昼過ぎ起床。今日からサマータイム終了、冬時間で日本との時差は9時間。奥さんとSkypeしてからぶらぶらと街に出かける。昼飯を食べてからバスでカムデンタウンへ。夕方からベンさんの家でRyoさんのウェルカムパーティに参加する。ロンドンには一年ほど滞在する予定だというミュージシャンのRyoさんとベンさんは小学校からの幼なじみ。僕とも同学年の同世代。帰国子女だったベンさんは編入した小学校でRyoさんに出会い、高校以降は別々の学校で進路も別れたが、ことあるごとに相談し合ってきた親友なのだ、と部屋の中にはふたりのタイムラインが黒板にチョークでわかりやすく解説されている。編入してすぐの頃「どんな音楽が好きなの?」と話しかけてきたRyoさんにロンドン生まれのベンさんが貸したのがお姉さんが持っていたエリック・クラプトンの「ティアーズ・イン・ヘブン」。触発された小学生のRyoさんはその後音楽漬けの生活をしていくことになり今に至る、とベンさんからの紹介。Ryoさんが弾き語ってくれたり、DJになってくれたり、十人ちょっとでのんびりとした会。MAX/MSPや、カールステン・ニコライの話など、なんとなく知っていたけどよく知らなかったことをいろいろ教えてもらい、Ryoさんを11月のSHARISHARISHARIの会に誘う。ベンさんとチエさんが次々と出してくれる料理をいただきながらいろいろ話をする。画家のヒロさんが年明けからドイツへの留学を考えているとのことで、現地でお世話になる予定だという建築関係の方を紹介してもらう。僕も、もしHCLAで担当している現場が竣工予定日もしくはその近辺で無事に終わることになれば、年度末に日本に帰る前に1ヶ月でも2ヶ月でもドイツに滞在しようと思っているのだけど、紹介してもらった方を滞在先としてお願いすることになるかもしれない。ミュンヘンに留学した半年間で残った物足りなさを2ヶ月弱の短期滞在で補えるとは思えないが、日本(群馬)に帰る前にもう一度初心の場所に戻るのは、新しいスタートの前に必要なことだと思っていて。10時過ぎに退座して家が同方向の新谷さん夫妻とバスで帰宅。奥さんとSkypeしてから就寝。
平日より少し遅めに起床。朝ご飯を食べてからRIBAの図書館へ。極小建築、プレファブリケーション、構法システムの棚から本を集めて片っ端からめくる。閉館間際にスキャナーを30分ほど占領して気になった箇所をデータとして保存。ほとんどはコンペDのための資料だが、スキャンした資料の中の文章からKonrad Wachsmannの1961年の著書『The Turning Point of Building: Structure and Design』にクリスタルパレスへの言及があることを知る。ただし原書は読む時間無く。
『The Turning Point of Building』はAmazonUKでは高額古書なので、次にアクセスできるのは図書館が遅くまで開いている火曜日か。佐々木宏さんが「近代建築講義」と題したレクチャーで1955年のワックスマンゼミナールを紹介した際に、ワックスマンの主著である本書が日本語されていない理由について語っていたらしいのだが、詳しくはわからない。難波和彦先生の2005年11月12日の日記で言及されている佐々木宏さんの証言や、齋賀英二郎さんによる松本哲夫さんへのインタビューを読むと、ワックスマンゼミに参加した日本の建築家たちとワックスマンとはすれ違いがあったみたいである。齋賀英二郎さんによると、ケネス・フランプトンがバックミンスター・フラーとコンラッド・ワックスマンを比較した小論を書いていて、ヨーロッパ人とアメリカ人の相違(歴史や伝統に対する態度の相違)とも言えるものを浮かび上がらせているらしい。科学技術に絶対の信頼を置くべきとしたアメリカのフラーに対し、歴史的事実にも価値を見いだしていたというポーランド出身の建築家ワックスマン(アメリカに亡命はするが…)が、『The Turning Point of Building』の中で何を言っているのか気になる。
昼過ぎ、RIBAのカフェでコンペDのスケッチをしたあと、カフェで昼飯を食べてから新谷さんの家へ。まきこさん仙石さんも加わりコンペDのワークショップ。やろうとしていることの攻めどころが明確になってきた。まずはこの方向で詰められるだけ設計を進めてみることに。短期決戦なので各自いろいろと宿題を持ち帰る。近くのマレーシア料理のお店で晩ご飯を一緒に食べてから解散。奥さんとSkypeをしてから就寝。
『The Turning Point of Building』はAmazonUKでは高額古書なので、次にアクセスできるのは図書館が遅くまで開いている火曜日か。佐々木宏さんが「近代建築講義」と題したレクチャーで1955年のワックスマンゼミナールを紹介した際に、ワックスマンの主著である本書が日本語されていない理由について語っていたらしいのだが、詳しくはわからない。難波和彦先生の2005年11月12日の日記で言及されている佐々木宏さんの証言や、齋賀英二郎さんによる松本哲夫さんへのインタビューを読むと、ワックスマンゼミに参加した日本の建築家たちとワックスマンとはすれ違いがあったみたいである。齋賀英二郎さんによると、ケネス・フランプトンがバックミンスター・フラーとコンラッド・ワックスマンを比較した小論を書いていて、ヨーロッパ人とアメリカ人の相違(歴史や伝統に対する態度の相違)とも言えるものを浮かび上がらせているらしい。科学技術に絶対の信頼を置くべきとしたアメリカのフラーに対し、歴史的事実にも価値を見いだしていたというポーランド出身の建築家ワックスマン(アメリカに亡命はするが…)が、『The Turning Point of Building』の中で何を言っているのか気になる。
昼過ぎ、RIBAのカフェでコンペDのスケッチをしたあと、カフェで昼飯を食べてから新谷さんの家へ。まきこさん仙石さんも加わりコンペDのワークショップ。やろうとしていることの攻めどころが明確になってきた。まずはこの方向で詰められるだけ設計を進めてみることに。短期決戦なので各自いろいろと宿題を持ち帰る。近くのマレーシア料理のお店で晩ご飯を一緒に食べてから解散。奥さんとSkypeをしてから就寝。
終日現場のプロジェクトの作業。現場からの図面のチェック。ルーバードアのディテール、階段室の手すりのディテール。
