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ミュンヘンなんて、どこ吹く風

ミュンヘン工科大留学、ロンドンの設計事務所HCLA勤務を経て
群馬で建築設計に携わりつつ、京都で研究に励む日々の記録

仕事始めにイモ始め

2006-01-06 09:01:34 | ミュンヘン・TUM
昼過ぎにマックスと大学で待ち合わせてミーティング。
冬休みに旅行した先の話もする。シュトゥットゥガルトのヴァイセンホーフジードルンクはJJPアウトが一番よかったと言うと、マックスも「ホントに?僕もそう思ってるんだよ!その次に好きなのはハンス・シャローンのやつかなー」。ちなみにマックスはようやくミュンヘン市内への引越しが終わったらしい。「今朝計ったら大学まで22分だった」と言って、ストップウォッチの表示を見せてくれた。

九時頃かいくんと一緒に寮に帰って、かいくんに手料理をご馳走になる。
本場大阪のねぎ焼きと、ジャガイモのソテー。梅酒の熱燗を片手に、腹いっぱい食べる。コリャ、フトルネ。ミュンヘン離れたらジャガイモが恋しくなるのかなあ。
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プラハでのこと

2006-01-06 05:04:40 | ミュンヘン・TUM
A Band on the Carles bridge

1月2日→1月3日
寝台列車初体験のかいくんと一緒に夜行でクラクフからプラハへ。
二人とも同じコンパートメント(6人部屋)で三段ベッドの一番下。検察に来た駅員がなぜか切符を預かったまま持って行ってしまったので偽駅員だったんじゃないかと疑ったり、パスポートチェックに来た警官が僕だけチェックし忘れて行ってしまったり、ビストロ車に行こうとしたら車掌に「この夜行には食堂車は付いてないよ」と言われてがっかりしたり、カーテンをそっと開けて窓の外を流れる雪景色を見ながらわくわくしたり、そんなこんなで朝七時にプラハ中央駅に着く。

1月3日
小雨の降る中、持参した『ヨーロッパ建築案内』を頼りにプラハを歩く。
プラハ中央駅から西へ歩いて国立博物館へ。目抜き通りを北上して、まずは英国領事館を探すが、見つからず。そのままさらに西へ歩いて国立劇場に至る。ものすごく寒い。カールス橋のたもとの喫茶店でコーヒーを飲んで休憩。先にプラハ入りしているくろさかくんに電話して集合場所と時間を決める。地下鉄に乗ってエンデル駅へ。ジャン・ヌーベルのプラハ・エンデルを観る。ヴィム・ベンダースによるエンジェルの壁画の向こう側はオフィスの倉庫になっているらしく、ダンボールとかが透けて見えた。再び地下鉄に乗って今度はフランク・ゲーリーによるオフィスビルを観に行く。ドナウ川のほとりに立つ異形の建物。「不協和音」と紹介されていたけれど、横に並ぶパステルカラーの建物群自体も十分変だ。ほぼ本に載ってたスケッチの通りに建てられていることに驚く。ファサードに書かれた五線譜のような波線とか。子供のスケッチの通りに建てられた池袋のふくろう交番を思い出した。

カールス橋でくろさかくんと合流。
カールス城に向かって歩き、レストランで昼飯を食べる。オニオングラタンスープがおいしかった。その後坂を登ってプラハ城へ行き、プラハ大聖堂を観る。ヨーロッパへ来てから聖堂や教会を観るのが好きになった。自分がつくりたいとは思わないけれど、美しいなあと思う。黄金小道(かつて召使たちが住んだ場所)でカフカの家を見てから、夏の庭にあるオランジェリー館(オレンジの木のための温室)へ。プラハ出身の女流建築家がコンペで勝ち取って設計したハイテク温室と聞いていたので、プラハでは一番楽しみにしていた建築。ところが門は閉まっていて入れない。看板には「1月4日から開館」の文字。がっかりする。門の向こうにはジョン・ヘイダック(ゲーリーの師匠らしい)の設計した「自殺者の家・自殺者の母の家」があるはずなのだけどそれも見えず。門越しに雪かきをする用務員を恨めしそうに見ながら、プラハ城を後にする。

