日本近代文学の森へ (171) 志賀直哉『暗夜行路』 58 読書のスピード 「前篇第二 六」 その5
2020.10.6
謙作は信行の長い手紙を読み終わった。
読みながら、謙作は自分の頬の冷たさを感じた。そして、いつか手紙を持って立ち上っていた。
「どうすればいいのか」彼は独り言をいった。狭い部屋をうろうろと歩きながら、「どうすればいいんだ」とまたいった。ほとんど意味なく彼はそんな言葉を小声で繰返した。「そんなら俺はどうすればいいのか」
総てが夢のような気がした。それよりもまず、自分というものが──今までの自分というものが、霧のように遠のき、消えて行くのを感じた。
あの母がどうしてそんな事をしたか? これが打撃だった。その結果として自分が生れたのだ。その事なしに自分の存在は考えられない。それはわかっていた。が、そう思う事で彼は母のした事を是認出来なかった。あの下品な、いじけた、何―つ取柄のない祖父、これと母と。この結びつきは如何にも醜く、穢(けが)らわしかった。母のために穢らわしかった。
彼はたまらなく母がいじらしくなった。彼は母の胸へ抱きついて行くような心持で、
「お母さん」と声を出していったりした。
「自分というものが──今までの自分というものが、霧のように遠のき、消えて行くのを感じた。」という感じ。今まで信じて疑うことのなかった「自分」が急に遠のき、消えていく、という感じ。これは「自我の崩壊」ということだろう。謙作のように──それはまた志賀直哉のようにと言ってもいいだろう──とりわけ自我意識の強烈な人間にとっては、その信じて疑わなかった自分という存在が根底から覆されるような感じであったろう。
まさに「そんなら俺はどうすればいいのか」としかいいようのない心理的状況である。
出会った瞬間から「下品だ」と直感した祖父と、幼くして別れた母の間に自分が生まれたのだということ。そのこと自体が「穢らわしい」。だとすれば、自分の存在そのものも「穢らわしい」のではないか。「お母さん」と声に出した謙作は、いったいどこで救われることになるのだろうか。
こうした余韻を残して、「前篇第二 六」は終わる。そして、「七」以降で、謙作の心のうちが詳細に語られることになる。
ところで、最近、阿部公彦の「文学を〈凝視する〉」という本を読んでいたら、実に面白いことが書いてあって、共感のあまり吹き出してしまった。こんな部分である。
多くの人が実感していると思うのだが、小説や、あるいはもっと広く散文で書かれた書物一般を含め、読書というものは読み進めるにつれてスピードがあがっていくものではないだろうか。最初の一〇頁、中盤の一〇頁、最後の一〇頁と、読むのにかかる時間が短くなっていく。これはおそらく、文章の前提となるものを、読み進めるに従って読者が取り入れ蓄積していくからである。出だしでは、描かれている世界の設定なり常識なりをゼロ地点から構築する必要があるのだが、次第にその必要がなくなり、情報量が一定であっても、あるいは増えても、吸収の効率はぐっとよくなる。あるいはこの吸収速度の高まりが、「おもしろさ」として感じられ読書の快楽が幻想されるということもあるかもしれない。
ところがどうも志賀直哉の文章というのは、効率性の高まりということがあまり起きないのではないかと思うのである。読みすすめてもスピードがあがらない。これは証明するのが難しい感覚にすぎないのだが、先の問題とからめて考えると、ひとつの提案ができそうだ。すなわち、志賀直哉の文章では”蓄積”があまり起きないのではないかということである。速度の増加は一種の慣性によるものだ。ある文章の読み方をめぐる文法がノウハウとして蓄積され、読者がその文法に慣れれば慣れるほど読みの勢いも増してくる。ところが、志賀の場合、この蓄積をさまたげる何かがある。
確かに長編小説の場合、最初の数十ページは、「情報の蓄積」をしなければならないから大変だ。だからなかなか進まない。しかし、だいたいの情報が「蓄積」されると、ああ、ここはこういう展開だな、ああこれはこういう事情があるんだなとかいうことがわかってくるから、読書のスピードは断然あがる。エンタテインメント系の長編小説などは、数ページを斜め読みしたってぜんぜん問題がないことだってある。極端に言えば、途中を全部すっとばしても、あまり問題のない小説だってありそうだ。