昼休み、新谷さん田中さん渋谷さんと近所の和食レストランで昼飯。UCLを卒業され帰国する渋谷さんを囲む会。渋谷さんは日本で働かれたあとUCLでエネルギー政策について勉強され、先日UCLにBuilt Environment, Energy & Sustainability Society (BEESS) を共同設立された。英国エネルギー業界の統一団体であるEnergy InstituteとUCLの共同プロジェクトのひとつとして位置づけられるもので、現役の学生とOBが参加。多国籍な創設メンバーを通じて、今後はイギリス国内に留まらないエネルギー問題について分野横断的に考えていく受け皿にしていきたいとのこと。SHARISHARISHARIがロンドンで半年後に企画しているトークイベントへの協力をお願いする。
午後も現場とのやり取り。夕方、いくつかの発見された問題について対策を現場に指示してから退社。
夜、UIデザイン会社ustwoを訪ねてオフィスの中を中村さんに案内してもらう。1200近いテクノロジー企業が集うハックニーTech City地区の中で先駆けのひとつとなったデジタルデザインスタジオ。中村さん自身はインタラクションデザイナーだが、社内にはプログラマーやグラフィックデザイナーも所属し、携帯端末のアプリケーションやゲームの制作を通じてユーザーインターフェース全般の設計とデザインを行っている。そこからさらに空間のインタラクティブデザインまで踏み込もうとして中村さんは去年の終わりからSHARISHARISHARIに参加してくれている。オフィスは他にもテクノロジー企業が入居するTea Buildingと呼ばれる倉庫を改修したシェアオフィス内にあり、ustwoのフロアは三層分。食堂やレセプション、ゲーム制作班の机があるのが一階で、ミーティングスペースや中村さんの席があるのが二階、所員数が増えて三階にも執務スペースが拡大中。壁も机の上も所狭しと印刷されたアウトプットで埋め尽くされている。同じ混然とした設計空間でも建築設計事務所と違うのは机の上に立体物がないことか。壁一面がFacebookのニュースフィードやtwitterのタイムライン、もしくは自分のパソコンのハードディスクの中身を特にソートせずにアイコン表示で見ているような感覚。新入社員・新入予定社員の自己紹介、スタッフのホリデー中のスナップを誰かが加工したジョーク写真、開発中のUIアイデアのスケッチ、ゲームの作動画面のスクリーンショット…。雑談させてもらった創立者のひとりジュリアンさんは「白い壁が一カ所くらいあったら逆に気分転換になるのかもしれないと思ったりもするけど」と笑っていたが、雑多な情報がどこかで無意識に結びついて新しいアイデアが生まれることを期待しているのだ。
そのまま中村さんと一緒にBethnal GreenのThe Vyner Studioへ。SHARISHARISHARIにも参加してくれている伊藤くん&伊東くんたちのグループAlmost SIlentの初の個展『Subliminal Reflextion』のオープニングに行く。ギリシャ神話のセレーネーとエンデュミオーンから着想を得て、インタラクティブな装置を現実と魔法と夢の世界の物語として落とし込んだ作品。鑑賞者は脳波を読み取るためのヘッドセットを着用し(現実の世界)、読み取られたデータは10種のパラメーターとなりProcessingとMaxを使ったアルゴリズム(魔法)によってスピーカーから流れる音の波長やリズムを変化させる。プロジェクターによって映写される月の映像はスピーカーの上に張られた水に反射して壁に投影され、音波による水面の振動と波紋によって壁に写った月の像が刻々と変化する(夢の世界)。




鑑賞者の無意識を読み取って映像化し、それを意識的に見た鑑賞者の無意識が揺さぶられ、その無意識が再び読み取られるループという趣向。展示の初日だが、機材トラブル無くシステムがすべて稼働している。伊藤くんが中心になってくれたKinetica Artfair 2013での僕らのインタラクティブ茶室の展示を見て伊東くんがSHARISHARISHARIに参加してくれるようになり、そのまま伊東くんは伊藤くんの卒業制作もサポート。その卒業制作を見たギャラリーのオーナーが今回の展示を誘ってくれて、同じくインタラクティブな卒業制作をしていた別のインテリアデザインの学生たちを巻き込んで今回の作品は制作されている。展示は27日まで。参加メンバーは常に会場にいるらしいので、彼らから直接解説も聞けるはずである。
昼休み、新谷さん田中さん渋谷さんと近所の和食レストランで昼飯。UCLを卒業され帰国する渋谷さんを囲む会。渋谷さんは日本で働かれたあとUCLでエネルギー政策について勉強され、先日UCLにBuilt Environment, Energy & Sustainability Society (BEESS) を共同設立された。英国エネルギー業界の統一団体であるEnergy InstituteとUCLの共同プロジェクトのひとつとして位置づけられるもので、現役の学生とOBが参加。多国籍な創設メンバーを通じて、今後はイギリス国内に留まらないエネルギー問題について分野横断的に考えていく受け皿にしていきたいとのこと。SHARISHARISHARIがロンドンで半年後に企画しているトークイベントへの協力をお願いする。
午後も現場とのやり取り。夕方、いくつかの発見された問題について対策を現場に指示してから退社。
夜、UIデザイン会社ustwoを訪ねてオフィスの中を中村さんに案内してもらう。1200近いテクノロジー企業が集うハックニーTech City地区の中で先駆けのひとつとなったデジタルデザインスタジオ。中村さん自身はインタラクションデザイナーだが、社内にはプログラマーやグラフィックデザイナーも所属し、携帯端末のアプリケーションやゲームの制作を通じてユーザーインターフェース全般の設計とデザインを行っている。そこからさらに空間のインタラクティブデザインまで踏み込もうとして中村さんは去年の終わりからSHARISHARISHARIに参加してくれている。オフィスは他にもテクノロジー企業が入居するTea Buildingと呼ばれる倉庫を改修したシェアオフィス内にあり、ustwoのフロアは三層分。食堂やレセプション、ゲーム制作班の机があるのが一階で、ミーティングスペースや中村さんの席があるのが二階、所員数が増えて三階にも執務スペースが拡大中。壁も机の上も所狭しと印刷されたアウトプットで埋め尽くされている。同じ混然とした設計空間でも建築設計事務所と違うのは机の上に立体物がないことか。壁一面がFacebookのニュースフィードやtwitterのタイムライン、もしくは自分のパソコンのハードディスクの中身を特にソートせずにアイコン表示で見ているような感覚。新入社員・新入予定社員の自己紹介、スタッフのホリデー中のスナップを誰かが加工したジョーク写真、開発中のUIアイデアのスケッチ、ゲームの作動画面のスクリーンショット…。雑談させてもらった創立者のひとりジュリアンさんは「白い壁が一カ所くらいあったら逆に気分転換になるのかもしれないと思ったりもするけど」と笑っていたが、雑多な情報がどこかで無意識に結びついて新しいアイデアが生まれることを期待しているのだ。
