Praise the Lord!

聖書のことばを通して、生活の中で示されたことやインスピレーションが与えられたことをつらつらと書き記しています。

普通とは

2020年02月21日 | 日記
 以前の職場で、私の同僚に嫌な態度を取る男性に、そのことに対して私は直接その男性と話合いをした時、私は「普通、そういうことしないですよね?」と言うと、「あんたの言う、普通ってなんだよ?俺は普通じゃないのか?」と切り返されたことがあります。私たちは無意識に「”普通は”~ですよね」と言います。確かにその男性が言うように、普通とは何であろうかと考えさせられます。相手にこの言葉を言う時、その言う人間の”普通”と相手側との”普通”が必ずしも一致するとは限らず、そして、言われた方は「自分は普通ではないのか?」と激怒、もしくは気分を悪くするでしょう。

 もう一つの普通。女性であれば、誰でも母性が持てると思われています。しかし、そうでない女性もいます。子供を産んでも、その子供を愛せない人、母性が持てない、子どもを置き去りにしていまう人もいます。そのような母親を持つ子供達は心に傷が残り、大人になって自身の人間関係で影響がでてきます。幼少時に母親から虐待を受けた女性が、自分が受けたことのない愛情をどのように自分の子どもに注いでいいのかわからず、子育てに悩みます。彼女たちは、精神的に追い詰められていたり、問題を抱えて苦しんでいても、誰にも相談できずにいるかもしれません。そして、周りの人のちょっとした一言「普通は。。」で、自分がそうでないことにさらにプレッシャーを感じ、落ち込むことでしょう。

 あるアメリカ人の牧師が、最初、自分が日曜の礼拝でメッセージを語っている人々がごく普通の家族を持つ人々だと思っていたのですが、実はそうではなかったことに気付いたと言っていました。この牧師にとっての”普通”の家族とは、例えば両親が揃っていて、彼らの子供がいる、まあまあの車に乗り、一戸建てに住むような世帯。しかし、実際話しを聞いてみると、例えば親は離婚し、片親と住む子どもたちや、親が再婚同士で、それぞれが前の結婚での連れ子と共に暮らす家族、離婚して独りでタワーマンションに住み、 高級車に乗っている人等だったそうです。彼らの心は、傷ついています。問題をたくさん抱えて、多くのことに失望し、心の中は空虚な思いで、満たされない。だから、神様を求めて、教会に来るのでしょう。

 神様は、「普通」という枠組みで人々をわけ隔てしない方です。聖書のイザヤ書という書簡に、女性が自分の産んだ子を忘れることはあるかもしれないが、私(神様)は決してあなたを忘れることはないと、記されています。神様は、母親であっても子供を愛せない女性たちもいるということをすでにご存知です。そして、普通という基準に達せないことを責めるのではなく、「私はあなたを忘れないし、見捨てないよ」と言われています。これは、もともとはイスラエルの民に神様が語られた言葉ですが、現代に生きる私たちにも適応される神様の約束です。

 多くの人は様々なことを普通に、当たり前にしたいと思っても、出来ない弱さを持っています。他人からは、そのことを責められるかもしれません。差別や仲間外れにされ、見下されるかもしれません。しかし、神様は決してすべての人を見放さず、ご自身の愛で包み、傷ついた心を癒そうとされ、回復される方です。だから、教会には普通ではない人々がやってきます。私もしかり。しかし、教会にきて、聖書の言葉を聞くことから始め、信仰が与えられると、回復が与えられます。回復された人同士で、不完全であっても互いに愛し合おうとします。そして、教会でも人間関係でうまくいかないことがあっても、神様が助けて下さり、心が変えられていきます。赦す心も与えられます。私には決して裏切ることのない、確かな神様の愛に包まれているという信仰が与えられるので、失望するようなことがあっても、落ち込んだままではいません。また立ち上がる力が与えられます。なんと、感謝なことでしょう。だからこそ、自分が神様の愛を受けるだけでなく、他者と接する時に話す言葉に、よく注意を払えるよう、神様に助けていただく必要があります。他者のことをおもいやるイエス様の愛を「注いで下さい」と祈ろうと思います。

「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。
たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 」
イザヤ書49章15節