トラムに乗ってアドルフ・ロースのミュラー邸へ。
しかし今は改装中で中には入れないとのこと。なんとか交渉して入り口まで入れさせてもらえたがそれ以上は入れず。交渉している隙に何気なく僕が中に入ってしまおうとしたら、すぐに見つかって注意された。中が重要なのに。公開されているときでも、写真撮影には5千円程度の登録料がかかるという。なんだかがっかりする。

かいくんはブルノに行くのでここでいったんお別れ。
僕はくろさかくんと旧市街広場へ向かう。チケットオフィスの「本日のプログラム」の案内にしたがってスメタナの「わが祖国」のコンサートをスメタナホールで聴こうとしたが、日付が間違っていたらしくすでに終わっていた。コンサートはあきらめてマリオネットを観ることに。国立マリオネットシアターに行きたかったのだが冬季は月曜日と木曜日しか上演していないとのこと(今日は火曜日)。しかたがないので別の劇場でマリオネットを観ることに。「ビートルズが時を越えて今よみがえる!」のうたい文句に惹かれて「ブラックライトシアター」に行くことにした。表通りのカジノの隣にあったアジアミーツヨーロッパがテーマのレストランで怪しい夕食をとり、裏通りのカジノの奥にあるブラックライトシアターへ。チケットボックスで二人分のチケットを買う。通し番号によると、僕らは今日12人目の客らしい。八時半の上映開始まで時間があるのでちかくの喫茶店カフェ・ヘブンでチャイを飲む。ショウケースの中でボヘミアングラスが輝き、看板には英語のネオンサインが点滅し、お札が巻き上がるカジノに道行く人が立ち止まるプラハの目抜き通り。誰を待っているのか、じろじろと周りを伺いながら立っている男が目に付く。「もともと体力が無いところに資本主義が急速に入り込むときっとこうなるんだろうなっていうイメージそのままですね」「ここにはもはや本当のチェコはないのかもしれないね。テーマパーク、プラハ・チェコランドなのかもしれないね」

ブラックライトシアターで「イエローサブマリン」を観る。
館内にはこれ見よがしに貼られたビートルズのポスター。スクリーンにはこれまたビートルズのスライドが延々映されている。そこそこ客は入っているようだ。カーテンの向こうでは時々バタバタと音がし、出演者たちのくすくす笑う声が聞こえる。場内が暗転し、ショーが始まった。おじいさんとおばあさんがよぼよぼと暮らしている様子が紹介され、おじいさんがレコードをかけてビートルズの曲(「僕が64歳になったら…」ってやつ)が流れる。そこから時代は一気にさかのぼり、くるくると回転しながら二人が若返っていき(ぼろぼろの衣装を脱いで、若者の衣装に早着替え)、二人は爽やか青年とごつい女の子(演じていたのは男だったのかもしれない…)に。そこからは二人の恋の駆け引きがブラックライトの向こうでビートルズの曲に合わせて展開される、と言いたいところだが、残念ながらビートルズの曲はそれほど効果的には登場しなかった。出演者のスキルもなんだか中途半端。バック転や側転のアクションをするのかと思いきやただの前周り後周りだったり、パントマイムも普通にヘタだったり(しかも必然性のない場面で仕方なく入れたって感じ)。ダンス(?)のシーンも、ただばたばたと狭い舞台上を行ったりきたりしているようにしか見えなかった。学芸会なノリ。でも、途中何度かお色気タイムがあったり(本編とは関係なく無意味にチアガールが出てきてお尻を振りながら踊る)、謎なキャラクターがたくさん出てきたり(目玉のお化け、占い師の坊さん、軍服を着た脳みそ)、ビートルズがデキの悪いマリオネットで出てきたり(そしてイエローサブマリンも!)、アングラ感満載で楽しかった。隣で見ていたノリのいい女の人に釣られて僕も終始爆笑。見終わった直後は、「変なもの観ちゃったなあ」としばらく二人でにやにや。「でもこれはマリオネット劇の正統進化版なんじゃないですかねえ。僕は好きですよこういうの」とくろさかくん。

