっていませんが。
なんとスピーカー出力の配線はここで途絶えている。じゃあスピーカーから来た線はどこに来ていたかというと、こちらもどこにも接続されていない。
これ有体に言う配線ミスというものではあるまいか。
で、説明書の記載に従って配線したところ、全く問題なく左右のスピーカーから音が出るようになりましたよもちろん。何だったんだ今までの苦労。
これを買った車屋さんは信頼に足るお店で、値段的にも適価(安くはなかったが)だったとは思うんだけど、よもや購入後4年も経ってこんな落ちがあるとは思わなかったなあ。
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飛ぶように爽快

2023年11月23日 21時08分23秒 | 日記
ぬたりとおかあちゃんの間で今話題になっている車が1つある。
ダイハツ ソニカである。
とりもなおざず、CBC制作の車道歩道バラエティ「道との遭遇」において、出演者の道マニア鹿取茂雄さん(ネット上では「よごれん」さんとして名高い)の愛車なんだがね。
で、この車。実はぬたりは結婚当初、愛車にしようと中古車を探していたことがあるのよね。
当時のぬたりの愛車はミニコンバーチブル。車自体は大層気に入っていたのだがパワステポンプが10万キロ持たない(交換に10万円以上)という弱点を抱えており、結婚もしたしこの時限爆弾が爆発する前に買い換えを検討しないと、という考えから車の乗り換えを考えていた。結婚もしたし軽自動車か、と思ったときにぬたりがまず考えたのが「中古のソニカ」だったのだ。
ソニカ、と言う車は一般認知度はほぼないマイナーな車だが、それもそのはず。ダイハツの生産車史上最も生産期間の短い車として今も輝いて・・・いるわけじゃないが、まあ歴史に残る不人気車だったと言っていいかな。
んで、この車のそもそものコンセプトは「長距離ストレスなく移動できる軽自動車」であり、長距離乗ったら疲れる、ストレス溜まる、という軽の弱点を克服しようとした車だった。
高すぎず低すぎない自然な着座位置、長時間乗っても疲れない大きなシート、加速のストレスを軽減するターボチャージャー、などなどの特徴を備え、大きな車から軽に乗換えた人の不満を解消してファーストカーにもなり得る軽として開発が行われたのね。
しかしながら、コンセプトは耳心地はいいが軽を買う人が一番求めるのはやっぱり「安さ」と「使い勝手」。だから世間のニーズとは少しズレている感は否めなかった。実際新車当時も「ムーヴの方が広い」「ミラの方が安い」とほとんどの人には思われていたと記憶している。
また、ダイハツ(と広告代理店)の当時のセンスが壊滅的だった。
この車のコンセプトは「長時間疲れずに、ストレスなく移動できる」である。しかし当時放送されたテレビCMは、魔女の扮装した上戸彩がホウキに乗ってソニカを追いかけても追いつけないという、車のコンセプト完全無視、そしておまえはこれでソニカの良さをどう伝えたいのだというCMに仕上がっていた。事ここに至り「ミラにターボつけただけで値段が高い」「高いのにムーブより狭い」という弱点ばかりを突かれる形になり、壮絶に売れなかったわけ。もっと落ち着いたCMにして、ゆったりした気持ちで長時間乗っても疲れないことを訴えることが出来れば、もう少し売れたと思うんだけどなあ。まあ前述のとおり軽のニーズとはズレてるからどのみちヒットはしなかったと思うが。
そしてこの「長時間乗っても疲れない」というコンセプトは、当時長距離通勤をこなしていたぬたりにはまさにおあつらえ向き。だから積極的に検討したんだよね。
ただ、前述の通り壮絶売れなかった車だから中古車の絶対数が少なく、結局買うことは出来ずにホンダのN-WGNを新車で購入することになった。(そして外れの個体つかまされた上に対応がいまいちで、ぬたりのホンダ贔屓の気持ちに完全に冷水ぶっかけられる事になるが、それはまた別の話)
ともあれ、思わぬ形でぬたりが気になっていたマイナーな車が注目を浴びたわけでね。実際ぬたりはまた今長距離通勤をしているわけで、今現在も割と魅力的な車種ではあったりするのよね。キャンプ趣味があるから手放せないティグアンはおかあちゃんに乗らせて、ぬたりはソニカに乗換えてもいいのかもしれませんけどね。まあ、経年劣化があるのでおいそれとは思い切れないけどもな(生産終了から10年以上経ってます)
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まずは地元の道の歴史を大切にしたいですわ

