私は20代の頃からスポーツクラブに行き始めました。その後、何年も行かない期間も度々ありましたが、今に至るまで少しづつ有酸素運動とウエイトマシーンによる筋肉トレーニングを続けています。最初はダイエットのためでしたが、40代からは健康のため、病気にならないよう免疫力UPのため、また生活習慣病予防のためと目的が変化してきました。それに応じて、トレーニングの量・頻度も少なくはなっていますが、今は安く利用できる市のスポーツ施設を利用しています。
なぜこんなことをしなければならないんだろうと思いながら、重いウエイトを引っ張ったり、持ち上げたり何回か反復し、黙々と自分で決めた量をこなしていきます。トレーニングすること自体を楽しめる人もいると思いますが、私のように怠け者は、出来ればしないですめば越したことがなく、家でゴロゴロしていたいものです。それでも、やれば体がとても調子良く、目的のために続けています。また、人よっては、筋トレをしなくても毎日歩いている方など運動の方法は人様々ですが、とにかく重力に逆らって体を少しでも動かすことが、健康に良いのではと思います。
身体だけでなく、私たちの品性も筋トレが必要だと思います。したくなくても、しなければならないことや、背負いたくない困難も起きてしまうことが人生の中で誰にでもあると思います。何もおこらず、人生順風満帆であれば楽ですが、同時に我慢すること、耐え忍ぶ機会もなく、いつも他者(例えば親とか)が自分の代わりに何かをしてくれてしまうと、自分で問題をどう対処するかという考える力もつきません。そのような人は社会生活の中で独りで生き延びていくのが困難となるでしょう。精神にウエイトがかかる、つまり試練を通ることによって、ちょっとのことでは弱音をはかずに、なんとかやって行こうという強さが育くまれ、忍耐力がつき、成長する機会となるのではないでしょうか。
もちろん、皆がそんな簡単に心が成長できたら、心の病もおきないですし、世の中もっと問題がないはずです。人間は自分の意志の力だけでは、乗り越えられない状況があります。ですから、私は信仰が必要だと思います。信仰とは目に見えないものですが、これがあれば自分以外の、人間以外のもっと大きな存在、神の存在を信じ、神が良くしてくれる、救ってくれるという希望を持てます。キリストの弟子ヤコブという人は下記の箇所にあるように、試練をいわば信仰の筋トレのウエイトのように例えています。人生に苦難や辛いことが起こることによって、自分の信仰が試され、結果的に忍耐が生じ、成長するというのです。「私は信じています」、と口で言うだけでは、それが本物かどうかわかりません。何か悪いことがおこり、それが自分の思う通りに解決されないと、ああ、この神は私を助けてくれないから、だめだ、と信じるのを止めてしまうかもしれません。その人の思うとおりにないと、他の神を探すからです。
しかし、聖書の神はご利益宗教ではありません。逆に、神は悪い事がおこっても、良いほうに繋がる様、その試練を用いられます。このことを信じて、感情的にはアップダウンしながらも、忍耐して、神が道を開かれるのを待つという選択をとることで、信仰が成長させられます。また、自分だけでなく、同様の問題を抱える人にも励まし、慰めの言葉をかけられるようになると書かれています。*1 私は感情的には、試練は勘弁してください、ウエイト挙げられるのは嫌です、と言いたいところですが、私の能力・弱さをご存知である神にウエイトの重さはお任せすることにします。そして、自身の忍耐力がアップされるだけでなく、他者を励ましたりできる品性に変えられていきたいと願います。
「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」 ヤコブの手紙1章3節
*1「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」第2コリント人への手紙1章 4節
なぜこんなことをしなければならないんだろうと思いながら、重いウエイトを引っ張ったり、持ち上げたり何回か反復し、黙々と自分で決めた量をこなしていきます。トレーニングすること自体を楽しめる人もいると思いますが、私のように怠け者は、出来ればしないですめば越したことがなく、家でゴロゴロしていたいものです。それでも、やれば体がとても調子良く、目的のために続けています。また、人よっては、筋トレをしなくても毎日歩いている方など運動の方法は人様々ですが、とにかく重力に逆らって体を少しでも動かすことが、健康に良いのではと思います。
身体だけでなく、私たちの品性も筋トレが必要だと思います。したくなくても、しなければならないことや、背負いたくない困難も起きてしまうことが人生の中で誰にでもあると思います。何もおこらず、人生順風満帆であれば楽ですが、同時に我慢すること、耐え忍ぶ機会もなく、いつも他者(例えば親とか)が自分の代わりに何かをしてくれてしまうと、自分で問題をどう対処するかという考える力もつきません。そのような人は社会生活の中で独りで生き延びていくのが困難となるでしょう。精神にウエイトがかかる、つまり試練を通ることによって、ちょっとのことでは弱音をはかずに、なんとかやって行こうという強さが育くまれ、忍耐力がつき、成長する機会となるのではないでしょうか。
もちろん、皆がそんな簡単に心が成長できたら、心の病もおきないですし、世の中もっと問題がないはずです。人間は自分の意志の力だけでは、乗り越えられない状況があります。ですから、私は信仰が必要だと思います。信仰とは目に見えないものですが、これがあれば自分以外の、人間以外のもっと大きな存在、神の存在を信じ、神が良くしてくれる、救ってくれるという希望を持てます。キリストの弟子ヤコブという人は下記の箇所にあるように、試練をいわば信仰の筋トレのウエイトのように例えています。人生に苦難や辛いことが起こることによって、自分の信仰が試され、結果的に忍耐が生じ、成長するというのです。「私は信じています」、と口で言うだけでは、それが本物かどうかわかりません。何か悪いことがおこり、それが自分の思う通りに解決されないと、ああ、この神は私を助けてくれないから、だめだ、と信じるのを止めてしまうかもしれません。その人の思うとおりにないと、他の神を探すからです。
しかし、聖書の神はご利益宗教ではありません。逆に、神は悪い事がおこっても、良いほうに繋がる様、その試練を用いられます。このことを信じて、感情的にはアップダウンしながらも、忍耐して、神が道を開かれるのを待つという選択をとることで、信仰が成長させられます。また、自分だけでなく、同様の問題を抱える人にも励まし、慰めの言葉をかけられるようになると書かれています。*1 私は感情的には、試練は勘弁してください、ウエイト挙げられるのは嫌です、と言いたいところですが、私の能力・弱さをご存知である神にウエイトの重さはお任せすることにします。そして、自身の忍耐力がアップされるだけでなく、他者を励ましたりできる品性に変えられていきたいと願います。
「あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。」 ヤコブの手紙1章3節
*1「神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めていただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのである。」第2コリント人への手紙1章 4節