くろさかくんと同じホテルに案内してもらい、宿を得る。
オフシーズンなので、ユース並みの安い料金でツインの広い部屋に泊まれた。

1月4日
くろさかくんとは別行動し、僕は再びプラハ城へ。
山を登ってオランジェリー館に着くも、やはり閉まっている。もう一度よく案内を見ると、夏の庭の公開は“1月4日”からではなく、“4月1日”からであった。がっかりして、旧市街まで歩いて戻る。もう一つの楽しみにしていた場所であった国立マリオネットミュージアムに行こうと思い、ところどころで道を聞きながら旧市街の奥まで入る。たどり着いたのは国立マリオネット劇場。劇場は閉まっていたが、中に入るとチケットボックスは開いていた。おじさんにミュージアムのことを尋ねる。するとおじさんは閉まっていた劇場の照明を付けて中に案内してくれて、僕にこう言った。「確かにこの劇場を所有している劇団が近くにミュージアムも持っていたんだけど、3年前の洪水で水没してしまってね。今もまだ復旧していないんだよ。この劇場もとても長い歴史を持っているから、ここ自体もミュージアムのようなものなんだけどね。ここだけは改装が終わって上演を再開したところさ。プラハにはマリオネット劇団はここ一つしかないんだ。似たような芸事をしているところは他にもいくつか見ただろうけど、申し訳ないけどここ以外は観光客を狙って営業しているマフィアなんだ。本当はマリオネットの本場はここから100kmくらい離れた町なんだよ。もし君がそこに行きたいのなら行きかたを教えてあげても良いよ。夏にもう一度来るといい」

その後、旧市街広場のそばのthe mucha galleryでJan Saudek展を観る。
常設のミュシャ展も、企画展のジャンゾデック展も、もし自分がどれか一枚作品をもらえるならという視点で観てみた。ミュシャ展で欲しかったのは『デンマークの女王』という演劇のためのポスター絵。ゾデック展で欲しかったのは男女の裸体と着衣が反転したものが二枚並べられているシリーズ。でも観ていて良いなあと思った作品に限って絵葉書に採用されていなかったので残念だった。

駅に戻ると、たまたまチケット売り場でくろさかくんかいくんと遭遇。
特に待ち合わせをしていなかったのに、しかも僕とかいくんは携帯電話が使えなくなってしまっていたのに、運良く三人一緒にミュンヘンまで帰れた。三人でコンパートメントを占領し、スナックをぽりぽりやりながら、かいくんのipodを聴きながら、ミュンヘンまで6時間半。駅に着いてからはかいくんと駅前のバーで飲んで、家路に着く。これで冬休みの日程は全部終了。充実した旅だった。
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冬休みおしまい!

2006-01-05 10:19:19 | ミュンヘン・TUM
A Tree in Praha castle

ついさっきプラハから帰ってきました。
詳しくは明日。
楽しかったな~。もう終わりか。明日からはスタジオ再開。
おやすみなさい。
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アウシュビッツで思ったこと

2006-01-03 05:49:50 | ミュンヘン・TUM
Auschwitz

アウシュビッツでは、英語のガイドツアーに参加して見学した。

ナチスはトイレも付いてない家畜用の木製運搬車両でユダヤ人を強制収容所に搬送した。金品や装飾品、靴や櫛、めがねやヘアクリームに至るまで没収し、それらはベルリンに送り返されて不況下にあえぐドイツ国民への支給品に利用された。女性の髪の毛は刈り取られ、紡がれて布になり、ナチスの制服に使われた。強制労働に付かされるとは知らず引越し準備のように支度をし、いつかはそれらが返されると信じていたユダヤ人たちは、他人のものと間違えないようにカバンに自分の名前と住所を書いた。それらは今、殺されたユダヤ人たちの身元を知る唯一の証拠となっている。ユダヤ人問題の「最終解決」が決断されると、指揮官ルドルフ・ヘスの下「シャワー室」での毒殺が実行に移された。屈強な若いユダヤ人が誘導の役に付かせられた。シャワーを浴びられるぞとだまし、大量のユダヤ人たちを地下のシャワー室に赴かせる。自分の服を番号の付いたフックにかけ、帰れると思っていた彼らはその番号を忘れないようにしっかりと覚えた。同胞を殺す役割に付かせられた彼らは一時の猶予を与えられたが、ナチスの秘密を知ってしまった彼らは定期的に殺されて入れ替えられた。やがてアウシュビッツだけでは処理しきれなくなり、近くにビルケナウ強制収容所が設置される。そこに第二第三のガス室が建設されていった。ビルケナウは強制労働ではなく強制収容と毒殺に特化した施設だった。早い者は収容所に到着して5時間後には灰になっていた。でもビルケナウ収容所は戦後ソ連軍が到着する前にナチスの手によって爆破処理されてしまった。ほかにも収容所は各地にたくさんあったが、唯一アウシュビッツだけがたまたま今日まで残ったのである。

