顎鬚仙人残日録

日残りて昏るるに未だ遠し…

斎藤監物と静神社(那珂市)…桜田門外の変の志士

2020年05月27日 | 歴史散歩

斎藤監物の墓地は静神社の南側、静溜沼のほとりの小高い林の中にあります。
案内板によると、斎藤監物(1822~1860)名は一徳、号は文里、監物は通称。代々静長官と称した静神社の神官の家に生まれ、成沢村(水戸市)の庄屋加倉井砂山の日新塾に学び、神官としての教育は父元親から受けました。
その後、藤田東湖のもとで学問にはげみ特に書をよくし、師東湖にそっくりの字を書き代書を務めたと伝えられています。剣は神道無念流。

天保14年(1843)に水戸東照宮の神官となり、さらに弘道館内鹿島神社の神官も兼ねました。
天保15年、藩主徳川斉昭公が幕府から隠居謹慎の処罰を受けた際は、周辺の神官たちを率いて雪冤運動に奔走しました。

安政5年(1858)大老井伊直弼は日米修好通商条約に無勅調印、これに抗議した斉昭公や吉田松陰ら多くを処罰、処刑した安政の大獄が起こりました。憤激した水戸藩の脱藩浪士17名と薩摩藩士1名らが安政7年(1860)3月3日桜田門外において井伊大老を襲撃、この時監物は神官同志の三嶋神社(那珂市米崎)の海後磋磯之介、鹿島神社(城里町古内)の鯉渕要人らと襲撃に加わりました。
監物は重傷を負いながら斬奸趣意書を老中脇坂安宅邸に届け、その夕刻には肥後藩細川越中守邸に預けられましたが、傷が悪化し3月8日に死去、享年39歳。
辞世の句「君がためつもるおもいも天つ日に とけてうれしき 今朝の淡雪」

斎藤監物が安政4年(1857)5月9日の水戸藩校弘道館本開館式の鹿島神社遷宮式で奏上した祝詞、末裔の方から弘道館に寄託されました。撰文は小川修理、祭主は家老山野辺義芸の名が記されています。

斎藤監物はまた、桜田門外の変の現場実行指揮者だった関鉄之助らとともに大宮郷校の教授も務めました。

静神社は、東国の三守護神として鹿島神宮、香取神宮とともに崇拝され、豊臣家、徳川家からも社領としての朱印が付され、鹿島神宮に続き常陸二宮として古くから信仰されてきました。


本殿には国の重要文化財に指定されている社宝の銅印が納められています。水戸藩2代藩主徳川光圀公が社殿を修造する時に、本殿脇の大きな桧の根本から「静神宮印」と彫られた銅印が見つかったことを大層喜び、黒塗りの箱に納めて社宝として神社に蔵したとされています。
拝殿幕の神紋は桜です。

天保12(1841)年の火災で、徳川光圀公が造営した社殿は焼失し、現在の壮厳なたたずまいの本殿・拝殿は、水戸藩9代藩主斉昭公が再建したものです。

その天保12年(1841)の火災で枯れたご神木、千度杉は目通り6.5m、樹齢約千年、この杉の周囲を千度廻ると願い事がかなうといわれてきました。中切りして建屋の中に祀られています。

斉昭公が軍事演習の追鳥狩のために成沢村の加倉井家の大欅で作った陣太鼓3個のうちの一つで、直径146㎝、長さ61㎝、水戸藩の絵師萩谷僊喬(僊のニンベンなし)が「八方睨み龍」を描いた鼓面は残念ながら裂けていました。
他の二つは水戸八幡宮と常盤神社に奉納されています。

なお襲撃に加わった他の二人の神官、鯉渕要人、海後磋磯之介については、拙ブログ「桜田門外の変(3月3日)…参加の神官3名」で紹介させていただきました。