Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

幼い子のように

2019年03月06日 | 日記
 近代になって、ようやく法の下の平等が法律で定められ、人権という概念が普及してきていますが、昔は日本でも西洋諸国でも、女性と子供は見下された存在でした。神はもちろん、このような差別や階級を設けたことはなく、これらは人間が作り出したものです。イエスがこの世に生きておられた時代もこのような不平等、差別はあり、イエスの弟子たちは子どもなんかに自分たちの先生を煩わせてはならないと、追い返そうとしたところが下記の箇所です。

イエスはやさしい、愛の方であり、憤るというイメージはないのですが、聖書にはイエスが憤る、もしくは少し荒々しいふるまいをなさる箇所が記されていて、それらには共通した理由を見いだせます。それは、人が神に近付こうとすることを誰かが妨げる時、また妨げるシステムに対してイエスは怒られています。子供たちがせっかくイエスに祝福してもらおうと近寄ったのに、弟子たちはそれを妨げようとしました。また、神を礼拝する神殿において、高額の手数料を支払わないと、捧げもの(お金、動物等)を捧げられない商売が当時行われていました。その商売人から宗教家たちが利益を得ており、一般人はお金を払わないと礼拝が出来ないシステムになっていました。つまり、この神殿のシステムが多くの貧しい人たちを神から遠ざけていることに対してイエスは怒られ、その商売人たちの机をひっくり返し、売り物の動物たちを放ちました(鳩は除く、なぜなら鳩は飛んでいったら、取り戻せない為。一応イエスは、彼らの所有物を失わせないという配慮を取られています)。

 愛とは、すべてに対して寛容にいいよ、いいよと許可することではありません。悪に対しては断固として拒否し、憤ってよいのです。一方、義憤はあってよいのですが、イエスは武器で戦うなとも言われています。その思いを暴力に発展させてはならないのです。武力による争いは復讐の負の連鎖を増大させます。代わりに「自分を迫害する者に対して祈りなさい」*1、「悪に対して悪で報いてはならない」*2 と言う聖書の教えに従い、悪を行う人が悔い改めて悪い行いをやめることを祈ることは出来るでしょう。これが、一つの武器を使わない戦いであり、相手に勝つ事が出来るのではないでしょうか。もちろん、悪から逃げる、隠れることも必要です。神は私たちの避け所であり*3、危険が迫った時に守って下さる方だからです。

神はイエス・キリストを通して、私たちの心が神から遠く離れている状態をご自分に近付けようとされ、その道を開いて下さっています。それは、資格や階級、人種に関わらず、お金もいりません。ただ幼い子が単純に疑わずに何でも信じるように、キリストを信じるだけで誰でも神に近付き、神の恵と愛を受け取れるというキリストという道です。その道を歩み続けたいと願いつつ、同時に自分が無意識にしていること、正しいと信じて熱心にしていることにより、他者が神に近付こうとしていることを妨げてしまわないように、神に助けて頂きたいとも思わされました。

「イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。」  マルコによる福音書10章13-16節


*1「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」マタイによる福音書5章44節
*2「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」 ローマ人への手紙12章17-18節
*3「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」詩編46編1節