映像による長編叙事詩 「線路端の猫戯子」にぜひ公開したい一節がまだありました。
YouTube の動画は一般的に冒頭の数秒から数分を見て興味が無い内容だと視聴者は離れてしまいます。
私の場合はそれを百も承知で動画を作成しています。
せいぜい数分で離れる人を逆にこちらから篩いにかけて落とし、残った人を相手にするという考えです。
でも公開するからには多くの人に見ていただきたいのが本心。
両方の考えの中をとって長編から抜粋した自分にとって宝石のような短編を書き出してみてもいいかな、と考えるようになりました。
昨日と今日は2本の抜粋を公開。どちらも YouTube にリンクを張ってあります。
京都はこれ以後も加悦SL広場を含めて3度車で長旅をしてきました。
戦争が終わって外地から引き揚げた人々の中に召集されて海軍に入り上海に渡った父も。
この一節は引き揚げた人々はそれぞれどうやって故郷に帰ったのか、そこに引っかかるものがあってのこと。
港町の簡易宿泊所で過ごしながら検疫をしながら過ごし、各種手続きを済ませ家に連絡して帰ったのでしょう。
帰る交通手段は主に鉄道だったと思いますが、亡き父は恐らく北陸本線、信越本線を経て最後は長野電鉄を使ったと思います。
この一節は長野電鉄絡みで作りました。
今回調べて初めて知ったことですが、引揚者には国から旅費が支給されたとのこと。
運賃はどうしたのかという疑問は解けました。
引き揚げに関しては調べると詳しい情報がありますが、どれも悲惨な内容で胸が痛みます。
長野市と須坂市の間、千曲川に掛かる新旧村山橋をメインに飯山市の旧中央橋です。
この時点で旧村山橋の状況は知っていましたがどうしても電車の車窓から撮影したくて電車に乗りました。
村山橋は架け替えられる前の姿を別件で撮影してありました。長野行き上り電車が通過します。
最後の橋脚撤去の様子もしかり捉えてあります。
中央橋も架け替えられましたが右岸の先に木島線の木島駅がありました。
古い鉄橋の撤去過程も映像で残してあります。
どちらの鉄橋も今は一部が公園の隅にモニュメントとして残されています。