そのまま中村さんと一緒にBethnal GreenのThe Vyner Studioへ。SHARISHARISHARIにも参加してくれている伊藤くん&伊東くんたちのグループAlmost SIlentの初の個展『Subliminal Reflextion』のオープニングに行く。ギリシャ神話のセレーネーとエンデュミオーンから着想を得て、インタラクティブな装置を現実と魔法と夢の世界の物語として落とし込んだ作品。鑑賞者は脳波を読み取るためのヘッドセットを着用し(現実の世界)、読み取られたデータは10種のパラメーターとなりProcessingとMaxを使ったアルゴリズム(魔法)によってスピーカーから流れる音の波長やリズムを変化させる。プロジェクターによって映写される月の映像はスピーカーの上に張られた水に反射して壁に投影され、音波による水面の振動と波紋によって壁に写った月の像が刻々と変化する(夢の世界)。




鑑賞者の無意識を読み取って映像化し、それを意識的に見た鑑賞者の無意識が揺さぶられ、その無意識が再び読み取られるループという趣向。展示の初日だが、機材トラブル無くシステムがすべて稼働している。伊藤くんが中心になってくれたKinetica Artfair 2013での僕らのインタラクティブ茶室の展示を見て伊東くんがSHARISHARISHARIに参加してくれるようになり、そのまま伊東くんは伊藤くんの卒業制作もサポート。その卒業制作を見たギャラリーのオーナーが今回の展示を誘ってくれて、同じくインタラクティブな卒業制作をしていた別のインテリアデザインの学生たちを巻き込んで今回の作品は制作されている。展示は27日まで。参加メンバーは常に会場にいるらしいので、彼らから直接解説も聞けるはずである。
終日現場のプロジェクトの作業、現場からの図面のチェック。バルコニーのディテール、階段室のディテール、テラスのディテール。昼休み、図書館でコンペDのスケッチのつづき。昼過ぎ、スタッフミーティング。ここ最近HCLAとして参加したコンペがふたつとも最終段階で敗れてしまったため反省会が開かれる。コンペをリードした二人のディレクターから応募案それぞれの提案内容について解説があったあと、ホールデンのリードでスタッフを巻き込んでディスカッション。コンペの対戦相手はいずれも我々とは比べものにならない大事務所であったが、小事務所であるHCLAがそれでもコンペに勝つための意見が交わされる。終業後、8時に新谷さん仙石さんと待ち合わせてコンペDのミーティング。共有した同じ調査報告書を読みこんで提案をつくっているので、アプローチは違うものの前提が共通していて比較検討がしやすい。それぞれの提案内容をクリティークし合いながら土曜日までの宿題を確認する。11時前に帰宅後、洗濯をしてから早めに就寝。
昼前起床。会社に出社してから奥さんとSkypeで話す。建築雑誌の木造特集号と弟が担当した漫画の単行本をロンドンに送ってくれるとのことで楽しみ。東京は寒そう。一月に予定されている国会議事堂でのホールデンのレクチャーに向けて発表原稿の下書きを書き始めたあと、退社してコヴェントガーデンヘ。エリカさんに紹介されて、Gigo Labの石上さんと会う。彼女らが日本とイギリスとフランスで計画している展示について相談を受ける。いくつかアイデアを出し、SHARISHARISHARIとして協力できそうなものを提案。11月9日に大アップデート会があるので、それまでに企画を整理してメンバーに紹介してもらうことにする。夕方ふたりと別れたあと、コヴェントガーデン周辺で奥さんにプレゼントを物色するが、探していたものは見つからず。家に帰り、奥さんに絵はがきを書く。夕食のあと、コンペDのためのリサーチとスケッチ。故障していた洗濯機が直ったので、洗濯をしてから就寝。
終日現場のプロジェクトの作業。現場から届いている図面類のチェック。階段室のディテール、窓回りのディテール、メッシュスクリーンのディテール、バルコニーのディテール。
終業後、RIBAの図書館へ。『Paxton's Palace (Anthony Bird, 1976)』、『Delamotte's Crystal Palace - A Victorian pleasure dome revealed (Ian Leith, 2005)』、『The Crystal Palace - Architecture in Detail(John McKean, 1994)』からクリスタルパレス移築に関する関連箇所をスキャンして読む。
『Paxton's Palace』には、次のような移築に関するエピソードが紹介されていた。クリスタルパレスの建物自体は、建設したコントラクターFox&Henderson社が所有していた。そのクリスタルパレスをパクストンと鉄道会社を中心とするコンソーシアムが購入し、再建の地がロンドン南郊外のシドナムに決まったものの、現地への鉄道はまだ開通しておらずテムズ川を渡る橋も現在のようには整備されていなかった。そのため解体された建材は馬と船を使って運ばれることとなり、建設予定地が傾斜の鋭い高台にあったこともあって、輸送コストはかさんだ。ボルト止めされた鉄製フレームの解体は容易であったが、屋根を構成していたガラスの大部分は解体の際に破損したため、割れたガラスは溶かして再利用された。建設地の高台が傾斜を持っていたため整地を兼ねて地下部分をつくる必要が生じ、計画に狂いが生じる。プロポーションを守りつつ広大な敷地に合わせて設計変更を行っていった結果、規模は増大し、使用されたガラスの量にして二倍の規模の施設となったため、クリスタルパレス商会は開業前から多額の借金を抱えることになった(その後クリスタルパレス商会は黒字に回復することができないまま火災の後に破産してしまうことになる)。建設はオリジナルと同じコントラクターFox&Hendersonにより同じ方法で行われたが、新造の建材は経費削減のため断面が簡略化された。建設中に12人が亡くなる事故があり、責任を感じたパクストンは建設現場から徒歩五分の場所に家を購入し、1865年に亡くなるまでクリスタルパレスに常駐するような生活を送った。
