PCの画面の上には、4年振りにお会いする懐かしいお顔がいくつも並んでいて、私は思わず手をふり「お久しぶりです!」と声をあげました。昨晩は、私がアメリカ在住時に大変お世話になったフィラデルフィア日本人キリスト教会の礼拝に、リモートで日本から参加する機会が与えられました。折しも、その教会の牧師さんがお休みを取られるということで、ゲスト説教を私の夫が頼まれたのです。私たちの今仕えている益子教会を紹介する上でちょうど良い機会でもあったので、依頼を受けた時はすぐに引き受け、試行錯誤をしながらZoomのソフトをダウンロード。実際つながった時は思った以上に臨場感があり、ITの恩恵に感謝しました。
この教会ではこの方式を導入して半年経つそうです。今では、アメリカ東部地域は新型コロナ感染がコントロールされているので(それでも数字的には日本とはケタ違いに多いですが)、参加人数を少なくし、礼拝堂に集まる人とリモートで参加する人とにわけ同時並行で礼拝を行っているそうです。そして、この教会の工夫の素晴らしいと思った点は、礼拝が終わった後「さようなら」ではなく、その後、順番にこの一週間の近況を報告するという、分かち合いの時間を持っているところでした。司会者が建てられ、人数も20人前後なので、一人数分話しても一時間もかかりません。もちろん、用事がある人はいつでも退席可能です。この分かち合いをすることで、遠方のため、また病気、その他の事情でその場に行くことが出来ない人でも、リモートでお互いの顔を見つつ会話ができ、孤独にはならず、お互いのことを覚えて互いに祈り合えるという、新しいスタイルの交わり(フェローシップ)だと関心しました。
もちろん、実際集まれることがベストです。しかし、そうできない社会情勢がある場合、リモートを利用する価値と意義はあると実際参加して思わされました。私たちの教会は人数が少ないため3密になることはなく、感染対策をしながら礼拝を集まってしてきましたので、他の教会がリモート礼拝をしていることを聞いてもあまり興味を示しませんでした。しかし、アメリカの教会で、日本にいながら説教ができる、礼拝に参加できるということは本当に恵みだと感動します。贅沢を言えば、時差がなければもっと楽なのですが。(アメリカ東部と日本は11-12時間の差)
キリスト教が初まった頃の教会の信徒達は、厳しい社会情勢(宗教的迫害)により、自由に集まって礼拝できない時期がありました。トルコの有名な観光地の一つに、「カタコンベ」といって、山の斜面に穴を掘って隠れて住んでいたクリスチャンたちの住居の遺跡は有名です。迫害を恐れて礼拝に集まることを辞めてしまった人も多かったと察します。もしくは、「信仰は独りで信じていれば良い」と他者との関わりをしない主義の人々もいたかもしれません。しかし、教会は「集まる」ことに関しては、他の団体以上に意味がある、大切なことです。なぜなら、教会のことをギリシャ語で「エクレシヤ」と言い、「呼び集められた者たち、集まるように召し出された者たち」を意味 するからです。ですから下記の聖書の箇所の筆者は、「いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合おう」と勧めを書いているのだと思います。公に集まることが許されなければ、隠れて集ったように、現代のように公衆衛生上集会が開けない状況であれば、リモートで集ればよいのです。パソコン・スマホの操作ができなければ、出来る人に基本を設定してもらい、後はボタンを押すだけの最低限の操作にまで準備できれば、誰でも利用出来るのではないでしょうか。実際、フィラデルフィアの礼拝に参加されている日本人の方々の半分は若い世代ではなくとも、最新のITを使いこなされていました。
私たちは、一人では信仰を持つ続けるには弱い存在です。夫が説教の中で「互に愛し合う」*という箇所を話し、お互いを覚えて祈り合うことの大切さを話していましたが、独りでは「互いに」ができません。相手があって初めて「互い」となります。お互いのことを知り、近況を分かち合い、そしてお互いの悩み、問題を神様に委ねて祈り合えます。そして何よりも大切なことは、共通の希望を持っていることです。その希望とは、イエス・キリストです。キリストご自身が平和であり、愛であり、その方を信じる私たちも、その平和と愛にあずかることが、人の能力や意志の力ではなく、聖霊の働きで可能だからです。そしてこの希望は、聖書に記されている神様の約束に基づいています。ですから、日々聖書のみことばを読み、なんらかの手段でコミュニケーションを取り続け、互いに祈り合って、励ましあっていきたいと思います。
