近所の方より、おいしいぶどうを頂きました。果物や野菜は買ったり頂いたりして食べる分にはあまり感じないことですが、実際自分で育てようとすると、実がなるまでどんなに大変な世話がいるかを実感するものです。そして、世話以前に、当たり前のことですが、全ての植物は木や幹に繋がっていないと、すぐに枯れてしまい、実はなりません。
下記の聖書の箇所は、ブドウの木と枝をキリストと私たち人間に譬えてイエス・キリストが弟子達に言われたことばです。キリストにつながっていれば実を結ぶが、繋がっていなければ何一つ出来ない。何一つ。ここでの「実を結ぶ」というのは、もっと内面的なこと、つまり聖霊の実を結ぶこと*1や、人の魂がキリストを信じて救われることに関してだけを言われていると思ったのです。しかし、結局社会生活をする上で、生きていく上で、全てのことにおいてキリストに繋がっていることがどんなに大切かと、最近しみじみと思わされます。
若い時は傲慢だったので、自分で努力すればある程度は成果が出せたし、仕事でも、頭の回転をくるくる回して同時に沢山のことをこなせると思っていました。一方、人間関係はそうはいかず、大体うまくいかなかった人間関係は諦め、距離を持つことでその場をしのいでいたように思います。ところが、中高年になると(年を言い訳にしたくはないのですが)転職して新しいことを覚え、忙しくともミスなくテキパキとこなすということが、以前のように出来にくくなっています。自分が情けなくなり、自信がなくなります。最近は頻繁に仕事のことで、神様に具体的に祈り、助けて下さいと祈るようになりました。祈って、祈って、助けて頂いて、日々なんとか過ごしているのが現状です。
教会での働きに関して、神様の御心にそって日々何をなすべきかと日々夫と共に祈っています。傍からみると、見える部分での成果も見えず、コロナ感染防止の為に積極的な活動も出来にくい状況で、このままでいいのか、もっと何かしなければ。。と焦ってしまいがちです。しかし、自分達の思いや、他人の評価により焦ってはならない、むしろ、日々祈って神様に導きを求め、神様に示されたことを続けていこうと、夫と心を合わせて毎朝、食事のごとに共に祈っています。どんなに頑張っても、今の自分たちの能力や気質では限界がありますが、全ての状況・人間関係をコントロールしておられるお方に委ねるというのが大切なことだとお互い認識して祈れるのは幸いです。私独りだと、以前信徒伝道をしていた時よくありましたが、人からの評価により「もっと神様のために働かなければ」と追い立てられ、一種の強迫観念のような思いにかられて苦しみ、遂には投げ出したいと思ったことが何度もあったからです。これは、私のなかなか克服できない精神的弱さの一つでもあり、その弱さを補ってくれるパートナーを神様が与えて下さっていると感謝しています。
人同士は、相手に依存してしまうと、お互い不健康になりがちです。しかし、人が神様には依存してよいのです。神様にははばかりなく依り頼み、必要をお願いし、助けを求めるという恵をキリストを通して与えられれていることは本当に感謝です*2。なぜなら、聖書を読んでいると神様の包容力は超自然であり、万能だからです。私は、自分の弱さや欠点、むしろ自分では得意だと思っていたことでさえも、全て神様に祈って指針を求め、助けを求めて行きたいと思います。すると私とキリストとの信頼関係はもっと深くされ、自分の願いや狙いを超えたところで、全てをコントロールされている神様がなんとかしてくださるからです。私のようなどうしようもない、取るに足らない者に、キリストの力が流れ、実を結ぶまでに至ることを忍耐を持って待ち望みつつ、祈り続けようと思います。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」ヨハネによる福音書15章5節
*1「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 」ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節
*2「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」ヘブル人への手紙4章15-16節 ()は追記
下記の聖書の箇所は、ブドウの木と枝をキリストと私たち人間に譬えてイエス・キリストが弟子達に言われたことばです。キリストにつながっていれば実を結ぶが、繋がっていなければ何一つ出来ない。何一つ。ここでの「実を結ぶ」というのは、もっと内面的なこと、つまり聖霊の実を結ぶこと*1や、人の魂がキリストを信じて救われることに関してだけを言われていると思ったのです。しかし、結局社会生活をする上で、生きていく上で、全てのことにおいてキリストに繋がっていることがどんなに大切かと、最近しみじみと思わされます。
若い時は傲慢だったので、自分で努力すればある程度は成果が出せたし、仕事でも、頭の回転をくるくる回して同時に沢山のことをこなせると思っていました。一方、人間関係はそうはいかず、大体うまくいかなかった人間関係は諦め、距離を持つことでその場をしのいでいたように思います。ところが、中高年になると(年を言い訳にしたくはないのですが)転職して新しいことを覚え、忙しくともミスなくテキパキとこなすということが、以前のように出来にくくなっています。自分が情けなくなり、自信がなくなります。最近は頻繁に仕事のことで、神様に具体的に祈り、助けて下さいと祈るようになりました。祈って、祈って、助けて頂いて、日々なんとか過ごしているのが現状です。
教会での働きに関して、神様の御心にそって日々何をなすべきかと日々夫と共に祈っています。傍からみると、見える部分での成果も見えず、コロナ感染防止の為に積極的な活動も出来にくい状況で、このままでいいのか、もっと何かしなければ。。と焦ってしまいがちです。しかし、自分達の思いや、他人の評価により焦ってはならない、むしろ、日々祈って神様に導きを求め、神様に示されたことを続けていこうと、夫と心を合わせて毎朝、食事のごとに共に祈っています。どんなに頑張っても、今の自分たちの能力や気質では限界がありますが、全ての状況・人間関係をコントロールしておられるお方に委ねるというのが大切なことだとお互い認識して祈れるのは幸いです。私独りだと、以前信徒伝道をしていた時よくありましたが、人からの評価により「もっと神様のために働かなければ」と追い立てられ、一種の強迫観念のような思いにかられて苦しみ、遂には投げ出したいと思ったことが何度もあったからです。これは、私のなかなか克服できない精神的弱さの一つでもあり、その弱さを補ってくれるパートナーを神様が与えて下さっていると感謝しています。
人同士は、相手に依存してしまうと、お互い不健康になりがちです。しかし、人が神様には依存してよいのです。神様にははばかりなく依り頼み、必要をお願いし、助けを求めるという恵をキリストを通して与えられれていることは本当に感謝です*2。なぜなら、聖書を読んでいると神様の包容力は超自然であり、万能だからです。私は、自分の弱さや欠点、むしろ自分では得意だと思っていたことでさえも、全て神様に祈って指針を求め、助けを求めて行きたいと思います。すると私とキリストとの信頼関係はもっと深くされ、自分の願いや狙いを超えたところで、全てをコントロールされている神様がなんとかしてくださるからです。私のようなどうしようもない、取るに足らない者に、キリストの力が流れ、実を結ぶまでに至ることを忍耐を持って待ち望みつつ、祈り続けようと思います。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」ヨハネによる福音書15章5節
*1「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 」ガラテヤ信徒への手紙5章22-23節
*2「この大祭司(キリスト)は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」ヘブル人への手紙4章15-16節 ()は追記