ところが、こと志賀直哉の小説に至るとそういうことは起こらない。阿部公彦の言うように「読みすすめてもスピードがあがらない。」阿部公彦は、「証明するのが難しい感覚にすぎない」と言うが、このぼくの「暗夜行路」の読書が、そのことを見事なまでに「証明」している。読み始めてから既に1年を優に越えているのに、まだ半分にも至っていない。これはぼくが読書能力がないからではなく(いや、もちろんそれもあるが)、また一週間に一回しか読まないからでももなく(いや、もちろんそれも大きな理由だが)、まさに志賀直哉の文章のせいなのだ。
なんで進まないのか。それは簡単に言えば、「すっとばしてもいい部分」がほとんど「ない」からだ。別の言い方をすれば、「部分が部分として独立している」からだ。
この辺を阿部公彦は、志賀の随想を引用した後で、次のように分析している。
マンネリズムが何故悪いか。本来ならば何度も同じ事を繰り返してゐれば段々「うまく」なるから、いい筈だが、悪いのは一方「うまく」なると同時にリズムが弱るからだ。精神のリズムが無くなって了ふからだ。「うまい」が「つまらない」と云ふ芸術は皆それである。幾ら「うまく」ても作者のリズムが響いて来ないからである。(『志賀直哉全集 第六巻』、二三四)
「精神のリズム」などという言い方の「立派さ」に辟易する人もいるかもしれないが、これは単なる理念ではなく、しごく具体的な文章作法でもあると思う。「うまさ」に溺れずあくまで「リズム」を保つとは、志賀にとっては、勢いを増しつつも勢いを蓄積しないような文章との付き合い方のことを意味していたのではないだろうか。
別の言い方をすると、それは文があくまで文として独立し、文章に取り込まれてしまわないということである。一般に文章の中で文が連なっていけばいくほど、それぞれの文は文章全体の中の一要素にすぎなくなってくる。文は文章に従属し、蓄積された勢いに巻きこまれる。しかし、志賀直哉の文章では、先の長短の使い方にも表れていたように、なかなか文が文章に取り込まれない。あくまで文を文として語ろうとするような気構えのようなものがある。
「精神のリズム」などという言い方に、別に辟易するわけではないが、なんだかよく分からないなあという印象は持つ。しかし、「うまさ」が「リズム」を壊すということは、確かにある。それは書でも絵でも同じことだ。うまいなあと思うことは、同時に、つまらないなあと思うことに通じる。
つまり、「リズム」というのは、わざわざ「精神のリズム」と言い換えるまでもなく、表現者の心のあり方、あるいは心の叫び、のようなものであろう。
そう言ってみてもなんだか要領を得ないが、阿部公彦の「別の言い方」はとても分かりやすい。つまり、「文があくまで文として独立し、文章に取り込まれてしまわないということ」という部分。一つの文が、「文章に取り込まれる」ということは、部分が全体の流れに消化されてしまい、それゆえ、流れさえつかめれば、その「部分としての文」は「すっ飛ばされ」ても構わないことになる。「部分としての文」が「すっ飛ばされる」ということは、「部分としての文」が持つ独特の味わいとか、多義性とか、流れには直接関わらない逸脱とかが「無視される」ということだ。というか、流れを重視する文章では、そうした「味わい」「多義性」「逸脱」を極力避けるということになるはずだ。
この「流れ」を「ストーリー」と言い換えてしまえばもっと分かりやすいかもしれない。
大衆小説の作家などでも、ほんとうに文章がうまい人もいて、まさに流れるように書いている。だからスラスラ読めて、ストーリーも把握しやすい。読書もどんどん進む。
志賀直哉はそういう作家の対極にある。一文一文をすっ飛ばせない。独立しているからだ。
高校時代にこの「暗夜行路」をぼくは確かに読んだのだが、ぜんぜん面白くなかったのは、このことがぜんぜん理解されていなかったからではなかったか。「あくまで文を文として語ろうとするような気構え」に気づかず、ただただストーリーを追いかけていたからではなかったか。そんなふうに思う。