さて。
西古堡をたっぷりと満喫して、
再び車のおいてある、働き盛りの男どものたむろする豆腐の燻製屋の前まで戻ってきた。
そのとなりには、実はいわくつきの大きな空き家があった。
日本軍占領時代に司令部がおかれたという建物だ。
ここは一般公開されていないが、地元の知り合いが見せてくれた。
蔚県は、太平洋戦争前後、
モンゴルの徳王の作った日本軍の傀儡政権「蒙古連合自治政府」の領土に入っていたという。
ウィキペディアから引用すると、
「徳王。デムチュクドンロブ。1902年2月8日(清光緒28年正月初1日) - 1966年5月23日)は、
南モンゴルにおけるモンゴル独立運動の指導者。通称徳王(とくおう)。
中国語における字は希賢。1930年代から日本軍に協力し、モンゴル人の独立政権蒙古聯合自治政府の主席を務めた。」
「チャハル(現在の内モンゴル自治区)に生まれる。
1908年に札薩克(執政官)の職を継ぎ北京政府からも認められる。
1919年に執掌旗政(県知事)になったのを手始めに地方官職を歴任する一方で、汎モンゴル主義やモンゴル独立運動に関わる。」
満州事変勃発後、徳王は日本軍と連絡を取り合うようになり、
同じモンゴル独立運動を指導していたユンデン・ワンチュク(雲王)などともに1933年に内蒙古王公会議を結成。
国民政府に対し高度な自治を要求した。これを認める形で翌1934年に蒙古地方自治政務委員会が成立、徳王は秘書長となった。
「その後、1936年2月10日に関東軍の支持の下蒙古軍政府が成立すると総司令・総裁に就任。
1936年11月に徳王麾下の内蒙軍や李守信と王英などの部隊が関東軍の後援をたのんで綏遠省に進出し、
同省主席の傅作義軍に撃退された(綏遠事件)。
盧溝橋事件の後に日本は内蒙古方面へ本格的に出兵し、1937年10月17日に包頭を占領。
雲王・徳王・李守信はこれに応じる形で10月28日に厚和(綏遠を改称)にて蒙古聯盟自治政府を成立させた。
当初、雲王が主席となり、翌年3月に雲王が病没すると、徳王が後任の主席となった。
蒙古聯盟自治政府は、1939年9月1日に察南自治政府・晋北自治政府と合併し蒙古聯合自治政府となった。
首都は張家口に置かれ、名目としては汪兆銘政権下の自治政府という位置づけだった。」
古い街・暖泉には、周辺から多くの古いものを集めてきた骨董商が、何軒もあるが、
私らが日本人と知ると、必ず出してくるのが、徳王政府時代に発行された紙幣である。
このヤオドン風の、はては地下室風の部屋は、罪人を入れておくための牢屋だったという。
拷問でも行われていたのかしら、と思うと、足早に立ち去った。。。
二階部分。
さて。暖泉でもう一つ、完璧に保存されている城堡「北官堡」。
溶解した鉄をぶっかける祭り「打樹花」の行事で有名。
れんがにこびりついた黒いすすのようなものが、鉄をぶっかけた痕跡である。
これはよそのウェブサイトからお借りした写真。
「打樹花」は、「打鉄花」ともいい、毎年元宵節に行われる。
「元宵節」は、新年の最初の満月の日、春節はその年最初の「闇夜」だから、15日たったら満月である。
そういう意味で、陰暦ではきわめて重要な祭日だ。
「打樹花」の祭りは、夜中に土で作った錬鉄炉に鉄を溶解し、液状になった鉄500kgに
銅、アルミなども調合し、これを城門にめがけてぶっかける。
かけ手は羊の毛皮を逆さに着て、水でふやかした柳の木で作ったたまじゃくしで「鉄水」をすくう。
溶解した鉄は、城壁に当たると、火花を散らし、火の雨を降らせる。
宋継武氏、41歳は、北官堡に3人しかいない「打樹花」の「把式」(かけ手)の中で最も若い。
毎年、火花をかぶること20年になる。
小さい時にベテランの把式らの粋を見てあこがれ、
独学しつつ、ベテランにも習いつつ、この「技術」を実につけた。
そのどっしりした肉体には、腕、太もも、背中、腹に無数のやけどがあるという。
