紫紺のやかた

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平良敏子さんの死去で木内 綾さんを思う

2022-09-16 23:20:24 | 回想
 このブログに「沖縄との縁は平良敏子さんとの出会いで始まったかな(本土復帰50年に思う)」と題して投稿したのがついこの間の4か月前です。昨日この平良敏子さんの13日死去をテレビのニュースで見ました。本土復帰50年の節目や沖縄県知事選挙の結果も見届けての101歳の大往生だったと思います。


 平良さんの記事が載ったブログによると波のように風に揺れる芭蕉が茂る沖縄北部喜如嘉(きじょか)で生まれ育った平良敏子さんは、昭和19年、戦争中に倉敷で女子挺身隊として働いていて、戦後しばらく沖縄に帰ることができず、倉敷紡績に就職。同社の社長・大原總一郎氏は、柳 宗悦氏から紹介された外村吉之介氏を招き、平良さんをはじめとする喜如嘉出身の4人に染織の基礎を教授させました。その中で柳 宗悦著の『芭蕉布物語』を知った平良さんは強く影響を受け、大原社長からも戦争で途絶えていた琉球王朝時代からの芭蕉布を復興させて欲しいと言われたのを機に沖縄に戻り芭蕉布作りを始めたとのことです。99歳の白寿の時は琉球王朝の迎賓館とも言われる識名園で白寿記念作品展を開催していました。
 芭蕉布は多年草の糸芭蕉の幹の繊維を用いるため平良さん達は糸芭蕉の栽培から始めたそうです。逗子市役所前に今は廃業しましたが「志ま三」という染物屋があり裏手に芭蕉の木がありますが良く実を付けています。糸芭蕉なのかなと思いたくなります。

 織物では沖縄の大宜味村喜如嘉の平良敏子さんと北海道旭川市の優佳良織(ゆうからおり)の木内 綾さんを思い出します。26年程前地元明大のT.H.先輩の企画で数人の仲間と旭川の優佳良織工芸館を見学し綾さんにはお会いできませんでしたが、お会いした息子さん宛のお礼状に編物技術一筋に生きた父が喜寿の時に作った『新しく我にみなぎり来るものを歓びて歌う夜早く明けよと』という短歌を添えて出したためか綾さん(当時72歳)ご本人からお手紙と優佳良織のサンプルをいただきました。数年後日本橋三越での作品展の案内をいただき行って会い話もしています。




 織物は時間のかかるもので一時期製作に行き詰まりを感じたことから、芭蕉布の平良敏子さんを訪問し神業のような作業に衝撃を受けた経験もあったようです。何かを掴もうと沖縄を訪れたはずでしたが、逆に自分の十数年間の仕事の未熟さ、粗雑さを嫌というほど感じ、心中では織の仕事をやめようとすら考え始めたそうでしたが、漆器工房へ案内され80歳の工房の漆器職人から「本州の漆器に近づこうと努力してきましたが、まだまだです」と語るのを聞いて綾さんはその言葉に、自分のことを言われたような思いがして「まだまだです」の言葉に救われ「一からやり直そう」と誓ったとのことです。

 芭蕉布は平良さんが死ぬまで現役で後継者を育て、一方創作織物の優佳良織は後継者が育つ前に木内さんが82歳で死去、あとを継いだ息子さんも亡くなり、工芸館の破産と共にその後を気にはしていましたが、2018年(平成30年)、元職人たちにより、旭川市内に優佳良織工房が設立されています。現在30歳の廣島亜衣さんがこの工房に挑戦して3年が経ち優佳良織の伝統を残そうとしています。また2016年に倒産してしまった、元の拠点「優佳良織工芸館」の復活に向けて、地元企業が資金援助をしようと、2019年10月に新たに財団を立ち上げて動いていますが寒い北の大地のためとコロナの影響もあり道や市との交渉も難航が続いているようです。建物は旭川を創業とするツルハ(鶴羽)ホールディングスやエスデー建設が買い取ることになったようなので鶴羽社長がドラッグストアと優佳良織の伝統をどのように計画しているかも関心ごとです。(yoo)