Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

筋トレがなぜ必要か?

2019年03月07日 | 日記
 私は20代の頃からスポーツクラブに行き始めました。その後、何年も行かない期間も度々ありましたが、今に至るまで少しづつ有酸素運動とウエイトマシーンによる筋肉トレーニングを続けています。最初はダイエットのためでしたが、40代からは健康のため、病気にならないよう免疫力UPのため、また生活習慣病予防のためと目的が変化してきました。それに応じて、トレーニングの量・頻度も少なくはなっていますが、今は安く利用できる市のスポーツ施設を利用しています。
 なぜこんなことをしなければならないんだろうと思いながら、重いウエイトを引っ張ったり、持ち上げたり何回か反復し、黙々と自分で決めた量をこなしていきます。トレーニングすること自体を楽しめる人もいると思いますが、私のように怠け者は、出来ればしないですめば越したことがなく、家でゴロゴロしていたいものです。それでも、やれば体がとても調子良く、目的のために続けています。また、人よっては、筋トレをしなくても毎日歩いている方など運動の方法は人様々ですが、とにかく重力に逆らって体を少しでも動かすことが、健康に良いのではと思います。
 身体だけでなく、私たちの品性も筋トレが必要だと思います。したくなくても、しなければならないことや、背負いたくない困難も起きてしまうことが人生の中で誰にでもあると思います。何もおこらず、人生順風満帆であれば楽ですが、同時に我慢すること、耐え忍ぶ機会もなく、いつも他者(例えば親とか)が自分の代わりに何かをしてくれてしまうと、自分で問題をどう対処するかという考える力もつきません。そのような人は社会生活の中で独りで生き延びていくのが困難となるでしょう。精神にウエイトがかかる、つまり試練を通ることによって、ちょっとのことでは弱音をはかずに、なんとかやって行こうという強さが育くまれ、忍耐力がつき、成長する機会となるのではないでしょうか。
 もちろん、皆がそんな簡単に心が成長できたら、心の病もおきないですし、世の中もっと問題がないはずです。人間は自分の意志の力だけでは、乗り越えられない状況があります。ですから、私は信仰が必要だと思います。信仰とは目に見えないものですが、これがあれば自分以外の、人間以外のもっと大きな存在、神の存在を信じ、神が良くしてくれる、救ってくれるという希望を持てます。キリストの弟子ヤコブという人は下記の箇所にあるように、試練をいわば信仰の筋トレのウエイトのように例えています。人生に苦難や辛いことが起こることによって、自分の信仰が試され、結果的に忍耐が生じ、成長するというのです。「私は信じています」、と口で言うだけでは、それが本物かどうかわかりません。何か悪いことがおこり、それが自分の思う通りに解決されないと、ああ、この神は私を助けてくれないから、だめだ、と信じるのを止めてしまうかもしれません。その人の思うとおりにないと、他の神を探すからです。
 しかし、聖書の神はご利益宗教ではありません。逆に、神は悪い事がおこっても、良いほうに繋がる様、その試練を用いられます。このことを信じて、感情的にはアップダウンしながらも、忍耐して、神が道を開かれるのを待つという選択をとることで、信仰が成長させられます。また、自分だけでなく、同様の問題を抱える人にも励まし、慰めの言葉をかけられるようになると書かれています。*1 私は感情的には、試練は勘弁してください、ウエイト挙げられるのは嫌です、と言いたいところですが、私の能力・弱さをご存知である神にウエイトの重さはお任せすることにします。そして、自身の忍耐力がアップされるだけでなく、他者を励ましたりできる品性に変えられていきたいと願います。

「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」 ヤコブの手紙1章3節

 
*1「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」第2コリント人への手紙1章 4節


幼い子のように

2019年03月06日 | 日記
 近代になって、ようやく法の下の平等が法律で定められ、人権という概念が普及してきていますが、昔は日本でも西洋諸国でも、女性と子供は見下された存在でした。神はもちろん、このような差別や階級を設けたことはなく、これらは人間が作り出したものです。イエスがこの世に生きておられた時代もこのような不平等、差別はあり、イエスの弟子たちは子どもなんかに自分たちの先生を煩わせてはならないと、追い返そうとしたところが下記の箇所です。

イエスはやさしい、愛の方であり、憤るというイメージはないのですが、聖書にはイエスが憤る、もしくは少し荒々しいふるまいをなさる箇所が記されていて、それらには共通した理由を見いだせます。それは、人が神に近付こうとすることを誰かが妨げる時、また妨げるシステムに対してイエスは怒られています。子供たちがせっかくイエスに祝福してもらおうと近寄ったのに、弟子たちはそれを妨げようとしました。また、神を礼拝する神殿において、高額の手数料を支払わないと、捧げもの(お金、動物等)を捧げられない商売が当時行われていました。その商売人から宗教家たちが利益を得ており、一般人はお金を払わないと礼拝が出来ないシステムになっていました。つまり、この神殿のシステムが多くの貧しい人たちを神から遠ざけていることに対してイエスは怒られ、その商売人たちの机をひっくり返し、売り物の動物たちを放ちました(鳩は除く、なぜなら鳩は飛んでいったら、取り戻せない為。一応イエスは、彼らの所有物を失わせないという配慮を取られています)。