はじめは美しいとさえ思った。雪に覆われた、小さな村。黒ずんだレンガ、落ち着いた色使いの屋根。しかし、説明を聞きながら、残された資料を見て回るうちに、次第に背負ったカバンが重く肩にのしかかるようになり、足は寒さでもつれていき、視線は下へ落ちていった。体から力が抜けていった。いつの間にか、僕は人の足元ばかり写真に撮っていた。何人もの足跡でぐちゃぐちゃになった雪道が、在りし日のアウシュビッツを思い起こさせた。足跡が重なり合って、何人がそこにいたのかもわからなくなってしまった、泥と雪でぐちゃぐちゃな道。ここで何人の人間が死んでいったのか誰も知らない。「ヒトラーの建築家」アルベルト・シュペーアは、収容所の設計はしなかった。ガス室の図面をガイドから見せられる。単純なT型の平面に、ガスの導入口を示す数本の管が書かれているだけ。ルドルフ・ヘスの家、絞首台、立ち牢…。誰がどんな気持ちで設計したのだろう。展示室内にはユダヤ人から没収された無数の生活用品。なぜ彼らはこんなものをこんなところまで持ってきてしまったのだろう、とせつなくなる。その先の運命を考えれば、それくらいどうでもよい品ばかりだ。そしてなぜナチスはこんなものまで奪い取ろうとしたのだろう。奪っても仕方のないものばかりだ。ガイドツアーが終わり、かいくんとの待ち合わせにはまだ一時間ほど時間があった。雪が雨に変わって、僕は雨に打たれながら、ぐるぐると収容所を歩き回った。番号だけによって区別されたひたすら同じような建物ばかりで、僕は自分がどこにいるのかわからなくなった。頭が痛くなって、これ以上建物は見たくなくなった。道に残された足跡だけをたどって、僕はなんとかインフォメーションセンターに戻った。

だけれど、アウシュビッツで考えたのは、強制収用された人のことよりも、なぜか自分の人生についてだった。悩んでいたことが不思議とすっきりしていくのを感じた。
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初夢

2006-01-03 05:17:53 | ミュンヘン・TUM
Warsaw central station

元旦の夜、夢を見た。

劇場のようなところで何かのイベントが終わり、僕らは駅に向かって歩いている。僕の少し後ろを彼女が歩いている。僕が少し足を止めれば彼女は追いつけるのだけど、僕は適当な距離を保ったままそのまま歩き続ける。なぜだかそのほうが気楽なような気がしているのだ。やがてさらに後方にいたグループが彼女に追いつき、楽しそうにわいわいと話しはじめる。ますます僕は気まずくなり、彼女に話しかけづらい気持ちになる。やがて駅に着くと、ちょうど電車が発車しようとしているところだった。電車はぎゅうぎゅうの満員で、入り口付近にようやく二人くらいが入れようかというスペースがあるくらい。僕は先に電車に飛び乗り、ちょうど追いついた彼女の手を引こうとする。でもグループの一人が「無理だから次にしよう」と言って彼女を引き止める。僕は彼女と二人になりたいので彼女を促す。彼女は電車に乗り込んできてくれるが、彼女を引きとめていた男まで一緒に乗り込んできてしまう。そんな三人を乗せたまま電車は走り出す。

そこで目が覚めた。

二段ベッドの下ではかいくんもちょうど目を覚ましたところだった。
同じ部屋のメキシコ人が大いびきをかいていたせいで、かいくんはあまり眠れなかったらしい。こういう場合、早く寝たもん勝ちであることが多い。シャワーを浴びて、支度をしながら、そういえば昨夜見た夢は今年の初夢だったなと気がついた。
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東欧で迎えた新年

2006-01-03 04:41:45 | ミュンヘン・TUM
the Cristmas tree I found in a restrant in Krakow