溶解した鉄を振りまくのである。
毛皮を着ていようと、どんなに気をつけようとも、やけどは絶えない。
「ただ顔だけは守らないとね。それだけは」と笑って言う。
かけ手のほかにも、ともに作業する仲間は、30人くらいを1チームとする。
鉄の精錬、ふいご吹き、鉄の運搬役、爆竹を鳴らして場を盛り上げる者・・・・。
かけ手は、屈強な肉体、腕力がいるだけでなく、肝っ玉が据わっており、やけどの痛みに耐えられる者でなければならない。
この20年、彼のあとに続いて、かけ手の技術を身につけた者はいないという。
それでも心配はしていない。
「誰かが続くに決まっています。数百年の伝統ですからね。ここの人はこれなしでは生きていけませんから」
動画のいくらかアップされておりまっす。
http://v.youku.com/v_show/id_XMTU1MzM2ODA0.html
http://www.56.com/u11/v_NDk4NTI2NDU.html
毎年、元宵節をはさみ、旧正月の14、15、16日の3日間行われる。
北京から遠くないこともあり、その期間中は、暖泉に入る何kmも前から、
大渋滞でまったく車は動かず、延々と歩いていかなければ、たどり着けなくなるくらいの大盛況だという。
さて。
北官堡である。ここは暖泉で一番最初にできた城堡といわれており、
つまりは明代の「軍屯」の駐屯のための城堡だった。
「打樹花」で鉄まみれになった城門を超えていくと。
古い町並みが、広がる。
当初は軍事的な目的で建てられたため、奥は山の形をそのまま利用して、防衛する。
突き出たワンコのお尻を撮ってどーするねん、と思いつつも、思わずかわいいので、手が。。
出たー。豆腐の燻製売りの流し。
もおお。ここの人たちは、どんだけ豆腐の燻製食うねん。
後ろを振り返って、城門を見る。
端の方に豆腐の燻製リヤカーも映ってるし、絵として、完璧やないか!
西古堡をたっぷりと満喫して、
再び車のおいてある、働き盛りの男どものたむろする豆腐の燻製屋の前まで戻ってきた。
そのとなりには、実はいわくつきの大きな空き家があった。
日本軍占領時代に司令部がおかれたという建物だ。
ここは一般公開されていないが、地元の知り合いが見せてくれた。
蔚県は、太平洋戦争前後、
モンゴルの徳王の作った日本軍の傀儡政権「蒙古連合自治政府」の領土に入っていたという。
ウィキペディアから引用すると、
「徳王。デムチュクドンロブ。1902年2月8日(清光緒28年正月初1日) - 1966年5月23日)は、
南モンゴルにおけるモンゴル独立運動の指導者。通称徳王(とくおう)。
中国語における字は希賢。1930年代から日本軍に協力し、モンゴル人の独立政権蒙古聯合自治政府の主席を務めた。」
「チャハル(現在の内モンゴル自治区)に生まれる。
1908年に札薩克(執政官)の職を継ぎ北京政府からも認められる。
1919年に執掌旗政(県知事)になったのを手始めに地方官職を歴任する一方で、汎モンゴル主義やモンゴル独立運動に関わる。」
満州事変勃発後、徳王は日本軍と連絡を取り合うようになり、
同じモンゴル独立運動を指導していたユンデン・ワンチュク(雲王)などともに1933年に内蒙古王公会議を結成。
国民政府に対し高度な自治を要求した。これを認める形で翌1934年に蒙古地方自治政務委員会が成立、徳王は秘書長となった。
「その後、1936年2月10日に関東軍の支持の下蒙古軍政府が成立すると総司令・総裁に就任。
1936年11月に徳王麾下の内蒙軍や李守信と王英などの部隊が関東軍の後援をたのんで綏遠省に進出し、
同省主席の傅作義軍に撃退された(綏遠事件)。
盧溝橋事件の後に日本は内蒙古方面へ本格的に出兵し、1937年10月17日に包頭を占領。
雲王・徳王・李守信はこれに応じる形で10月28日に厚和(綏遠を改称)にて蒙古聯盟自治政府を成立させた。
