Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

親の介護

2019年03月25日 | 日記
「ママが、骨折した」日曜の夕方、ふと妹から着信履歴があったので、メイルを見るとこの件名が目に飛び込んできました。急いで妹に電話をかけて様子を聞くと、右手首骨折し、応急処置はされているが後で手術が必要とのこと。86歳まで大きな病気、けがをしたことがなく、元気でどこへでも出かけ、高齢でも教会の様々な奉仕活動を喜んでこなしていきた母。多くの高齢者が辿る道:病気や骨折で入院し、要介護状態。。。と自分の親がならないよう、日々守られるように祈ってきましたが、とうとう骨折してしまったかとショックでした。しかも利き腕の骨折だと、日常生活に部分的に介護が必要となります。

 介護関係の仕事を以前していても、いざ自分の親を看るとなると、利用者さんのご家族に説明するようにはいかないことが思い知らされます。本人で出来る事はしていかないと筋肉が衰えますし、だからといってムリにしようとしてバランスを崩して更なるケガを起こすこともあります。本人がするのを横で見守るのと手を貸すのとをどこまでやったらいいのかは、実際介護してみないとわからないものです。また、心配して娘があれやこれや口で言うと、本人を苛立たせてしまいますし、細かい配慮が必要となってくるでしょう。

 アメリカのある研究によると、心配事というのは85%実際起こらないそうで、残り15%の確立でその心配していた事が起こるという統計があるそうです。しかし、その15%の中で心配事が起こってしまうだけでなく、それ以上に大変な状況となることもあります。突然の病気の発症、事故、災害はいつ起こるかわかりません。
 
 聖書では、人はこの世に生きている限り、痛みのない世界で過ごすとは保証していません。様々な困難が起こるのは避けられませんので、心配事はつきないでしょう。では、神を信じても、信じなくても困難が起こるなら、どうしたらよいのでしょうか。信仰が与えられている幸いは、どんな状況になろうとも、今日のキリストの言葉(約束)より、目に見えないけれどイエス・キリストがいつも共にいて下さるという安心感があることです。誰も助けがないと思える状況において、孤独の中で、キリストがに祈りつつ、先がどう動かされていくか落ち着いて様子を見ることができます。すると、意外な方向から助けが与えられることがあります。それを偶然ととるか、神がコーディネートしてくれたととるか、祈る者は後者と信じます。事が起こった時、一瞬不安はよぎりますが、すぐになんとかなるという、良い意味で楽観的にとらえることができるのは、信仰によって支えられているからです。

 今、入院、手術の立ち会い等で実家にきていますが、普段は離れて暮らしているため、母と一緒に過ごし、介護できる機会が与えられるのは感謝なことだと思わされます。ただ、夫には不便をかけ申し訳ないのですが、夫は「お母さんと一緒にいてあげて」と優しく送り出してくれています。本人も痛みを堪えながら「左手が使えるようになっていいのよ」と手術後に予定されてる旅行や女学校時代の同窓会などの参加に向けて、意欲的にリハビリをしていく様子です。
  
「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」
  マタイによる福音書28章20節