『Delamotte's Crystal Palace - A Victorian pleasure dome revealed』で紹介されている写真家Philip Henry Delamotteは、クリスタルパレスを購入したクリスタルパレス商会に依頼されて解体移築の一部始終を1851年から1854年にかけて毎週記録し、1855年に写真集『Photographic Views of the Progress of the Crystal Palace, Sydenham』としてまとめた人物。English Heritageのウェブサイトからいくつかの写真が閲覧できる。
帰宅後、コンペDの資料を読み込んだあと、明日のミーティング用にA4の資料をつくりはじめる。
終業後、RIBAの図書館へ。『Paxton's Palace (Anthony Bird, 1976)』、『Delamotte's Crystal Palace - A Victorian pleasure dome revealed (Ian Leith, 2005)』、『The Crystal Palace - Architecture in Detail(John McKean, 1994)』からクリスタルパレス移築に関する関連箇所をスキャンして読む。
『Paxton's Palace』には、次のような移築に関するエピソードが紹介されていた。クリスタルパレスの建物自体は、建設したコントラクターFox&Henderson社が所有していた。そのクリスタルパレスをパクストンと鉄道会社を中心とするコンソーシアムが購入し、再建の地がロンドン南郊外のシドナムに決まったものの、現地への鉄道はまだ開通しておらずテムズ川を渡る橋も現在のようには整備されていなかった。そのため解体された建材は馬と船を使って運ばれることとなり、建設予定地が傾斜の鋭い高台にあったこともあって、輸送コストはかさんだ。ボルト止めされた鉄製フレームの解体は容易であったが、屋根を構成していたガラスの大部分は解体の際に破損したため、割れたガラスは溶かして再利用された。建設地の高台が傾斜を持っていたため整地を兼ねて地下部分をつくる必要が生じ、計画に狂いが生じる。プロポーションを守りつつ広大な敷地に合わせて設計変更を行っていった結果、規模は増大し、使用されたガラスの量にして二倍の規模の施設となったため、クリスタルパレス商会は開業前から多額の借金を抱えることになった(その後クリスタルパレス商会は黒字に回復することができないまま火災の後に破産してしまうことになる)。建設はオリジナルと同じコントラクターFox&Hendersonにより同じ方法で行われたが、新造の建材は経費削減のため断面が簡略化された。建設中に12人が亡くなる事故があり、責任を感じたパクストンは建設現場から徒歩五分の場所に家を購入し、1865年に亡くなるまでクリスタルパレスに常駐するような生活を送った。
『Delamotte's Crystal Palace - A Victorian pleasure dome revealed』で紹介されている写真家Philip Henry Delamotteは、クリスタルパレスを購入したクリスタルパレス商会に依頼されて解体移築の一部始終を1851年から1854年にかけて毎週記録し、1855年に写真集『Photographic Views of the Progress of the Crystal Palace, Sydenham』としてまとめた人物。English Heritageのウェブサイトからいくつかの写真が閲覧できる。
帰宅後、コンペDの資料を読み込んだあと、明日のミーティング用にA4の資料をつくりはじめる。
昼前に起床。奥さんとSkypeで話してからRIBAの図書館へ。先週は『Palace of the People The Crystal Palace at Sydenham 1854-1936 (J.R. Piggott, 2004)』から解体移築に関する部分をスキャンしたが、今日は『The Crystal Palace 1851-1936 A Portrait of Victorian Enterprise (Patrick Beaver, 1970)』から移築に関する箇所をスキャンして読んだ。建設から開幕に至るまでと、解体から移築に至るまでの政治的背景、登場人物の関係は整理できてきた。元々のクリスタルパレスは三階建てで、内装を含めて9ヶ月の工期で完成した。移築後のクリスタルパレスは規模が拡張され五階建てになり、完成におよそ2年の歳月を要した。1851年の万国博覧会とクリスタルパレスはヴィクトリア時代のイギリスの工業文化の象徴であったが、閉幕後、工業文化育成的な側面はアルバート公により万国博覧会場に近いサウスケンジントンに残されアルバートポリスとなり、クリスタルパレス自体は民間に売却され南ロンドンに移築され鉄道網と結びついてヴィクトリア時代のレジャーの象徴として商業的な成功を果たした。肝心のディテールや具体的な移築の方法については明確な説明は見つけられていないが、図面や写真等の資料は揃ってきた。移築後の計画もパクストンが手がけ、部材の移動および再建は元のクリスタルパレスの施工を手がけたのと同じコントラクターFox and Henderson's(Charles Fox)であるから、そこには分離分解を見据えた一貫した構法デザインがあったのではないかと期待しているのだが…。
RIBAの近くのスターバックスでスキャンした本を読んでいると、ダニエルから電話があり合流したいとのこと。しばらく話をしたあと、なにかもやもやとした悩みを抱えていそうだったので、一緒にデザインミュージアムに行ってみることにする。一階の企画展「THE FUTURE IS HERE: A NEW INDUSTRIAL REVOLUTION」では、もともとの産業革命を歴史的に説明したあとに現代の新しいマニュファクチュアの方法を展示してその革命性をなぞらえているのだけど、デザインされた「モノ」がMake/Makersにまつわる耳慣れたキーワードとともに羅列されている少々散漫な展示。すでに他の場所で紹介されていること以上の内容ではないなあという印象。工作機械が稼働している様子が見れたりしたらそれだけでしびれる展示だったと思うけど、小型のレーザーカッターや3Dプリンタ、ロボットアームを除いては、映像での展示or完成した製品の展示ばかりで残念。