12月30日
IC(都市間急行)でシュトゥットガルトへ。
ドイツ工作連盟のヴァイセンホーフジードルンクを見た後、夜はシュトゥットゥガルト大学へ。ヴェルナー・ゾーベックの研究室を見つけるも、鍵がかかっていて入れなかった。晩飯は街の中心部に出る。デパートでマフラーと手袋を購入し、クリスマスマーケット会場でグリューワインを飲んでカリーブルストを食べる。そのまま中華料理の店にはしごして麻婆豆腐やチャーハンを腹いっぱい食べる。

12月31日
ジャーマンウィングでワルシャワへ。
大雪の洗礼を受ける。無事着陸できると客席からはいっせいに拍手が。空港から中央駅に移動し、ケバブスタンドで昼食。ドイツよりもずっと英語が通じる。ユースホステルに荷物を置いて、街を歩き回る。ユースの人に教えてもらった観光バスは停留所に現れず。スーパーマーケットがあいていたのでビールとつまみを買う。晩飯はメキシコ料理の店で食べ、大きなクリスマスツリーのある広場に移動。近くのパブで飲みながら新年を待つ。日付が変わる数分前にツリーを囲む人だかりに混じり、次々と上がる打ち上げ花火に歓声を上げる。日付が変わった瞬間に集まった人たちの興奮は頂点に達し、握手をしたり、抱き合ったり、キスをしたり。「ワルシャワの大晦日は静かで、何もイベントなんてないよ」と警察官は言っていたけれど、そんなことはなかった。これくらいがちょうどいい。打ち上げた花火がクリスマスツリーに引火して煙が上がる。遠巻きに見つめる警察官を尻目に、酔った人たちがいっせいに雪玉を投げて消火活動。しばらくすると煙はやみ、広場は再び歓声の渦に。僕らはそのあたりで広場を後にし、歩いてユースホステルに戻った。戻ってからは寝静まったユースでかいくんと飲む。僕らの笑い声を聞きつけて警備員がやってきたが、何も言わずに去っていった。今日ばかりは無礼講ということだろう。アルコール禁制のユースホステルで、秘密の新年会は朝まで続いた(と思う。覚えてない)。

1月1日
チェックアウトの時間ぎりぎりに目が覚めるも二日酔いで体調はすこぶる悪い。
這うようにして着替えを済ませ、掃除の人に追い立てられるようにしてユースを出る。駅まで行くのもつらくて、かいくんに助けてもらいながらなんとかホームにたどり着く。クラクフまでは電車で三時間。ゆったりとした客席でスナックサービスを受けながら寝ているうちに、体調はすっかり回復した。クラクフに着き、駅近くのポーランド料理店で名物のポーランド餃子を食べる。おいしくなかった。ユースホステルは街から少し離れたぼろいところ。疲れた体を少し休めてから、僕は18番のトラムに乗って街並みを観察。終点まで行ってそのまま折り返そうと思ったら一緒に座っていたおばあちゃんが「あんた、ここ終点よ!降りなきゃ」と気を使ってくれた。せっかくなので降りようとしたらタイミング悪く扉が閉まり半身を挟まれる。おばあちゃん、今度は慌てて「そこよ!そこにドアが開くボタンがあるわ!」。ポーランドの人は親日的と聞いたが本当である。僕のかばんのチャックが開いていたら「無用心だから閉めなさい」って教えてくれたり。晩飯はかいくんと中心街をぶらついて、屋台村でビゴス(ザウアークラウトとソーセージのスープ)と串焼きを食べる。とてもおいしくて、多少の不潔さは気にならなかった。インターネットカフェでメールをチェックするも、日本語の表示に対応していなかったためあらかた読めず。フィルハーモニーまで歩いた後早めにユースに帰り、今日は休肝日にして十二時頃就寝。

1月2日
少し寝坊して、予定していたオシフィエンチム行きの電車に乗り遅れる。チケットだけ買っておいて次の電車まで街歩きをすることに。バヴェル城とバヴェル大聖堂を観た後、川を挟んで向かい側にある磯崎新による美術館へ。その近くに建っていたアパートメントがいかにも“東”らしいデザインで興味をそそられた。バスで駅に戻り、オシフィエンチム(アウシュビッツ)へ。駅のスタンドで買ったシュニッチェル(とんかつ)を車内で食べる。雪景色の中、うっそうと茂る森を抜けて、揺られること一時間。昼過ぎに電車は小さな駅に到着した。ポーランド語でオシフィエンチムと書かれた看板。アウシュビッツはドイツ語の呼び名である。夕方までアウシュビッツで過ごし、クラクフに戻る。旧市街のレストランで『地球の歩き方』に載っていた中で唯一食べ残していたポーランド料理を食べてコンプリート。そして今はインターネットカフェにいる。日本語も読み書きできる優秀なカフェである。今夜10時半発の夜行電車で、僕らはチェコの首都プラハに移動する。年をまたいだ東欧旅行もいよいよクライマックス。プラハでは先にチェコ入りしているくろさかくんとも合流予定。
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Warsaw - Krakow