2023年11月18日 10時04分29秒 | 日記
内容的には旧ツイッターで呟いて終わりにしようかとも思ったんだが、せっかくだからあれこれ語ってブログにも残す・・・とかと書いていたら結構長くなったよ。

綾戸隧道。過去にブログで取り上げたこともあるんだが、群馬県渋川市と沼田市の市境近くにある国道17号のトンネルである。
ここのトンネルの歴史は古く、古くは弘化3年(大政奉還の21年前)に人道用に掘られた「綾戸の穴道」が存在し、この穴道を拡張、改良する形で今の綾戸隧道は存在する。
周辺は綾戸峡という渓谷になっており、険しい地形に旧来では道を通すことが出来ずに大きく迂回し峠を一つ越えるような形だった。穴道はこれを一気に短絡することが出来たことから一時期は通行料を取ってまでいた。また当時はトンネルの存在はかなり珍しく遠方から見物客が来ることすらあったという。
この穴道を管理していた後藤文右衛門という人物がいる。彼は穴道を訪れた文人墨客と交流を持ち、記念に賀章(祝いの証のような物)を求める事があり、多くの人が快く応じていたとのこと。彼はこのうちいくつかを実際に穴道内に飾っていたそうだ。

そして令和5年の現道の綾戸隧道の端に一つの石碑がある。この石碑はかつて穴道内に飾られていた賀章に由来を持つものである。群馬県民が沼田に行く場合、関越道を使わない限りはほぼ通るであろう綾戸隧道。名前は知らなくても多くの人が「あの険しい所か」と分かるであろう県内道路交通的にも知名度の高い場所ではあるが、この石碑に関しては実はほとんど知られていない。実際目にした人も少ないだろう。
石碑の題字は「弘道亀鑑」。刻まれているのは漢詩であり、作者は大音龍太郎。当然彼は既に鬼籍に入っており、著作権上問題も無いだろうからここに全文を転記する。なぜかと言えば、あまりに顧みられていないから、ネット上に情報として残しておきたいから。

「弘道亀鑑」
 我是毛州旧使君 秀水名山皆相識 別後城中己幾年 到今詩句帯山色
 憶昔督軍綾戸山 人馬魚貫洞穴間 元是州人老錦秋 独力闘此夷嶮難
 州人己然況於我 此軍不勝不肯還 可憐残骸猶不死 人海浮沈年又年
 蟋蟀在堂冷風露 満園菊花秋欲暮 欣子遠来故訪我 想入当日曽行処
 為寄此詩与綾山 不識山霊怒不怒
  為後藤錦秋翁  菱陀 大音竜

作者の大音竜太郎は1840年近江国生まれ。後に明治政府となる官軍の東山道総督府の一員として若い頃から上野国に滞在し、綾戸の穴道も複数回通行している。詩文にも見られるように軍を率いて通行したこともあり、この頃の思い出と穴道や上州の自然の素晴らしさをうたったのがこの漢詩で、明治7年に贈られている。この詩文は磨崖詩として洞内に彫られていたとのことで、今日見ることが出来るのは石碑だから後から作られたものだとは思う。でも万が一改修工事の際に岩壁から切り出してそのまま石碑化したんだとしたらちょっと胸熱ではありますね(流石に可能性は低いと思うが)。ちなみに「弘道」の意味は立派な道、「亀鑑」は模範となるもの、みたいな感じ。大音龍太郎はのちに初代岩鼻県(現在の群馬県南東部と埼玉県東部あたりを管轄とした県)知事に任命されるが、反対勢力に対する徹底的な弾圧があまりに厳しすぎたために1年経たずに罷免されている。博徒を1日に80人も処刑したとか、草が茂った畑を見て「怠け者だ」と農夫を処刑したとかの伝承が残っている。ともあれ「菱陀」という雅号を持っているように(弘道亀鑑にも記載がある)、風雅な嗜みを持つ教養人であったようだが。

