よつばDays

しあわせのよつばをさがす日々。

変身  東野圭吾

2013-12-03 00:09:43 | 読書記録

ネタバレ含みます。

 

今まで読んだ東野圭吾作品に比べたら、気持ちが堕ちずに読めました。

けれど、『心』とか『魂』と言った、目に見えないものの存在について考えさせられる話でした。

 

個人的には『心』も『魂』も、存在肯定派です。

心を支配(形成)してるのが脳という物理的なもので、伝達物質という科学的に立証されているもので動かされているとしても、それだけじゃないと思います。

わたしは10年以上前から(今思えば小学校のときおばあちゃん亡くなった時からだと思う)軽うつで、薬を呑んでいたこともありますし、今も漢方薬呑んだり軽い安定剤呑んだりしてますけども、それがセロトニンがうまく伝達していないからなんだとしても、じゃあ薬で精神が安定(=セロトニンがうまく伝達してるという意味だとする)していても、結局自分なんか存在していない方がいいという気持ちはどこから出てくるのか、思考回路の癖になってしまっているのか、TVなどで事件や事故に遭われた方を見ると、自分だったらよかったのに・そしたら悲しむひとも少なかったのに と思ってしまうのは、どういう理屈なんだと。

 

昔TVで、魂は存在するか みたいな番組をやっていたのですが、詳しくは覚えていないのですが肯定派VS否定派の各学者さんが討論する番組でした。

肯定派の中にも、物理的理論で魂の存在を証明するみたいなひとがいたのですが、そのひとが提示したのが、死後の人間(人体)の重量を、抜ける水分量とかそういったものを一般人ではついていけないレベルで計算した結果、どう計算しても数%(0.数%だったかも)合わないのだそうで、それが『魂』の重量で、魂の存在を裏付けるといった説明だったのです。

 

魂や、死後の世界・霊界といったものが、あるとした方が救われる現世もあると思うのです。

わたしは4歳で大好きなお父さんを亡くして、つらいとき・さみしいとき、心の拠り所はお父さんだったから。

お父さんは雲の上にいると思ってたから、雲の端っこからこっち覗いてないかな~ってよく空を見上げて学校から帰ってきてましたから。

 

お父さんは悪性リンパ腫で、うちの近くの病院から県内の医大病院に転院したのですが、やはり大学なので亡くなったときは研究材料として解剖させてほしいという話があったそうです。

これを聞いたのは大人になってからなので、理性で納得できたので解剖させてほしいという話に嫌悪感はなかったですが、その申し出に対してお母さんは当時「解剖は協力してもいいけど頭だけはしないでほしい」と答えたそうです。

 

『変身』の堂元教授は、脳を特別な臓器と考えてはいけないと言いましたが、やはり人間として現代日本で生まれ育った身としては、脳が特別な臓器という観念にはなると思います。

だからこそお母さんも、拒否したんだろうし。

脳がすべての臓器や肉体を動かしている上に、脳が感情を形成する基になっているなら、脳が特別な臓器でなくてなんなんでしょうね。

 

なんか前半と矛盾してきてますが…

心が脳に操作されていてもいいけど、深層心理は脳で形成されてるのでしょうか?

脳が駄目になったら(物理的に生きていられないだろうけど)心がなくなるのでしょうか?

『変身』の京極は、人道的には『心ない』行動ばかりだと思いましたが、でも家族に対する愛情があったり、周囲に対する嫌悪だって、『心』ですよね?

 

書いてて混乱してきました…。

 

東野圭吾作品は、どんなに読んでてつらい作品でも必ず(それこそ)心に響く言葉・文があるのですが、『変身』は、生きるっていうのは自分の足跡を残していくことなんだっていうところでした。

ちっちゃいことと比較して申し訳なくなりますが、わたしがこうしてブログに残しているのも、自分を形成してきているものを残したいという自己顕示欲でしかないので。

そして、京極に支配されていく中で必死に抵抗した純一が、最期に京極に打ち勝つきっかけになったのが恵への愛で、恐怖心を超えて純一を救おうとしたのは恵の愛で、そこまで他を愛することができるっていうのは、すごいことだなと。

そばかすを描いてくれた最期の絵、どれだけ恵は救われただろうと思います。

 

東野圭吾作品を、苦しいと思いつつついつい読んでしまうのは、結局のところ愛というものが偉大だというメッセージが都度都度入っているからでしょうか。