2006-01-02 05:57:12 | ミュンヘン・TUM
Warsaw in snow

Yesterday, we got a new year in Warsaw Poland.

Now we are in Krakow Poland.
We walked around this hiatorical city today.

Tomorrow, we plan to go to Auschwitz(Oswiecim).

And we will be in Praha the day after tomorrow.
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Weissenhofsiedlung

2005-12-31 01:04:02 | ミュンヘン・TUM
Weissenhofsiedlung

Now we are in stuttgart.

Today we visited Weissenhofsiedlung.
In fact, I didn´t know so much about this site. But it may be good for me. I got to be moved purely. I think JJP Out´s siedlung is most suitable for the concept of this site(collective house for not so rich people). But it may be too honest answer for the question. Le Corbusier´s buildings are clever. They look beautiful. I really remembered the word, composition. Unfortunetely, we could not see the siedlungs by Gropius. His buildings were already removed. It´s sad. When I saw the master plan, I got interested in his work... We could also see the inside of the siedlung by Mies. Thanks for the kindness of the woman who lived in it.

Now we plan to visit TU Stuttgart.

Tomorrow morning, we will leave for Warsaw POLAND.
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(中休み)

2005-12-30 11:02:06 | ミュンヘン・TUM
Thomas in his room (with his GUNDAM)

今夜は年末年始を利用した旅行計画の中休み。ブログを簡単にまとめて更新。

24日
くろさかくんとミサに行く直前、電話をしながら共用廊下に出たところ、鍵を部屋の中に入れたままオートロックで締め出されてしまう。普段なら同じフロアの他の部屋の人に中から開けてもらえるのだが、みんな実家に帰ってしまっていて今夜は誰もいない。ハウスマイスターとも連絡がつかず、いくら待っても誰も帰ってこないので、今夜はくろさかくんの部屋に泊めてもらうことにする。くろさかくんに借りたコートを着てスリッパを履いて、クリスマスミサには予定通り出席。

25日
別のフロアの人に助けを求めたり、学生代表に助けを求めたり、八方手を尽くしたが鍵は開かない。今日もくろさかくんの部屋に泊まらせてもらうことにする。夕方、よねやまさんを誘って三人でCINEMAという映画館に『キングコング』を観に行き、夜は中央駅のバーでささやかに送別会。

26日
月曜日。朝、大家のオフィスに行くが鍵は閉まっている。張り紙に書かれた営業時間の間待ってみたが、大家は来なかった。寮に張り出された掲示を片っ端から電子辞書で訳していくと、緊急連絡先らしきものが見つかった。電話すると大家の声。出張代15€を払ってマスターキーで鍵を開けてもらう。聞けば、いずれにせよクリスマス休暇中はミュンヘンにいなかったので電話を受けても来れなかったらしい。くろさかくんと相談してすぐにドレスデン行きの電車と宿泊先を手配する。部屋に戻って旅行支度をしていると、ちょうど隣室のエンリケがクリスマス休暇から帰ってきたところだった。

午後一でくろさかくんとミュンヘンを出発し、ニュルンベルグで途中下車してナチスの党大会会場跡(ドク・チェントルム)を観る。駅のスタンドでニュルンベルグソーセージ等を購入し、ライプチヒに向かうICE車内で晩飯。ライプチヒではカフェでまったりし、ドレスデン行きのローカル線に乗り換える。ドレスデンには夜中の12時過ぎに到着し、真っ暗な中ユースホステルまでトラムの軌道上を辿って歩き、無事チェックイン。すぐに就寝。