綾戸隧道自体は令和の今となってみれば、規模的には正直あまり目立たないトンネルではある。ただ、その地形上の条件から長い長い人類の克服の歴史がある。ここにトンネルがあれば便利なのに、という人々の強い思いが江戸時代末期に具現化して今に至っても同じ場所を幹線国道が走っている。今となってはその数少ない歴史の証がこの石碑であると言え、人知れずにいるのはあまりにもったいないのでもっと陽の目を見て欲しいと正直思う。

・・・思う・・・のだがねえ。

そもそもなぜこの石碑が顧みられないか。現地を通ったことのある人なら一発で分かることなんだが、そもそも現地に石碑を置くスペースなんか無いんである。
詩を贈られた後藤文右衛門は上白井の住人。上白井は現在の渋川市にあたり、石碑も渋川市側坑口(南側)に設置されるのが自然といえる。

そしてこれが綾戸隧道渋川側坑口である。石碑なんか置きようがないのが一目瞭然で分かる。
ではどこに石碑があるのかと言えば・・・

ここである。そら誰も気づかんよ。
しかも車を止められるようなスペースはトンネルを越えた先にしかなく、そこに車止めて歩いてくるのだが、歩道も満足に無いような国の主要国道(しかもトンネル)を歩くのはまさに恐怖の体験であることを申し添えておく。大型とか来たらちびりそうになる程怖いよホント。

前回も少し取り上げたが、現在ここ綾戸峡では渓谷部分を大規模な橋とトンネルで迂回する綾戸バイパスが建設中である。もともとトンネルを穿ち現在多くの車両交通で振動が与え続けられているトンネル付近の岩盤は、至る所にセンサーが備え付けられ落盤事故が起きないように監視体制が取られているくらいである。バイパス開通後はその危険を回避するために綾戸隧道付近は閉鎖されて、隧道もおそらく完全に閉塞されるのではないかと思う。その時、おそらく弘道亀鑑の石碑も場所的に立入禁止となり、人目に届かなくなる可能性は高い。明治8年から、隧道を通る人々を静かに見守ってきた詩文を見られるのはおそらくあと数年、とも考えられる。それだけに、長くくどい文章にはなったが、どうしてもこうして形に残しておきたいと思ったわけですよ。
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本来趣味活動ってこういう地道なのが大切なんだけど