当初、雲王が主席となり、翌年3月に雲王が病没すると、徳王が後任の主席となった。
蒙古聯盟自治政府は、1939年9月1日に察南自治政府・晋北自治政府と合併し蒙古聯合自治政府となった。
首都は張家口に置かれ、名目としては汪兆銘政権下の自治政府という位置づけだった。」
古い街・暖泉には、周辺から多くの古いものを集めてきた骨董商が、何軒もあるが、
私らが日本人と知ると、必ず出してくるのが、徳王政府時代に発行された紙幣である。
このヤオドン風の、はては地下室風の部屋は、罪人を入れておくための牢屋だったという。
拷問でも行われていたのかしら、と思うと、足早に立ち去った。。。
二階部分。
さて。暖泉でもう一つ、完璧に保存されている城堡「北官堡」。
溶解した鉄をぶっかける祭り「打樹花」の行事で有名。
れんがにこびりついた黒いすすのようなものが、鉄をぶっかけた痕跡である。
これはよそのウェブサイトからお借りした写真。
「打樹花」は、「打鉄花」ともいい、毎年元宵節に行われる。
「元宵節」は、新年の最初の満月の日、春節はその年最初の「闇夜」だから、15日たったら満月である。
そういう意味で、陰暦ではきわめて重要な祭日だ。
「打樹花」の祭りは、夜中に土で作った錬鉄炉に鉄を溶解し、液状になった鉄500kgに
銅、アルミなども調合し、これを城門にめがけてぶっかける。
かけ手は羊の毛皮を逆さに着て、水でふやかした柳の木で作ったたまじゃくしで「鉄水」をすくう。
溶解した鉄は、城壁に当たると、火花を散らし、火の雨を降らせる。
宋継武氏、41歳は、北官堡に3人しかいない「打樹花」の「把式」(かけ手)の中で最も若い。
毎年、火花をかぶること20年になる。
小さい時にベテランの把式らの粋を見てあこがれ、
独学しつつ、ベテランにも習いつつ、この「技術」を実につけた。
そのどっしりした肉体には、腕、太もも、背中、腹に無数のやけどがあるという。
溶解した鉄を振りまくのである。
毛皮を着ていようと、どんなに気をつけようとも、やけどは絶えない。
「ただ顔だけは守らないとね。それだけは」と笑って言う。
かけ手のほかにも、ともに作業する仲間は、30人くらいを1チームとする。
鉄の精錬、ふいご吹き、鉄の運搬役、爆竹を鳴らして場を盛り上げる者・・・・。
かけ手は、屈強な肉体、腕力がいるだけでなく、肝っ玉が据わっており、やけどの痛みに耐えられる者でなければならない。
この20年、彼のあとに続いて、かけ手の技術を身につけた者はいないという。
それでも心配はしていない。
「誰かが続くに決まっています。数百年の伝統ですからね。ここの人はこれなしでは生きていけませんから」
動画のいくらかアップされておりまっす。
http://v.youku.com/v_show/id_XMTU1MzM2ODA0.html
http://www.56.com/u11/v_NDk4NTI2NDU.html
毎年、元宵節をはさみ、旧正月の14、15、16日の3日間行われる。
北京から遠くないこともあり、その期間中は、暖泉に入る何kmも前から、
大渋滞でまったく車は動かず、延々と歩いていかなければ、たどり着けなくなるくらいの大盛況だという。
さて。
北官堡である。ここは暖泉で一番最初にできた城堡といわれており、
つまりは明代の「軍屯」の駐屯のための城堡だった。
「打樹花」で鉄まみれになった城門を超えていくと。
古い町並みが、広がる。
当初は軍事的な目的で建てられたため、奥は山の形をそのまま利用して、防衛する。
突き出たワンコのお尻を撮ってどーするねん、と思いつつも、思わずかわいいので、手が。。
出たー。豆腐の燻製売りの流し。
もおお。ここの人たちは、どんだけ豆腐の燻製食うねん。
後ろを振り返って、城門を見る。
端の方に豆腐の燻製リヤカーも映ってるし、絵として、完璧やないか!