 愛とは、すべてに対して寛容にいいよ、いいよと許可することではありません。悪に対しては断固として拒否し、憤ってよいのです。一方、義憤はあってよいのですが、イエスは武器で戦うなとも言われています。その思いを暴力に発展させてはならないのです。武力による争いは復讐の負の連鎖を増大させます。代わりに「自分を迫害する者に対して祈りなさい」*1、「悪に対して悪で報いてはならない」*2 と言う聖書の教えに従い、悪を行う人が悔い改めて悪い行いをやめることを祈ることは出来るでしょう。これが、一つの武器を使わない戦いであり、相手に勝つ事が出来るのではないでしょうか。もちろん、悪から逃げる、隠れることも必要です。神は私たちの避け所であり*3、危険が迫った時に守って下さる方だからです。

神はイエス・キリストを通して、私たちの心が神から遠く離れている状態をご自分に近付けようとされ、その道を開いて下さっています。それは、資格や階級、人種に関わらず、お金もいりません。ただ幼い子が単純に疑わずに何でも信じるように、キリストを信じるだけで誰でも神に近付き、神の恵と愛を受け取れるというキリストという道です。その道を歩み続けたいと願いつつ、同時に自分が無意識にしていること、正しいと信じて熱心にしていることにより、他者が神に近付こうとしていることを妨げてしまわないように、神に助けて頂きたいとも思わされました。

「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。」  マルコによる福音書10章13-16節


*1「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」マタイによる福音書5章44節
*2「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」 ローマ人への手紙12章17-18節
*3「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」詩編46編1節

レント(受難節)に思う

2019年03月02日 | 日記
「レントの時だから、質素なものを食べなきゃ。。」と、教会のある婦人が言いました。キリスト教が文化的習慣に浸透している国では、受難節(レント)という暦が毎年あって、クリスチャンはイエスの十字架上の死をしのび、悔い改めと真摯な祈りに時間を当て、部分的断食や嗜好品を避ける習慣があるそうです。実際、私はそのような慣習をしりませんでした。イエスの十字架の受難を思い起こすために、果たしてこのような嗜好品を控えることに意味があるのだろうか?もっと重いことなのではないかと。もちろん、そのような習慣を真剣に守っている敬虔な方々に文句をつけるつもりはないですし、尊重したいと思います。しかし、私は個人的に、ある儀式や慣習が聖書に照らし合わせて意味がある、もしくは関係あるものか、その由来を確認するようにしています。そして、イエスが私たちに受難のことを思い起こす為に、何を望まれるだろうと考えさせられました。

私が今迄通っていた教会では、レントの時に限らずいつもイエスの受難・復活を思い起こすように教えられてきました。イエスはご自身の十字架の受難のことを弟子たちに予告された後に「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8:34)と話されました。具体的に「自分の十字架を背負う」とはどのような意味なのでしょうか。この言葉が「わたしに従いなさい」にかかっていることから、自分の十字架を背負うことが主イエスに従うため必要なことであろうと考えました。

 パウロが「…わたしはキリストと共に十字架につけられたのです。生きているのはもはや私ではありません。キリストがわたしの内に生きているのです。」(ガラテヤ2:20-21)と言っているように、自分を捨て、自分の十字架を背負うとは、私の思い、欲求を捨て、キリストのなさりたいことを選び取るという新しい生き方をしていくことです。つまり、古い私は十字架上で死んでいることを思い出すためにも、 自分の十字架を背負うという表現をイエス様はなされたのではないかと思います。

主を信じて信仰生活を歩み始めた後でも、すぐには自己中心的な自分は変わらないし。キリストが内におられるのに、古い自分がまだ残っていることを認めざるを得ません。しかし、この聖霊によって徐々に新しく私の内側がキリストの愛へと変えられていくこと、最終的にはこの肉体が死んで、天国で生きる新しい体が与えれる時には、古い自分からは完全に開放されるのではないかと信じています。

地上にいる間は失敗しながらも、その都度悔い改め、イエスに従おうと日々歩むことが、イエスが望まれることではないでしょうか。ご自分の命を犠牲にしてまで愛して下さった主に従うことは、私たちの喜びであり、またキリストにあって新しく生きる命を維持するために必須です。聖書に記されているイエスの教えを聞いて、行うことが大切であることを、イエスご自身が言われています(マタイ7:24-27下記参照)。ルカの福音書では同じ自分の十字架を背負うという個所に「日々」(ルカ9:23)ということばが加えられています。私たちも不完全であっても、日々、イエスに喜んで従うために、古い自分を捨て、主の御心を求めつつ歩めるように、神に助けて頂きたいと願います。


「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。」
マタイによる福音書7章24-25節

はやぶさ2号のリュウグウ着陸:ミクロからマクロまで

2019年03月01日 | 日記
 地球から3.4億km離れた、新しい小さな星リュウグウ。日本のJAXA は2月22日8時29分に小惑星探査機はやぶさ2号の着陸を成功させ、日本中、いや世界中にそのニュースが駆け巡りました。昨今の宇宙科学の進歩には、目覚ましいものがあります。人は新しい星を発見しては名前を付け、探索する宇宙船を送り出します。
 今日の聖書の箇所を読むと、神は、すでに星の数を定め、名前を付けておられるということが書かれています。なぜなら、人が科学を通して探求するはるか昔に、神が宇宙を創造されたと聖書に記されているからです。よって、その力と知恵は、なんとその力は測りがたいことでしょう。
 一方、主(神)は、人間一人一人の心の内側をご存知で、その心の傷を癒やして下さり、打ち砕かれた者に寄り添って下さる方です。人間の存在に比べてはるかに大きな宇宙の世界も把握されている偉大な、人知を超えた神が、私たちをケアして下さっていることを知ると、安心して神様に委ねようと思わされます。

「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。

主はもろもろの星の数を定め、すべてそれに名を与えられる。

われらの主は大いなる神、力も豊かであって、その知恵ははかりがたい。」 聖書(詩編147篇3-5節)