2023年11月16日 20時17分10秒 | 日記
ここのブログは正直読んでいる人が心底どうでも良い話ばかりなのであるが、今回もホント他人にはどうでも良い話題。ぬたりが個人的に興味のある廃線跡について。
場所は現在の群馬県沼田市。路線名は利根軌道。路線自体は渋川から沼田を結ぶ全長約21キロほどの路線で、大正14年に廃止されている。もう廃止自体が100年も前の話だ。
で、実はぬたりが興味があるのはこの路線の支線。Wikipediaにも岩室発電所の建設のためにもうけられた、とあり沿線跡と思われる道路が今でも「電車道」と呼ばれていたりもする。
で、気になることはと言えば、そもそも岩室発電所までは遠くねえか? という素朴な疑問である。本線との分岐地点からだと約14キロもある。本線の3分の2にも当たるような長い支線なんかもうけるもんかな?
で、今回、図書館にて一応の回答となる著述を発見。これ見つけた時には内心小躍りする感じで嬉しかったので、今回ネタに。
そもそもこの日は沼田に行く予定はなく、渋川に買い物に行ったのだが品切れで、ふと沼田にも取扱店あったな、となんとなく思い出して足を運んだのが発端。んで、買いたい物はメーカー終売品だったんだけど、沼田の店には複数在庫があり、ホクホクでいたらついでに図書館寄って調べ物するかと、これもなんとなく思いついた。思いつきで行った所で思わぬ収穫があると嬉しさもひとしおって訳。
まあ、利根軌道自体が廃止から約100年。ましてその支線ともなると資料は乏しくなるのだが、廃道や廃線を調べるには鉄板の資料がある。市町村史である。各市町村が発行するこの本には、「交通」の項目が必ず存在するのね。そこが結構参考になる。
ただ、支線は発電所建設のための路線で、旅客扱いしてはいなかったらしく「沼田市史」や岩室発電所のあった「白沢村史(白沢村は平成の大合併で沼田市に編入)」には記載が無かった。岩室発電所建設のため、と言う事前情報から白沢村史は岩室発電所の項目も読んでみたが、支線の話は一切なし。期待してたんだけどな。
んで、記載を見つけたのは「利南(となみ)村史」。利南村は今の沼田市南部にあった村で、昭和29年に周囲の町村と合併(いわゆる昭和の大合併)して沼田市となっている。本線と支線が分岐する場所は当時は利南村にあたり、村内を横断する形になるのでなんか載ってないかしらと期待もせずに手に取ったらまさにビンゴだった。こういうの嬉しいよね。
まあこの本が編纂されたのは合併を控えた頃の話で、利根軌道廃止から30年近く経っての話。だから期待もしていなかったのだが「電車道」というそのものズバリの項目が設けられていた。
残念ながら地図ではなく説明は文章。○○から●●神社前を通り△△坂に出て▲▲に至る、と言う説明では大まかな事しか分からず、まあ概ね想像していたとおりのルートだったっぽいな、と確認しただけではあったんだが、目から鱗だったのが建設目的。岩室発電所ではなく上久屋発電所の建設資材運搬用、と書いてあった。
これが上記のぬたりの「岩室まで遠くね?」という疑問と恐ろしい程にマッチする。岩室までだと14キロだが上久屋までなら約6キロ。距離は半分以下になる。利南村史の説明も上久屋発電所のあたりまでのルートの説明で終わっており、普通に読めばこのあたりまでの路線だった、と考えられる。実際地図を見てみても、上久屋発電所までなら路盤跡っぽい道路をある程度追うことすら出来る。
さて、ここに至ってWikipediaの「岩室発電所建設のため」という記載が間違っているのか、と言う話になるのだが、個人的には「上久屋まで延びた線路を上久屋と岩室両方の建設のために使った」と言うことなんじゃないかと思っている。記録上、岩室発電所は大正4年運用開始、上久屋発電所は大正14年運用開始、という形になっており、10年のブランク。だが、上久屋発電所を建設する際に岩室発電所の増強を図ったとしても不思議ではなく、この際の岩室発電所増強工事のエピソード(電車で運べない物は馬車を使った等々)が、岩室発電所建設のため敷設された、という誤解を生んだ可能性がある。
さらには支線の廃線跡は「電車道」と呼ばれているが、利根軌道が馬車軌道から電化されたのは大正6年のこと。大正4年運用開始の岩室発電所建設のために支線が用いられたとするなら、ここが「電車」道と呼ばれるのはおかしいことになる。まあ地区の人の通称だから別に正確性が求められるものではないから馬車軌道の道を電車道と言ってもいいけど流石に無理はあると思うな。大正14年運用開始の上久屋発電所建設にあわせての支線なら、まさに電車道で間違いないことになる。
まあ市町村史がすべて正しいかというとそんなこともないわけだし、利南村史でも「支線は上久屋発電所まで」と明確にはしていないので、岩室発電所まで軌道があった可能性はいまだに除外はできない。もしも路線が続いていたとすると上久屋町の先で旧白沢村に入ってしまうので、利南村史としてもよその村の廃線跡を記述する義理はない。そして白沢村史には支線の記述は一切ないので明確に否定も出来ない。なのであくまでも「現時点での考え」以上にはならないが、少なくとも上久屋までのルートはほぼ確定できたので、今度のんびり廃線跡巡りをしてみようかとは考えています。とはいえ、遺構は全くと言っていい程無いので、ブログのネタにはならないだろうけどもね。
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時々風見鶏になった自分に出会う事があります

