いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦8、嘉靖帝の不信感

2012年08月08日 22時30分18秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
事の経過は世宗(嘉靖帝)に報告されたが、世宗はアルタン・ハーンの意図をはなから懐疑的にとらえ、
兵部にもう一度検討するように命じた。

世宗の奇人変人ぶりは、書き出すときりがないので、やめるが、
嘉靖年間の数十年間にもわたるアルタンハーンとの開けろ、いや開けない、の押し問答は、
最終的には、この皇帝の異常なまでの意固地な性格に起因するところが大きい。
読んでいてもどかしくなるが、しばらくは世宗の奇妙なる人格に起因する経緯を追うしかない。

世宗はまずは宣大軍務の総督兼軍糧管理の大臣を決める。
しかし世宗とのやり取りが続く中で、モンゴルとの通貢にどうやら世宗は賛成ではないらしい、と見て取った大臣らは、
その意を汲んだ意見を多く出すようになる。

「モンゴルは騙し討ちが多いので、その通貢の要請は信じるべからず。
我が軍を油断させるためか、隙を狙って国境を犯さんとせんか、内心測りがたし。
ただ大義に則り拒絶してこそ、その謀略が自滅するものなり。
今できることは内修のみ。将を選び、兵も糧も足らしめることが第一義。」

と、総督大臣を早急に鎮に向かわせるよう、催促した。
これを受けて世宗は、我が意を得たり、とばかりにご満悦の様子、すぐに諭旨を出した。

「醜虜(醜き韃虜=モンゴル人への蔑称ですな)は年々国境を犯し、平穏に過ごす年なし。
各国境の総兵、巡撫は特に責任を以って当たるべし。
宣大近畿重鎮は、特に気をつけて準備を怠らず、くれぐれも事を失しないように、大きく警戒心を張るべし。

今、うその言葉で通貢を求めるその胸の内は測りかねるが、派遣された大臣は常のやり方のごとく、
意味のない文章で責任逃れするべからず(常々、前線からの奏文がいいかげん、という不満の表れですな)。
必ずや将を選んで兵を訓練し、国境を出て追撃し、侵入の大罪を追究し、通貢を絶やせ。

アルタン・アブガイを生け捕りするか、斬ることができたら総兵・総督は大抜擢し、
部下の功ある将士には五級昇格、銀500両の賞金を以って応えるべし。
戸部(大蔵省に当たる)からは銀四十万両の予算を出し、兵部(防衛庁に当たる)からは馬価二十万両を出す。
それぞれに清廉なる郎中(爆。大金を扱うので、公金横領しそうにない評判のいい人物ということですな)を選び、
従軍して采配を振るうべし。さらに科道官各一員を選び、前線に送るべし。
虜(=モンゴル)を破る奇績なくば、大臣、京に戻るべからず。鎮の巡官と一体で連座すべし」
(《明世宗実録》巻251,嘉靖二十年七月丁酉条。)

・・・・と、世宗の指示は、アルタン・ハーンの思いとは、まったく別の天のかなたに妄想が飛び、
交易したいと申し入れているだけなのに、合計60万両もの予算を出して軍備拡張を進める、という迷走ぶりである。

しかも交易を申し入れている相手に戦いをふっかけ、功なくば大臣も駐屯巡撫・総督クラスも帰って来るな、
首都の土を踏ませぬぞ、とドスを聞かせている。
ありもしない謀略に身構えているわけである。

これを見ると明の側こそ、モンゴル側に関する情報がほとんどなく、相手の胸中を推し量るための材料ゼロである。
相手への不信感で岩のごとく凝り固まり、先方の意図がまったく通じない。
まるで昨今の日中関係を見ているようだ、と思ってしまうが、橋渡し役になる人物が間にいることが、
如何に重要か、と痛感させられる場面でもある。
その「キーパーソン」になるのが、アルタンの若妻・三娘子なのだが、その登場は後のことである。



朝貢の拒否という結果を突きつけられたアルタン・ハーンは、さながら阿修羅の如く怒り狂い、
当初の脅し文句のとおり、大軍を遠く太原まで駆けさせ、略奪の限りを尽くしたのである。

嘉靖20年(1541)8月、アルタンハーンは、17万人の軍勢で山西の太原府を襲い、
2万人を殺し、略奪を行う大規模な侵攻を行い、中原の人々を恐怖のどん底に陥れた。

前述のとおり、これまでモンゴル軍の襲撃は国境付近に限られており、
太原のような国境からかなり奥にある大都市にまで姿を現すことはなかった。

まさにこれまで見てきたとおり、漢人ブレインの「質」向上に伴う襲撃レベルの向上である。
それにしても太原は、長城からかなり南にあり、こんな奥までよくも入らせたものだ、とあきれる。
明の軍隊は、何をしとったんだろう。

太原は今でも山西の省都であり、国境付近のすかんぴんの農村とは比べ物にならないくらい
豊かであったことは、いうまでもない。
17万人の兵士ら全員が、十分にありつけるくらい豊穣なる収穫があっただろう。

