Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

レント(受難節)に思う

2019年03月02日 | 日記
「レントの時だから、質素なものを食べなきゃ。。」と、教会のある婦人が言いました。キリスト教が文化的習慣に浸透している国では、受難節(レント)という暦が毎年あって、クリスチャンはイエスの十字架上の死をしのび、悔い改めと真摯な祈りに時間を当て、部分的断食や嗜好品を避ける習慣があるそうです。実際、私はそのような慣習をしりませんでした。イエスの十字架の受難を思い起こすために、果たしてこのような嗜好品を控えることに意味があるのだろうか?もっと重いことなのではないかと。もちろん、そのような習慣を真剣に守っている敬虔な方々に文句をつけるつもりはないですし、尊重したいと思います。しかし、私は個人的に、ある儀式や慣習が聖書に照らし合わせて意味がある、もしくは関係あるものか、その由来を確認するようにしています。そして、イエスが私たちに受難のことを思い起こす為に、何を望まれるだろうと考えさせられました。

私が今迄通っていた教会では、レントの時に限らずいつもイエスの受難・復活を思い起こすように教えられてきました。イエスはご自身の十字架の受難のことを弟子たちに予告された後に「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8:34)と話されました。具体的に「自分の十字架を背負う」とはどのような意味なのでしょうか。この言葉が「わたしに従いなさい」にかかっていることから、自分の十字架を背負うことが主イエスに従うため必要なことであろうと考えました。

 パウロが「…わたしはキリストと共に十字架につけられたのです。生きているのはもはや私ではありません。キリストがわたしの内に生きているのです。」(ガラテヤ2:20-21)と言っているように、自分を捨て、自分の十字架を背負うとは、私の思い、欲求を捨て、キリストのなさりたいことを選び取るという新しい生き方をしていくことです。つまり、古い私は十字架上で死んでいることを思い出すためにも、 自分の十字架を背負うという表現をイエス様はなされたのではないかと思います。

主を信じて信仰生活を歩み始めた後でも、すぐには自己中心的な自分は変わらないし。キリストが内におられるのに、古い自分がまだ残っていることを認めざるを得ません。しかし、この聖霊によって徐々に新しく私の内側がキリストの愛へと変えられていくこと、最終的にはこの肉体が死んで、天国で生きる新しい体が与えれる時には、古い自分からは完全に開放されるのではないかと信じています。

地上にいる間は失敗しながらも、その都度悔い改め、イエスに従おうと日々歩むことが、イエスが望まれることではないでしょうか。ご自分の命を犠牲にしてまで愛して下さった主に従うことは、私たちの喜びであり、またキリストにあって新しく生きる命を維持するために必須です。聖書に記されているイエスの教えを聞いて、行うことが大切であることを、イエスご自身が言われています(マタイ7:24-27下記参照)。ルカの福音書では同じ自分の十字架を背負うという個所に「日々」(ルカ9:23)ということばが加えられています。私たちも不完全であっても、日々、イエスに喜んで従うために、古い自分を捨て、主の御心を求めつつ歩めるように、神に助けて頂きたいと願います。


「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。」
マタイによる福音書7章24-25節