2023年11月11日 23時23分27秒 | 僕もうさだファンじゃ(殴)
ぱっと調べたところではファンの間で周知の事実、という感じでもなかったんだが、軽井沢駅から近く(徒歩圏内)にある喫茶店、丹念亭さんの店内の壁にさだまさしの直筆の詩とサインが書かれている。画像はあるがネットにアップするのは、まあ、やめておこう。
詩は「風見鶏」と言うタイトルで、同名のオリジナルアルバムのライナーにも収められている。かなり昔のものではあるのでひょっとしたら有名なものかもしれんが(ぬたりは店を訪れるまで知らなかった)ファンの方は軽井沢訪れた際には是非とも訪問して欲しいと思う。駅近なのになぜか落ち着いた雰囲気で安らげる場所ですよ。
んでこの場所、さださんの書があるから、駅近いから、で済ましてしまっては失例にも程がある。この店オリジナルのチョコレートケーキがまあ信じられないくらいにウマい。固めで冷たく冷やされていながらもチョコのなめらかな質感と、しっかりしているのに全然しつこくない甘さとナッツのアクセント、そして添えられたクリームが上手に甘さの伴奏者となってくれる。これはもうホントマジでおいしいくて、私は軽井沢行く度に必ず食べます。少々高い(珈琲と合わせて1,500円くらいになる)のは難だが、あの味なら気になりませんわ。
さてこの丹念亭。注文をすると、品物が届くまでにどうぞ、と一個のパズルを渡される。オリジナルのパズルだそうである。
店頭でも販売してて、結論から言うと買ってきてあるのだが「りんご畑のこびとたち」と名付けられたパズル。パズル詳しい人向けに伝えるなら、「15パズル」とか「箱入り娘」と同系統になります。要は駒をスライドさせて特定の形にしたり、特定の場所に特定の駒を動かすのが目的となる。
で、法律の話をするとパズルも実は画像含めて著作物に当たる。なので主要駒のみでルールを説明する。初期状態はこんな感じ。

んで、右上以外のあいてるスペースは以下のような形の駒が入って埋めている。

ここから駒を動かして、左上の一番大きなこびとの駒を一番右下に持っていき、かつ、こびとの周りを柵の駒で囲うことを目的とする。

これが完成形。

この手のパズルは日本でも多く遊ばれていて、温泉旅館とかにも置かれていたことも多いし、割と馴染みがあるパズルの形になる。ぱっと見の印象はそのあたりと変わらないから、なるほど珈琲来るまでのちょっとした暇つぶしには良いな、なんて思ったわけですよ。あれこれやって、解くまで店にいるとちょうどよい感じなんだろうなあ、と。
これが信じられないくらいに難しいのである。
ぬたりが素人だからコツが分からないってのはあるんだろうけど、最大の感想として、手順が進んでるんだか堂々巡りしてるんだかわかりにくい。とにかく大きな駒と細長い駒の組み合わせが悪くて漫然とやっていただけではすぐ詰まる。いや、正式には詰まっているのかどうかも判断が出来ない。初回の訪問時には珈琲持ってきた店員さんが苦笑するくらいにぬたりは苦虫をかみつぶしたような顔をしてあれこれやってた。
それが2回ほど続いた。
3回目でいよいよこれはじっくりやらなきゃダメだと判断し購入。ありがたいことに購入すれば回答例がついているのだが、見ながらやっても進んでいるという手応えが薄めという、ホントもう喫茶店で手慰みにやるもんじゃないよこれは、というパズルになっています。

ともあれ軽井沢駅北口ほど近くにある丹念亭さんは、うますぎるチョコレートケーキと、歯ごたえがあるにも程があるパズルが名物で、おまけ(?)にさださんの直筆サインが壁にあるのお店です。
ぬたりのお知り合いさんには無条件でお勧め。みんな行け。
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天下の義人 茂左衛門

2023年11月07日 21時58分53秒 | 日記
先日館林城の話題に触れたんだから、今日は沼田城について。
で、沼田城はかなり本格的な天守閣があったと伝えられていて、なんと5層6階の天守閣があったと言われる。県内の天守閣の中でもダントツの規模(他はせいぜい3層)を誇る。
正直な話をすれば、「沼田あたりになぜそんな大層な天守閣が?」というのが正直なところではある。慶長年間に真田信之が建て(階数不明)、後に信之の孫、信直が5層の天守閣を建てた、と記録に伝わる。ただ、信直の先代、信政の時の「正保城絵図」なる文書には、既に5層の天守閣が描かれている。このため、いつの時代に5層の天守閣が建ったのか今ひとつ判然としない。そして真田時代の城は一度完全に破却されているのでますます詳細が分からなくなっている。

