大雑把な日常

日常のあれこれ。

産んだ女

2012-02-16 | ぼやき

女性の見えないヒエラルキー
もしくは
女性グループ同士の透明な壁として
経産婦かどうかというのがあります。

年齢でいうと25歳くらい
ある程度
人生の道がはっきり見えてきた時から
発生する。

他人と比べての自分を意識すればするほど
とくに三十代前半あたりから
大人の女たちは
その壁にぶち当たったり意識したり
とにかく何かしらの隔たりを感じるようになる。

産んでない女は「これだから主婦はっ」といい、
産んだ女は「子供がいないからわからない」という。

いや、言わなくても
思われているんじゃないか
そういうふうに見られているんじゃないか
そもそもそういう考えが湧いてくること自体
苦しむひとはいるはずだ。

グループが存在していると仮定して
どちらも
分かりあおうという意識がないのは
悲しいことだな。
と思う。
子供がいてもいなくても
社会をうまく機能させるにはどのひとも必要だし
未来永劫、人類が続く為には
それぞれが協力しなくてはいけないのだから
反目しないでちょうだい
というのは
きれいごとでしょうか。

親としてまっとうな子供を育てる責任
などはいったん置いておいて
子どもを産む感覚のみでいうと
いろいろあるけど
結局ただの通り道だと思う。
ひとつの経験値にすぎない。
子どもを産んだことで何かまったく別の人間になったかのような
生んだ瞬間に母性が爆発するようなことを
未熟なわたしは想像していたんですけど。
実際、当たり前のことだけど
自分自身はなんにも変りません。
そのあとだよ
いろいろ見えてくるのは。
要するに対人関係だと思う。
まったくゼロの状態からこの世に出て来た人との
対人コミュニケーションから
母親は学ぶのだ。


処女を捨てたら何か変わるかも。
というのに、ちょっと似てるな。
経験前は大ごとのように感じることでも
意外と小ごとで
大したことなかったりする。
見えている世界が
少しだけ変わる。

だから母親だからって偉いこともないし
産んでないからって卑屈になることもない。

産むだの産まないだの。
うるさいなあ。
と、ちょっと前の(というかだいぶ前?)の
ニュースを見て思っていたことを
今更書いてみました。

コメント
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