二階の展示室では「Extraordinary Stories about Ordinary Things」を開催中。常設コレクションに基づくもので、身の回りのありふれた品がいかにデザインされてきたかを紹介している。Giles Gilbert Scott(バタシー発電所など)のデザインによる電話ボックスが、屋根はジョン・ソーンの墓のデザインをオマージュしているとか(デザインコンペ参加時、彼はちょうどジョン・ソーン博物館の管財人の一人に就任したばかりだった)。オムニバス的な展示だから紹介されている内容は断片的。とはいえ、道路標識や信号機など大量生産され匿名的に街の風景を構成する要素が、特定の個人デザイナーの資質によって恣意的に生み出されたものであることを教えてくれるこの展示は、前者の展示が示唆する「デザイナー/製造業者/消費者の境目が曖昧になるマスカスタマイゼーションされた未来」のそれと対照的に紹介しようと意図的に企画されたものだったのかもしれない。


帰り道、テムズ川の南から対岸のシティを眺める。このあたりは、セントポール寺院とロンドン塔の景観を守るべく大ロンドン市が設定した多くのビスタが交わる地点で建物の形状や高さに制限があるのだが、その指定されたビスタの合間をかいくぐって、高層ビルが林立している。

遠近感もあるとはいえ、数年前はひときわ高く見えたガーキン(高さ180メートル)が今では小さく見える…。

上階へいくほど床面積が増えていく川沿いの高層建築は、ラファエル・ビニョリによるオフィスビル、ウォーキー・トーキーこと20 Fenchurch Street。37階建て、高さ160メートル。もともとここに建てられていた60年代のオフィスビルも、やはり頭部に特徴のあるフォルムをしていて、シティで最初期の高層建築(高さ90メートル)であった。2000年代以降に加速的に建てられ始めたシティの高層オフィス建築群は、少しずつ限界を押し広げながら、新しいコンテクストをつくりだしている。ロンドンではこれら高層建築を「Tall Buildings」と呼び特別なポリシーを制定してデザインにおける要求事項を公開しているが、City of Londonでは、建設中のものも含めてTall Buildingsのリストを公開し、エリアごとの傾向を整理している。(City of LondonのTall Buildingsに関する公式ページより、建設中のものも含めた高層建築リストのPDF)
RIBAの近くのスターバックスでスキャンした本を読んでいると、ダニエルから電話があり合流したいとのこと。しばらく話をしたあと、なにかもやもやとした悩みを抱えていそうだったので、一緒にデザインミュージアムに行ってみることにする。一階の企画展「THE FUTURE IS HERE: A NEW INDUSTRIAL REVOLUTION」では、もともとの産業革命を歴史的に説明したあとに現代の新しいマニュファクチュアの方法を展示してその革命性をなぞらえているのだけど、デザインされた「モノ」がMake/Makersにまつわる耳慣れたキーワードとともに羅列されている少々散漫な展示。すでに他の場所で紹介されていること以上の内容ではないなあという印象。工作機械が稼働している様子が見れたりしたらそれだけでしびれる展示だったと思うけど、小型のレーザーカッターや3Dプリンタ、ロボットアームを除いては、映像での展示or完成した製品の展示ばかりで残念。



二階の展示室では「Extraordinary Stories about Ordinary Things」を開催中。常設コレクションに基づくもので、身の回りのありふれた品がいかにデザインされてきたかを紹介している。Giles Gilbert Scott(バタシー発電所など)のデザインによる電話ボックスが、屋根はジョン・ソーンの墓のデザインをオマージュしているとか(デザインコンペ参加時、彼はちょうどジョン・ソーン博物館の管財人の一人に就任したばかりだった)。オムニバス的な展示だから紹介されている内容は断片的。とはいえ、道路標識や信号機など大量生産され匿名的に街の風景を構成する要素が、特定の個人デザイナーの資質によって恣意的に生み出されたものであることを教えてくれるこの展示は、前者の展示が示唆する「デザイナー/製造業者/消費者の境目が曖昧になるマスカスタマイゼーションされた未来」のそれと対照的に紹介しようと意図的に企画されたものだったのかもしれない。


帰り道、テムズ川の南から対岸のシティを眺める。このあたりは、セントポール寺院とロンドン塔の景観を守るべく大ロンドン市が設定した多くのビスタが交わる地点で建物の形状や高さに制限があるのだが、その指定されたビスタの合間をかいくぐって、高層ビルが林立している。

遠近感もあるとはいえ、数年前はひときわ高く見えたガーキン(高さ180メートル)が今では小さく見える…。

上階へいくほど床面積が増えていく川沿いの高層建築は、ラファエル・ビニョリによるオフィスビル、ウォーキー・トーキーこと20 Fenchurch Street。37階建て、高さ160メートル。もともとここに建てられていた60年代のオフィスビルも、やはり頭部に特徴のあるフォルムをしていて、シティで最初期の高層建築(高さ90メートル)であった。2000年代以降に加速的に建てられ始めたシティの高層オフィス建築群は、少しずつ限界を押し広げながら、新しいコンテクストをつくりだしている。ロンドンではこれら高層建築を「Tall Buildings」と呼び特別なポリシーを制定してデザインにおける要求事項を公開しているが、City of Londonでは、建設中のものも含めてTall Buildingsのリストを公開し、エリアごとの傾向を整理している。(City of LondonのTall Buildingsに関する公式ページより、建設中のものも含めた高層建築リストのPDF)

木曜日
終日現場のプロジェクトの作業。施工業者と電話でやり取りしつつ進める。帰宅後、SHARISHARISHARIの今後の進め方についての所存をFacebook上でメンバーに呼びかける。メンバーからの意見を期待したい。少し言葉を変えて書くと以下のようなこと。
