ゆいもあ亭【非】日常

映画や小説などのフィクション(非・日常)に関するブログ

「明日なる夢」を認めてさえも、気に喰わなかった点……。

2006-09-19 | 映画
「仮面ライダー響鬼」DVD最終巻。四十五之巻 「散華する斬鬼」 、四十六之巻 「極める鬼道」 、四十七之巻 「語る背中」そして最終之巻 「明日なる夢」の四話だ。

正直なところ、だいぶ慣れたこともあり、反発心も薄れて気楽に見ることが出来たのだが、それでも前面肯定はできなかった。残念なことだ。

命を投げ出す、命を投げ出しても尽くしている事実を知らせて再起を促す、そんな生き様があってもよいのだが、「本来の斬鬼さん」には似合わないやり方であるという気がする。つまりこういうことだ。斬鬼さんの(感動的な)死にざまが浮かんだ、それに合せて轟鬼の致命的負傷という事態が設定された、そういう因果の逆転が臭ってしまうのだ。

だから、見ていて、モッチー、お前なんでチア辞めた? と思ってしまう。おい、その不治の病の少女と、ボランティア、それを明日夢の前に運ぶための、お前は道具か、とそう思ってしまうわけだ。パネルシアターとモッチー、なんとなく合わないよな。明日夢も、明日夢だ。お師匠さんの危機に居合わせた、あのときのキミの思いが医療への情熱に結びついたのなら、納得もしようが。

京介よ。お前、フランスかどこかに行っている母親はどうでもいいの? 死んだ消防官のオヤジさえ超えられれば、いいの? どこか重荷に思いながら捨てきれない母、そんな母の姿が一切見えないから、キミは不可解な人物のままなんだ。

まあ、それでも響鬼さんは、最後にいいところを見せてくれたと思う。鬼にならなくても、果たすべき使命を思えば闘える、という、その姿勢は買いたい。それに、道は違ってもそばで生きていける、というのは、それこそよい。むしろ、「語る背中」という副題に示される姿勢を、もっともっと示してくれていれば、本当によかったのに。

さあ。「仮面ライダー響鬼」への不満を、もう一度「理想の響鬼」へと、実際に放映された作品を(イメージの中で)リファインすることで完成に近づけていけたらと、心からそう思う。

そして、もしかしたら「オレのそばで自分らしく生きてみなよ」という響鬼と明日夢の「明日なる夢」の答えとして、結実してくる、それは理想の結末になるのかもしれない。

「魔化魍を作る者たち」については、その向こうにまたひとり居たという、そんなハッタリみたいな構造には、呆れたね。