真田家というのは時代劇では割と主人公サイドで語られることが多いのだが、ドラマで焦点が当たるのは大概大坂の陣まで。大河ドラマ「真田丸」もまさにそう。と言うかそこに至るまでの話だから題名が「真田丸」でもある訳なんだが。
で、この後、真田家はちょっとややこしくなる。真田家の本拠は上田から松代に移り、沼田は分領として扱われる。時の真田家当主、真田信之は長男の信吉を沼田に置いて統治を任せた。しかし信吉は父に先んじて1634年に死去。その後を信吉の長男、熊之助が相続するが4歳であったため、信吉の弟信政が補佐にあたった。さらには熊之助も幼くして亡くなり、沼田領は信政が統治することになる。
やがて信之は隠居し、信政が当主となり、沼田領は信吉の次男真田信直が統治することになったが、2年後に信政も信之に先んじて亡くなってしまう。そして松代藩当主の後継は信政の子、当時2歳の幸道が指名される。
こんな感じでただでさえ夭折続きでゴタゴタしている上に当主は幼少。しかも信之の次男の子となった。これに噛みついたのが信直である。そもそも自分こそが真田家長子の直系であり、わざわざ信之の次男の系統、しかも幼少の人間に継がせるのはおかしい、というわけだ。確かに言い分は一理はあり関係のある人間の後ろ盾も得て運動をしたのであるが、幕府の裁定は「後継者は幸道」と決定。ただ、分領という立場ではなく正式に沼田藩として独立が認められる形になった。
これですっきり、となればよかったんだろうが信直とすると正直面白くない。松代藩は石高10万石の信濃最大の藩でしかも真田の本家筋という扱いであるのに対し、沼田藩は3万石でしかも分家扱い。世が世なら自分が松代藩主だったのに、と言う思いが強くなりすぎたのか、信直は強引に沼田藩を「(松代藩より上の)14万石」と幕府に届け出るに至る。これにあわせて藩内には重税を課し藩は大混乱に至る。
こんな無茶が通るわけもなく、群馬県民には上毛かるたでおなじみ杉木茂左衛門の直訴事件や、幕府から命ぜられた賦役の不履行等で悪政が露呈。藩は取りつぶし、このときに城も破壊され、天守閣や高さ8間と言われた天守閣の石垣も完全に破壊されている。
このため、「松代藩に対抗するために信直が5層の天守に無理矢理改装した」と考えるのも自然だし、「信直時代の前の絵図に5層に書かれてるんだし、やはり権力者の覚えもめでたかった信之が建てたんだろう」と考えるのも自然。もし前者だとすると5層の天守閣は暴君の象徴になりかねない部分はあるので立派だからと言って喜んでばかりもいられないが。
で、2023年現在の活動実績をネットでは追えないのだが、再建を目指す市民団体が既にあって市内の商工業者が中心の結構しっかりした組織みたい。小田原征伐のきっかけに絡む(と言われる)城なので、歴史的にもそこそこの知名度はあるし、21世紀になって新たに5層の天守閣が建つとなれば、これは観光的なインパクトは十分。再建する意義は見いだしやすい。
しかも跡地が公園として整備済なのも見逃せないポイント。天守閣は石垣を含めて現存しないが、天守閣があったと言われる位置(発掘調査も行われました)は完全に公園の中。現時点で存在する道路や建築物にはほとんど干渉しない。位置を見るに沼田公園の英霊殿のあたりで、さすがに英霊殿は移動しなきゃだろうが、公園自体広いから移動場所を見つけるのは容易いだろう。いずれにしても今県庁舎が建ってる(前橋城)だの、都市化に飲まれて今や道路が通ってる(高崎城)だのに比べれば、整備のハードルはかなり低い。
で、もちろん最大のネックは「お金」なんだけどな。
なにしろ昨今の疲弊した地方財政の中、群馬県の中でも一番人口の少ない市である沼田市がその費用を負担できるかというと、これはかなりな思い切りが必要になる。市民団体の試算でも天守閣再建だけで25億円かかるらしいから、実際となればもっとかかるだろう。これは人口5万人弱の地方都市の負担としてはちょっときつそう。
とは言え官民巻き込んだ形で話が推進すればワンチャンあるかもしれないのは既に述べたとおり。近隣の大規模な天守閣となれば、木造天守に限れば松本城くらいなもの。そういう点でライバルはあまりいないとも言える。詳細な図面がないので厳密な再建とは行かないだろうが、文献をあたって出来うる限りの再建をすれば、そこそこお客が呼べる可能性はあるかもしれない。昭和の時代じゃないから鉄筋コンクリートで作るようなこともしないだろうし。
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イッヌ公方