これからSHARISHARISHARIの活動をどう進めて行こうかと考えていた。集まることが目的化してはいけないので、よりよいアウトプットを外に向けて発信し続けるために、試しに年内は必要なときにだけ週末に集まるスタイルにしようかと思っている。全体の活動として月に一回の大アップデート会を第二土曜日にHCLAを会場にして開く。そこでは個人の活動とSHARIとしての活動を共有して批評し合うことにして、外部の人も招いて風通しよくし、新しいプロジェクトが始まるきっかけの場とする。一方で、進行中のプロジェクトごとには参加メンバーを集めて不定期で集まる必要があるが、それは土曜日とは限らないし場所も自由とする。この小グループ活動は大アップデート会で報告して他メンバーに批評してもらうことで、よりよいアウトプットに近づいていけるようにする。機動力を重視したこちらの小グループ活動はFacebook上でメンバーに呼びかけてもいいしオフラインで同志を募ってもいいし、プロジェクトを始めたい/参加したい人は、まずは僕に相談してくれてもOKということにする。
これはSHARI内のいろいろな人と話したり見聞きしたことを踏まえつつ考えたことである。NZのホテルプロジェクトはクライアントの方からよいフィードバックを得られ、先日提出したアイデアコンペでは優秀賞をいただき、先週の大アップデート会には多くのメンバー&非メンバーが集まって活発な議論ができた。こうした最近の成果から、SHARISHARISHARIの存在意義を再確認することができたのではあるが、見聞を広げるために始めた活動が逆に見聞を狭めてはいないだろうかという疑問もあった。僕にとってSHARISHARISHARIの活動の可能性は、非建築分野の人と一緒にいろいろな視点から建築を考えることで、より多くの問いへの応えがよりよく統合されたデザインに近づけることだと思っている(普通のことだけど、大事なことである)。だが、こうした可能性をより高いレベルで実現するには僕(僕ら)自身が建築のプロフェッショナルとしてもっと勉強しなければいけないし、活動自体もメンバーももっと外の人に対して開かれたものになっていかなければならない。というわけで、メンバーみなが週末に自分自身のために勉強できる時間をより多く確保し、それをSHARISHARISHARI内の活動に還元する&外にも発信していくことができるように、というのが上記の考えの根拠である。
面白いことが持続的にできる場としてSHARISHARISHARIをロンドンに残すのがこれから半年間でのチャレンジ。
金曜日
携帯電話の加速度メーターを利用してレム睡眠/ノンレム睡眠のリズムを判断し、起きたい時間に近い「起きやすい時間」にアラームを鳴らしてくれる目覚まし時計を使い始めた。気のせいかもしれないけど気持ちよく起きれた気がする。単に十分に睡眠を取れただけかもしれないけど。
出社後、最重要案件として扱ってくださいとの但し書きを添えてサブコンの図面が施工業者から昨晩送られてきていたことに気づく。工場製作に入る直前の鋼製部品の図面。建物に電気や水道等のライフラインを引き込むために取り外さなければならない仮囲いと足場の解体期限が迫っていて、現場では足場が無いと作業できない部品の製作・取り付けが急ピッチで進められている。工事が終盤に近づくにつれてクレーンの解体期限も迫っており、クレーンでのみ上階に運べる部品の製作・搬入期限も同様に迫っている。重くて、なおかつファサードに現れてくる鋼製部品は、どちらにも該当しているのでスケジュールが厳しい。しかしいくつか納得できないディテールがあったのでサブコンに直接電話。昼過ぎに解決する。溶接と一口に言ってもいろいろな溶接法および後処理の仕方があり、同様にネジとボルトにもいろいろと種類があって、ネジを受ける先の処理、ネジの頭の処理、いろいろと方法があって見た目も強度も違ってくる。モノとモノが出会う場所には必ず接続のディテールがあって、それが密着しているべきなのか、間に何かを挟むべきなのか、すぐに固まるべきなのか、始めは緩くて徐々に固まるべきなのか、考えなければいけないことはいろいろ。経験豊富なメタルワーカーと仕事をしていても、彼らが描く図面には彼らなりの合理性と価値判断による制約があって、まさかそんなところまでというくらいディテールそのものから離れたところにあるデザインコンセプトを説明することが突破口になり、彼ら(時には自分)が拘泥していた固定観念が取り払われてよりよい解決法が突然にして現れることがある。その解決策は必ずしも僕らがそこで発明したわけではなくて、ある条件下ではクルドサック化していた技術が、その条件を取り払ったとたんによりよい解決策として浮上してきただけだったりする。知識と経験を持っている人に、自分が求めている方向性でのよりよいアイデアを出してもらうために、共感と共有がいかに大事であるか。
「I know I ask perfection of a quite imperfect world / And fool enough to think that's what I'll find」中学生のとき英語の授業で聴いてから、折に触れて頭の中に聴こえてくるThe Carpentersの曲の一節。
昼、近所で働くダニエルと待ち合わせていつものカフェで昼飯。彼の最近の仕事の話を聞いたあと、先日ドバイから帰ってきたコラボレーターからダニエルが聞いた僕らのプロジェクトのドバイでの進捗状況、ロンドンの文化振興団体と半年後くらいに計画している日本とイギリスの建築に関するトークイベント@ロンドンの企画などについて話す。昨日僕がFacebookに投稿したSHARISHARISHARIの今後についての所存を、ダニエルがどう思ったかなどについても聞く。
帰社後、現場から届いていた6セットの工場製作用図面をチェックする作業のつづき。異なる場所で製作された部品が現場で組み合わさったときにどんなことが起こるか、裏から表まで全部わかっているのはプロジェクトに初日からフルタイムで関わっている僕しかいない。図面を書いているときは内側(下地)を想像しながら外側(仕上げ)を描いていたが、現場視察および工場図面チェックでは外側を想像しながら内側をチェックしなければいけない。
帰宅後、夕食のあと少しのんびりしてから早めに就寝(する予定)。
