アルバン・ベルク四重奏団。僕は、ドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏曲のCDを持ってて、好きでよく聞いていますが、今朝は、新たに、この四重奏団のモーツァルト。
まずは、第15番を聞いてるところです。
もう、普通の和音が、あるだけのような場面でも、これを書こうとすると、なかなか書けないわけです。
前に、ベートーヴェンのピアノソナタ「悲愴」の、最初の和音について、同じようなことを書いた覚えがありますが、一つの、シンプルに聞こえる和音の、なんと奥深いことでしょう。
ちなみに、悲愴の最初の和音は、下から、ド・ミ♭・ソ・ド ミ♭・ソ・ド という、
いわゆるCm、ごく普通の並びなんですけどね。
バッハの無伴奏チェロ組曲になると、もう、和音ですらないわけですが、なんで、あんなに豊かなのかなぁ、と。
ギターで、ロックンロールをやっていますと、ふっと出てくる、7thのすごさにやられます。
ドレミファソラシのシが♭。
これも、どこにでもあればいいというのではなくて、いいところで、くるからしびれるんですけどね。
などと書いてるあいだに、15番が終わり、CDは、そのまま16番に。
ヴァイオリンって、キーが高いですよね。
ギターの最高音より、高いところもとっても気持ちがいい。
ギターが、意外と低いキーの楽器だと、気がつくわけです。
人は、けっこう高い音域の音を、自然に聞いたりしてるんですよね。
水は、氷、水、水蒸気、みたいに、固体、液体、気体に、なりますが、どの状態でも、それがそのものであることに変わりなく、ちょっと、仏教的なことで言えば、命の形も、似たようなことがあるのかもしれないなと。
音や色の周波数帯で、人が感じられる範囲は、ごく限られていますが、それ以外のところにも、自然のものすごい音楽があったり、ものすごい絵画があったりするんだろうな、と。
モーツァルトを聞いてるときと、朝起きて、顔を洗ってるときに考えてることが、同じというのも、なにか、のような気がしますが、今は、これ以上考えないのです。
さ、今日も、がんばろう。
素敵な一日になりますように。
美しい明日へ心をこめて歌っています。
洋司