2023年11月03日 10時58分15秒 | 日記
ぬたりが行っている城跡巡りはことによったら山の藪に突っ込むような、おおよそ一般の観光とはそぐわない形であるのだが、日本の城の観光と言ったらやはり天守閣ではあるまいか。端的に言えば、天守閣さえあれば鉄筋コンクリートの再現であろうとも入場料取って違和感がないわけだ(身も蓋もない言い方)。
もちろん天守閣がなくても人気観光地として機能しているところはいくつもあり、仙台城や金沢城、二条城などは多くの観光客が訪れている。江戸城の跡(皇居東御苑)なんかも、東京観光であえて行く人は少ないと思いきや、行ってみると案外多くの人がいる。とは言えこれらはある程度の規模を有した城だから可能なのであり、城跡で観光、となるとやはり天守閣を抜きには語れない。
で、ぬたりの住む群馬県内にきちんとした由来の天守閣は現存しない。と言うかそもそも天守閣があった城自体が少ない。前橋、高崎、沼田、館林の4城が一応天守閣(もしくはそれに該当する建物)があった。
んで、これらの城に天守閣を再建する構想はないのかと言えば、ないこともない。ただしどこも正直願望レベルで具体的に話を進めようとするとどこも問題を抱え込むという感じ。
ただ、ぬたりが個人的に「ほほう」と思ったのは館林城。再建と言ったって、正直現在は個人の集まりがそれを目指しているに過ぎないから実現の可能性はちょっと薄い。
が、ホームページが割とスタイリッシュでおもしろい。活動としても「最終目的はそれだが、館林城を核に地域振興をすることこそが活動」という形で、会長さんも「還暦を機に地元に何かできることはないか」と活動を始めたそうで、これはなんか応援したくなるな。
館林藩と言えば将軍就任前の徳川綱吉が藩主を務めていた地(実際館林にどれだけ滞在していたかの話は別)であり、昨今綱吉の再評価も進む中で、歴史的にも天守閣(正確には三階櫓)があれば観光の核ともなり得る可能性もある。それこそ徳川綱吉主役の大河ドラマとかやれば期間限定ではあるが(放送中は人が来るけど終われば・・・)観光の起爆剤になり得る。
で、現状はというと三階櫓の跡地には館林市の向井千秋記念こども科学館が建っている。櫓の位置とはオフセットなので、すべてをどかす必要はないが、跡地に再建するなら何らかの措置(一部解体とか移転とか)が必要になる。近隣は広大な芝生広場になっているし、いっそ隣の田山花袋記念文学館(偉大な文学者です)も一緒に動かして、本丸跡も一体整備すれば観光スポットとしてそこそこいけるんじゃないかしら。

・・・あれ? この想像なんか楽しいな。

そんな形で、館林市がこの会の活動を見て、その気になれば可能性はなくもないのかな、と思う。もちろん昨今の厳しすぎる地方財政考えれば実現の可能性が低いのは承知の上だが、名古屋城が本丸御殿を再建したり、天守閣に限らない城跡観光というのも昨今ではあるから、館林市さんには考えるだけは考えてみんかと妄想したりもするわけですよ。
なにしろ徳川家が直接治めた地方都市なんて日本にそんなにないわけですからね。
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