終日現場のプロジェクトの作業。施工業者と電話でやり取りしつつ進める。帰宅後、SHARISHARISHARIの今後の進め方についての所存をFacebook上でメンバーに呼びかける。メンバーからの意見を期待したい。少し言葉を変えて書くと以下のようなこと。
これからSHARISHARISHARIの活動をどう進めて行こうかと考えていた。集まることが目的化してはいけないので、よりよいアウトプットを外に向けて発信し続けるために、試しに年内は必要なときにだけ週末に集まるスタイルにしようかと思っている。全体の活動として月に一回の大アップデート会を第二土曜日にHCLAを会場にして開く。そこでは個人の活動とSHARIとしての活動を共有して批評し合うことにして、外部の人も招いて風通しよくし、新しいプロジェクトが始まるきっかけの場とする。一方で、進行中のプロジェクトごとには参加メンバーを集めて不定期で集まる必要があるが、それは土曜日とは限らないし場所も自由とする。この小グループ活動は大アップデート会で報告して他メンバーに批評してもらうことで、よりよいアウトプットに近づいていけるようにする。機動力を重視したこちらの小グループ活動はFacebook上でメンバーに呼びかけてもいいしオフラインで同志を募ってもいいし、プロジェクトを始めたい/参加したい人は、まずは僕に相談してくれてもOKということにする。
これはSHARI内のいろいろな人と話したり見聞きしたことを踏まえつつ考えたことである。NZのホテルプロジェクトはクライアントの方からよいフィードバックを得られ、先日提出したアイデアコンペでは優秀賞をいただき、先週の大アップデート会には多くのメンバー&非メンバーが集まって活発な議論ができた。こうした最近の成果から、SHARISHARISHARIの存在意義を再確認することができたのではあるが、見聞を広げるために始めた活動が逆に見聞を狭めてはいないだろうかという疑問もあった。僕にとってSHARISHARISHARIの活動の可能性は、非建築分野の人と一緒にいろいろな視点から建築を考えることで、より多くの問いへの応えがよりよく統合されたデザインに近づけることだと思っている(普通のことだけど、大事なことである)。だが、こうした可能性をより高いレベルで実現するには僕(僕ら)自身が建築のプロフェッショナルとしてもっと勉強しなければいけないし、活動自体もメンバーももっと外の人に対して開かれたものになっていかなければならない。というわけで、メンバーみなが週末に自分自身のために勉強できる時間をより多く確保し、それをSHARISHARISHARI内の活動に還元する&外にも発信していくことができるように、というのが上記の考えの根拠である。
面白いことが持続的にできる場としてSHARISHARISHARIをロンドンに残すのがこれから半年間でのチャレンジ。
金曜日
携帯電話の加速度メーターを利用してレム睡眠/ノンレム睡眠のリズムを判断し、起きたい時間に近い「起きやすい時間」にアラームを鳴らしてくれる目覚まし時計を使い始めた。気のせいかもしれないけど気持ちよく起きれた気がする。単に十分に睡眠を取れただけかもしれないけど。
出社後、最重要案件として扱ってくださいとの但し書きを添えてサブコンの図面が施工業者から昨晩送られてきていたことに気づく。工場製作に入る直前の鋼製部品の図面。建物に電気や水道等のライフラインを引き込むために取り外さなければならない仮囲いと足場の解体期限が迫っていて、現場では足場が無いと作業できない部品の製作・取り付けが急ピッチで進められている。工事が終盤に近づくにつれてクレーンの解体期限も迫っており、クレーンでのみ上階に運べる部品の製作・搬入期限も同様に迫っている。重くて、なおかつファサードに現れてくる鋼製部品は、どちらにも該当しているのでスケジュールが厳しい。しかしいくつか納得できないディテールがあったのでサブコンに直接電話。昼過ぎに解決する。溶接と一口に言ってもいろいろな溶接法および後処理の仕方があり、同様にネジとボルトにもいろいろと種類があって、ネジを受ける先の処理、ネジの頭の処理、いろいろと方法があって見た目も強度も違ってくる。モノとモノが出会う場所には必ず接続のディテールがあって、それが密着しているべきなのか、間に何かを挟むべきなのか、すぐに固まるべきなのか、始めは緩くて徐々に固まるべきなのか、考えなければいけないことはいろいろ。経験豊富なメタルワーカーと仕事をしていても、彼らが描く図面には彼らなりの合理性と価値判断による制約があって、まさかそんなところまでというくらいディテールそのものから離れたところにあるデザインコンセプトを説明することが突破口になり、彼ら(時には自分)が拘泥していた固定観念が取り払われてよりよい解決法が突然にして現れることがある。その解決策は必ずしも僕らがそこで発明したわけではなくて、ある条件下ではクルドサック化していた技術が、その条件を取り払ったとたんによりよい解決策として浮上してきただけだったりする。知識と経験を持っている人に、自分が求めている方向性でのよりよいアイデアを出してもらうために、共感と共有がいかに大事であるか。
「I know I ask perfection of a quite imperfect world / And fool enough to think that's what I'll find」中学生のとき英語の授業で聴いてから、折に触れて頭の中に聴こえてくるThe Carpentersの曲の一節。
昼、近所で働くダニエルと待ち合わせていつものカフェで昼飯。彼の最近の仕事の話を聞いたあと、先日ドバイから帰ってきたコラボレーターからダニエルが聞いた僕らのプロジェクトのドバイでの進捗状況、ロンドンの文化振興団体と半年後くらいに計画している日本とイギリスの建築に関するトークイベント@ロンドンの企画などについて話す。昨日僕がFacebookに投稿したSHARISHARISHARIの今後についての所存を、ダニエルがどう思ったかなどについても聞く。
帰社後、現場から届いていた6セットの工場製作用図面をチェックする作業のつづき。異なる場所で製作された部品が現場で組み合わさったときにどんなことが起こるか、裏から表まで全部わかっているのはプロジェクトに初日からフルタイムで関わっている僕しかいない。図面を書いているときは内側(下地)を想像しながら外側(仕上げ)を描いていたが、現場視察および工場図面チェックでは外側を想像しながら内側をチェックしなければいけない。