27日
くろさかくんと二人でドレスデン市内を歩き回った。ツヴィンガー宮殿、ゼンパーオペラ、フラウエンキルへ、シナゴーグ、といった旧市街の見所を回った後、新市街に移動。ガラス張りのVW工場を見学した後、環状に運行するトラムに乗ってドレスデンの下町を車窓からぐるりと観る。夜はカールシュタットの最上階で寿司を食べ、くろさかくんと別れ僕はその日の寝台特急でミュンヘンに帰る。

28日
朝六時半にミュンヘンに着き、八時に友達と待ち合わせてコーヒーを飲みながら話した後、九時にクラウディア、かいくんと中央駅で待ち合わせ。バイエルン周遊チケットでトーマスの家へ。二時間半くらいローカル線に揺られ、ブルグハウゼンという駅に着いた。車で迎えに来てくれたトーマスに案内されて、シティーホールや教会を観る。その後トーマスの実家に行ってお母さんがつくってくれたバイエルン料理をご馳走になり、家の中も案内してもらう。みんなで記念撮影をした後、再び車に乗ってオーストリアとの国境沿いにあるブルグ(砦)へ。万里の長城のようなブルグを端から端まで歩く。目の前にはオーストリアとの国境である川が流れている。ふもとにあるホテルに荷物を置いて、下のレストランでグリューワインを飲む。夜の旧市街を散策して、ミュンヘンに帰るクラウディアと別れた。トーマスとレストランに行って夕食。典型的なババリア(バイエルン)料理を食べる。その後オーストリア側の夜景スポットまで車で連れて行ってもらい(このときに僕は雪の上で滑って転んでしまい、踏み潰された携帯電話が壊れた)、ホテルの部屋に戻る。浴槽にゆっくり浸かって体を休めた後、スーパーマーケットで買っておいたビールをかいくんと空ける。

29日
朝、トーマスと十時に待ち合わせ。アウトバーンでチェコとの国境沿いにある街パッサウまで行く。速度無制限のアウトバーンを時速150kmでぶっちぎる。「ごめんね、今履いているタイヤは150kmまでしか出せないんだ」。サンパウロ教会でオルガンコンサートを聞いた後、ババリアンレストランで昼食を食べ、ドナウ川を渡って要塞跡へ。時々滑って転びながら雪道を登る。再び市街に戻ってから市役所、ガラス博物館を回り、帰路へ。トーマスのやわらかい運転が心地よくて、僕は助手席でずっと眠ってしまっていた。別れ際、トーマスがクリスマスプレゼントに小さなチョコレートの詰め合わせをくれた。
カールプラッツのサターンで携帯電話を直そうとしたが無理だったので、新しい携帯電話を買う。寮に戻るとどっと疲れが出て、何も手につかない。それでもなんとか洗濯物は片付け、インスタントラーメンを夕食にする。11時頃かいくんが部屋にやってきたので、クッキーを食べながら紅茶を飲んで、一緒に旅行計画を立てる。

今後の予定
明日の朝シュトゥットゥガルトに電車で移動してバイセンホーフジードルンクを観て、夜は市内のユースホステルに宿泊。翌朝シュトゥットゥガルト空港からジャーマンウィングでポーランドのワルシャワに飛び、大晦日はワルシャワ市内で過ごす。無事新年を迎えた後は同じポーランド国内のクラクフに移動し、そこからアウシュビッツ(現オシフィエンチム)へ。強制収容所跡を見学。その後夜行列車でブダペストかウィーンかプラハに移動し(最初にどこに行くかは体力の残り具合と電車のダイヤ次第)、ミュンヘンに帰る1月4日まではのんびり東ヨーロッパの街並みを観て回る予定。ポーランド以降はプラハ、ブダペスト、ウィーン、ザルツブルグと回れれば理想だけど、ハンガリーまで手を伸ばすのは時間的に無理かもしれないな。

またしばらくブログは更新できませんが、ご心配なく。

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クリスマスの魔法

2005-12-26 20:22:01 | ミュンヘン・TUM
旅行支度をしていると、何も知らないエンリケがちょうど帰ってきたところだった。
「クリスマスは楽しめたかい?」
「ああ、もちろんさ。本当に素敵なクリスマスだった」
「よかった。僕もだよ」

すべてはクリスマス前後の三日間に起きたこと。
クリスマスの魔法がようやく今解けた気がした。さあ、ドレスデンに行こう。
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