ところが、この襲撃で思わぬ「おみやげ」まで持ち帰ってしまう。
それが天然痘である。

古来より寒冷地区に天然痘は存在しないので、免疫のない人々に瞬く間に感染し、
数ヶ月の間に人口の半分近くの命を奪ったという。

翌年、捕らわれの身だったのを命からがら逃げてきた漢人の証言でわかったことである。
草原に白骨が累累と横たわっている、と。

天然痘は中原においては、この当時すでに1000年の歴史をもつ「由緒正しき」病気である。
宋・元代にはすでに病人の皮膚を粉末にして飲ませる免疫法が開発され、
命を奪う病気ではなくなっている。
明代には天然痘はもはや子供の病気でしかなく、ほとんどの成人には免疫があった。

モンゴル人にとっては、これまでぴんぴんしていた人間が発病したが最後、1ヶ月以内に
あっという間に死んでしまうのだから、その恐怖は、想像に余りある。

草原で天然痘患者が出ると、家族全員から隔離させ、漢人に看病させた。
おそらく漢人の奴隷の使役は、一般的に見られたのだろう。
漢人なら、奴隷だから死んでも惜しくない、という非情なる気持ちと、
免疫があるからかからない、という意味もある。

もしどうしても世話できる漢人が見つからない場合、遠くから食べ物を投げよこすしかない。
まるで2004年のSARSのときのようだ、と思ってしまうが。。
湖南省あたりでは、患者を洞窟に押し込め、近づくのが怖いから
ロープ伝いにインスタントラーメンをとばし、送り込んでいたという話も聞く。

たとえ命を取り留めたとしても、夫婦なら1年は別居したという。

これ以後も長城の外の人にとって、「中」に入るのは、常に天然痘がネックになった。

後の例で見ると、例えば「隆慶の和議」以後、
民間取引が許可されるようになっていた時代の万暦14年(1586)、(この時から40年後)
楡林に近い紅山商品交易集市が開かれる直前、数人のモンゴル貴族が天然痘のために命を落とした。
この時、天然痘にかかりながらも幸い命を取り留めた人も何人かいた。
彼らは病気が治癒すると、モンゴルに帰ったが、
なんとその持ち帰った菌にやられ、草原で再び大量の犠牲者を出したという。

またこれより120年ほど後、清朝であまたいる皇子の中から、康熙帝が皇帝に選ばれたのは、
すでに天然痘にかかり、その後治癒しており、免疫があったからという。
長城の外から「中」に入り、戦う女真族にとって、天然痘は同じように恐怖だったのである。

さらにこの230年後、乾隆帝が熱烈に接待したチベットのパンチェン・ラマも
長城を超えて北京に入ると、あっという間に天然痘にかかり、ぽっくりとあっけなく命を落としてしまった。

北方騎馬民族は、このように長城の中に入ることを大変恐ろしがる。
清代に彼らとの交流の場のために、わざわざ承徳を建設したのも、
長城の中に入りたがらない彼らがリラックスして行事を楽しめるように、という配慮からだったくらいである。

そんな「中原の洗礼」を奇しくもアルタンハーンは受けてしまった。

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写真: 楡林

坂道が続く。

    


途中で見かけた古い家。
一昔前は、町中の家が、皆こういう構造だったのでしょうな。




あいやー。すさまじい勾配になってきましたぞ。
車が通れないのはもちろん、人間が上るにもかなり無理が。。
この勾配は、ロバ用ではないでしょうかな。

    


しかし後ろを振り返ると、町並みが大パノラマー!

    

    





    

    

       
坂道を一番上まで上ると、ついに楡林城の城門が見えてきました。
東門にあたります。楡林城の東側は全体を丘に肩を傾けるように建っており、
城門の向こう側は、丘の上の高台になっています。

    




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2 コメント

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なんといいますか (~弥勒~)
2012-09-21 18:14:41
19日以降についてもこちらでいろいろと報道されています。苦労されているのではと推察し。。。。
こちらも「小李飛刀」など、借りたいDVDが沢山有るのですが、しばらくお休みと思います。
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弥勒さんへ (いーちんたん)
2012-09-21 18:36:53
お気遣い、ありがとうございます。
すでに全国的に本気モードで抑え込みに入り、危害を加えた人も次々と捕まえていますので、もう大丈夫だと思います。
これまで皆がぼうそうした理由は、わるいことをしても裁かれない、という解放感だったわけで。それがウェイボーで証拠写真をばんばん撮られ、それが糸口になって皆がつかまりだしています。

数年前のはかい行為のときは、ウェイボーがここまで発達していなかったことが大きいのではないでしょうか。
今回は証拠写真があっという間に出回り、広がってしまうこと、
それをつかまえずに放置すると、皆がぼろくそに罵る書き込みを殺到させること、
という2点において、下から突き上げられるようにして動かした、という感じです。
数年前、にほんりょうり屋をぶち壊した連中は、まったくおとがめなしでしたからねー。

それよりももっと心配なのがしつぎょうしゃが増えることです。
私の知り合いは、HKでコンサルをしているのですが、じんけんひの値上がりをうけ、かんとんから逃げ出す日本の中小企業のためにミャンマー、ベトナムへの工場立ち上げの仕事を始め、ネコの手も借りたいくらい繁盛しているらしいです。

ぶらぶらする人が増えるのは、今回の島とはまったく関係ない話であり、ちあんがわるくなるわ、Xデーも近づく予感がするわ、となんとなく落ち着かない暮らしではあります。
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