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。 」ヘブル人への手紙10章23-25節(新改訳改訂第3版)
*「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 」 第一ヨハネの手紙4章10-11節 (口語訳)
この教会ではこの方式を導入して半年経つそうです。今では、アメリカ東部地域は新型コロナ感染がコントロールされているので(それでも数字的には日本とはケタ違いに多いですが)、参加人数を少なくし、礼拝堂に集まる人とリモートで参加する人とにわけ同時並行で礼拝を行っているそうです。そして、この教会の工夫の素晴らしいと思った点は、礼拝が終わった後「さようなら」ではなく、その後、順番にこの一週間の近況を報告するという、分かち合いの時間を持っているところでした。司会者が建てられ、人数も20人前後なので、一人数分話しても一時間もかかりません。もちろん、用事がある人はいつでも退席可能です。この分かち合いをすることで、遠方のため、また病気、その他の事情でその場に行くことが出来ない人でも、リモートでお互いの顔を見つつ会話ができ、孤独にはならず、お互いのことを覚えて互いに祈り合えるという、新しいスタイルの交わり(フェローシップ)だと関心しました。
もちろん、実際集まれることがベストです。しかし、そうできない社会情勢がある場合、リモートを利用する価値と意義はあると実際参加して思わされました。私たちの教会は人数が少ないため3密になることはなく、感染対策をしながら礼拝を集まってしてきましたので、他の教会がリモート礼拝をしていることを聞いてもあまり興味を示しませんでした。しかし、アメリカの教会で、日本にいながら説教ができる、礼拝に参加できるということは本当に恵みだと感動します。贅沢を言えば、時差がなければもっと楽なのですが。(アメリカ東部と日本は11-12時間の差)
キリスト教が初まった頃の教会の信徒達は、厳しい社会情勢(宗教的迫害)により、自由に集まって礼拝できない時期がありました。トルコの有名な観光地の一つに、「カタコンベ」といって、山の斜面に穴を掘って隠れて住んでいたクリスチャンたちの住居の遺跡は有名です。迫害を恐れて礼拝に集まることを辞めてしまった人も多かったと察します。もしくは、「信仰は独りで信じていれば良い」と他者との関わりをしない主義の人々もいたかもしれません。しかし、教会は「集まる」ことに関しては、他の団体以上に意味がある、大切なことです。なぜなら、教会のことをギリシャ語で「エクレシヤ」と言い、「呼び集められた者たち、集まるように召し出された者たち」を意味 するからです。ですから下記の聖書の箇所の筆者は、「いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合おう」と勧めを書いているのだと思います。公に集まることが許されなければ、隠れて集ったように、現代のように公衆衛生上集会が開けない状況であれば、リモートで集ればよいのです。パソコン・スマホの操作ができなければ、出来る人に基本を設定してもらい、後はボタンを押すだけの最低限の操作にまで準備できれば、誰でも利用出来るのではないでしょうか。実際、フィラデルフィアの礼拝に参加されている日本人の方々の半分は若い世代ではなくとも、最新のITを使いこなされていました。
私たちは、一人では信仰を持つ続けるには弱い存在です。夫が説教の中で「互に愛し合う」*という箇所を話し、お互いを覚えて祈り合うことの大切さを話していましたが、独りでは「互いに」ができません。相手があって初めて「互い」となります。お互いのことを知り、近況を分かち合い、そしてお互いの悩み、問題を神様に委ねて祈り合えます。そして何よりも大切なことは、共通の希望を持っていることです。その希望とは、イエス・キリストです。キリストご自身が平和であり、愛であり、その方を信じる私たちも、その平和と愛にあずかることが、人の能力や意志の力ではなく、聖霊の働きで可能だからです。そしてこの希望は、聖書に記されている神様の約束に基づいています。ですから、日々聖書のみことばを読み、なんらかの手段でコミュニケーションを取り続け、互いに祈り合って、励ましあっていきたいと思います。
「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。 」ヘブル人への手紙10章23-25節(新改訳改訂第3版)
*「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。 」 第一ヨハネの手紙4章10-11節 (口語訳)