帰宅後、夕食のあと少しのんびりしてから早めに就寝(する予定)。
朝、ホステルを出て家の玄関のベルを鳴らして部屋に入り、支度をして会社へ。現場の視察レポートを送信したあと、サブコンからのディテール図面をチェック。コントラクター側のデザインコーディネーターの携帯電話に直接連絡を入れつつ、迅速に処理を進める。昼休みに考え事をしつつ会社の回りを歩いていたら、たまたま藤井さんに会った。ロンドンで面白いことを学ばれているので、次回(来月)のSHARISHARISHARI大アップデート会への参加をお願いする。夜、新谷さん仙石さんと待ち合わせてコンペのキックオフミーティング。今まで一緒にやったことのないメンバーを交えてコンペをやってみようという試み。テクノロジカルな提案と衣食住の提案が結びつくようなプロポーザルをつくれれば。夕食のあと解散。
少しずつ読んでいるクリスタルパレスの解体・移築に関する文献。もともと1851年5月に開幕した万国博覧会のために建設された際に、閉幕後には速やかに撤去することとの条件がついて建設許可が下りていたらしい(とはいえ、それはもともとレンガ造だった別デザインについて出たものであったが)。開幕前の1851年の3月にはすでに、閉幕後は解体してニューヨークに移築され翌年に予定されていた博覧会の施設とする計画があったが、おそらく万国博覧会の成功とそれによって生まれた人々の愛着を背景に、1851年7月には設計者であるジョセフ・パクストンが国会で陳情する形で、1852年5月までは解体されないことが決定された。期限直前の1852年4月に、近隣住民との約束通りに敷地をもとの芝生に復旧することが国会で確認され、クリスタルパレスの解体が決まる。民間に売却し商業的なエンターテイメント施設として利用しようとする陣営と、万国博覧会の展示内容を受け継いだ教育施設として利用すべしとするアルバート公らの陣営の間で、クリスタルパレスの移築先と利用法について議論が交わされたが、万国博覧会を受け継いだ研究教育都市アルバートポリス(現在のV&Aミュージアム周辺のエリア)の計画が固まるにつれてアルバート公らの陣営も軟化し、クリスタルパレスはコンソーシアムに売却、シドナムに移築先が決まったという流れらしい。この過程でオーウェン・ジョーンズやパクストン自身を含めた当時の建築家たちによって提案されたクリスタルパレス改装案や移築案、再建案がいろいろ登場するのだが、そのあたりはもう少し調べてからまとめたい。
少しずつ読んでいるクリスタルパレスの解体・移築に関する文献。もともと1851年5月に開幕した万国博覧会のために建設された際に、閉幕後には速やかに撤去することとの条件がついて建設許可が下りていたらしい(とはいえ、それはもともとレンガ造だった別デザインについて出たものであったが)。開幕前の1851年の3月にはすでに、閉幕後は解体してニューヨークに移築され翌年に予定されていた博覧会の施設とする計画があったが、おそらく万国博覧会の成功とそれによって生まれた人々の愛着を背景に、1851年7月には設計者であるジョセフ・パクストンが国会で陳情する形で、1852年5月までは解体されないことが決定された。期限直前の1852年4月に、近隣住民との約束通りに敷地をもとの芝生に復旧することが国会で確認され、クリスタルパレスの解体が決まる。民間に売却し商業的なエンターテイメント施設として利用しようとする陣営と、万国博覧会の展示内容を受け継いだ教育施設として利用すべしとするアルバート公らの陣営の間で、クリスタルパレスの移築先と利用法について議論が交わされたが、万国博覧会を受け継いだ研究教育都市アルバートポリス(現在のV&Aミュージアム周辺のエリア)の計画が固まるにつれてアルバート公らの陣営も軟化し、クリスタルパレスはコンソーシアムに売却、シドナムに移築先が決まったという流れらしい。この過程でオーウェン・ジョーンズやパクストン自身を含めた当時の建築家たちによって提案されたクリスタルパレス改装案や移築案、再建案がいろいろ登場するのだが、そのあたりはもう少し調べてからまとめたい。
朝、ホールデンも交えてCLTメーカーのエンジニアとのミーティング。年始に予定されているレクチャーに向けての情報収集。のはずだったが、途中からホールデンの夢のプロジェクトの話になり盛り上がる。その後、昨日の現場視察を踏まえいくつかの図面情報を整理してコントラクターに送信。午後は現場の視察レポートをまとめる。終業後、ROHへ。カルロス•アコスタ新振り付けによるバレエ『ドン・キホーテ』を観る。今週の水曜日には映画館でLive中継があり、日本でも一日遅れて中継されるようだ。奥さんも中継を観に行くというので、チケットを買いそびれていたがたまたま前日まで売れ残っていた安い席があったので急遽確保。オリジナルを観たことはないので違いはわからないけど、リズミカルで緩急のある作品。キックするように足を素早く振り上げる動作や、一連の動作のあとに手足をすっと伸ばす動作が、観ていて気持ちいい。主役の二人は、僕と奥さんの間でマキューシオと呼ばれているアレクサンダー・キャンベルと、怪我で降板のロベルタ・マルケスの代役で高田茜。アレクサンダー・キャンベルは小柄で、踊っていても小さく見えるんだけど、動きにキレがあって静止した動作からもエネルギーを感じる。大柄なキャストが脇に配役されている中で、小柄な二人によるバジルとキトリは、周囲の人に見守られて大団円で幸せをつかむ物語にぴったりだった。

ちなみに登場シーンとその直後のシーンで高田茜が滑って尻餅をつく場面があり、幕間に「床材に問題がありダンサーが転倒して危険なので対策を講じる」と説明があって2幕目以降はレンガ調の床材がはがされて舞台が進行した。帰宅後、部屋に家の鍵を忘れてしまっていたことに気づいて玄関のベルを鳴らすも、フラットメイトたちは留守の様子。近所に安く泊まれるホステルがあったのでそこで一晩を過ごすことにする。ちょっとした旅行気分。二段ベッドだがすぐに眠りにつけた。

ちなみに登場シーンとその直後のシーンで高田茜が滑って尻餅をつく場面があり、幕間に「床材に問題がありダンサーが転倒して危険なので対策を講じる」と説明があって2幕目以降はレンガ調の床材がはがされて舞台が進行した。帰宅後、部屋に家の鍵を忘れてしまっていたことに気づいて玄関のベルを鳴らすも、フラットメイトたちは留守の様子。近所に安く泊まれるホステルがあったのでそこで一晩を過ごすことにする。ちょっとした旅行気分。二段ベッドだがすぐに眠りにつけた。