いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

楠(タブノキ)物語3、ご神木の末路

2017年04月13日 14時56分19秒 | 楠(タブノキ)物語
この御「神木」は、後に乾隆帝にも関係してくる。

くだんのご神木は、明朝が滅亡し、時代が清朝になると、「鎮城之宝」の信仰は受け継がれず放置され、「皇木場」は荒れ放題となった。

乾隆二十三年(一七五八)、乾隆帝が自ら皇木場の視察に訪れ、『神木謡』を詠む。 
乾隆帝が皇木場を訪れたきっかけについては、二つの説がある。

一つの説は次のようなもの。
乾隆帝が生れ落ちて三日目、雍和宮の五百羅漢山の前で金糸楠木の桶で湯浴みをした。
この桶は「洗三盆」、「魚竜盆」と呼ばれる。
その縁で乾隆帝の夢枕に「神木」の精が立ち、長年雨風に曝され、体が痛むと訴えたために視察に訪れた、と。
 
もう一つの説は、皇木場の近く「大北窯」にレンガ焼きの窯があり、毎日もくもくと煙が上がっていた。
皇木場の近くに火気があるのはよろしくない、と上奏した人がおり、乾隆帝がこれを聞き入れ、視察に訪れたというものである。

「大北窯(ダーベイヤオ)は今も地名として残る。
国貿ビルの立つ一等地、皇木場とは目と鼻の先である。

一見、取りとめもない二つの説をどう受け止めるか。
こういう「夢枕」だの、「奇跡」だの、「瑞兆」だのと言った話は、いくらか深読みしてその狙いを探る必要がある。
話を作った当人はそんなものは事実だと信じてもいないわけで、何がしかの「忖度」があり、「目的」があり、「得する」人がいるはずである。
 
楠木の桶の話のポイントは、「雍和宮」ではないか、と作者は見る。
乾隆帝は、父帝の雍正帝が皇子の頃、そのお屋敷である雍親王府で生まれたことになっている。

新しい皇帝が即位すると、その生家を「潜龍府邸」として、別の役目を与えることは、清朝の習いとなっているが、
乾隆帝は父帝の屋敷を雍和宮と名づけてチベット仏教の寺とした。
 
ところが乾隆帝は雍和宮ではなく、承徳の「獅子園」で生まれたという伝説が、根強く流布しており、
乾隆帝は事あるごとにそれを否定している。

どうしても獅子園生まれだという噂を否定したい強い意志が働いているのである。
否定すればするほど、中国語でいう「越抹越黒(触れば触るほど黒くなる、申し開きすればするほど怪しい=藪蛇)」である。
 
どうやら人に知られたくない事情があるらしいが、現在出ている資料からそれ以上のことはわからない。 
一説には乾隆帝の生母は、承徳の貧しい農民の娘だともいう。

「獅子園」は、雍正帝の皇子時代の承徳の邸宅である。
避暑山荘の西北にあったが、乾隆帝はそこで生まれたという説が根強く流布していた。
つまりは、生母が旗人の娘たちの中から選抜された「秀女」でさえなく、土着の漢人農民だった可能性を指摘する。

「乾隆帝漢人説」はこのほかにも、江南の海寧・陳閣老の子などの説もあるが、
これは偉大なる皇帝が実は自分たちの血を引いていたと思い込みたい漢民族庶民の願いを多分に反映している部分があり、差し引いて考えなければならない。
 
真実はともかくとして、乾隆帝には自らの生地を雍和宮であると強調するデモンストレーションがいくらか見られる。
楠木の桶に関する話も一見、桶を主題に語りつつ、「雍和宮の五百羅漢山の前」と、場所をかなり詳しく指定している。
 
作者の私見は、まずは大北窯についての奏文が提出され、乾隆帝が楠木の神木について再認識、視察に行くついでに
自分に都合のよいエピソードを流布させたのではないか、というものである。

乾隆五十三年(一七八八)の北京の歴史・地理をまとめた欽定『日下旧聞考』全百六十巻に『神木謡』の欄がある。
 
「 神木廠は、広渠門外二里余り、大木が地に横たわり、高きこと一人一騎を隠す可し。明初、宫殿の遺材也。その木には神ありと伝わる」
と、馬に乗っても隠れる高さであるこという。

さらに
「歳久しく風雨淋漓、すでに徐々に朽ちる矣(なり)。皮、腐爛するも、心(芯)は存ず。対面は猶(なお)相見ず」
と、清代にはすでにかなり損傷が激しかった様子がわかる。
それでもなお向かい側が見えないくらいだったという。
しかし騎馬して、とは書かれていないので、やはりかなり縮んでいたのだろうか。
 
次に『神木謡』の詩、七言二十五句が全文載っているが、これは省く。

乾隆帝は『神木謡』を石碑に彫りつけるよう命じる。
神木の西側に碑亭を建てて納めるとともに、
傷みの激しい神木の風化がそれ以上進まないように、七間続きの瓦屋根の建物ですっぽり覆ってやったという。
神木の長さは四丈(十三メートル余り)とも、六十尺(十八メートル余り)ともいう。
 
以前にも何度か書いているが、「一間」というのは、一般的な木材の長さで届く範囲を指す。
通常はせいぜい三、四メートルが限界であり、つまり「七間」は約二十から二十八メートルくらいの長さとなる。
神木は標準レベルの木材の七倍も長かったことになる。 

この神木には、さらに後日談がある。
清朝も滅亡する頃には乾隆帝が作った保護のための建物もすっかり崩れ落ち、碑亭も崩れ、再び神木と石碑は雨風に曝されつつ、傷み続けていた。

通恵河の河原は芦に覆い尽くされて荒れ放題となり、石碑は土がかぶり、ほとんど地下に埋もれた状態となり、顧みる人もなし。
河辺であることを考えると、土砂が流され、地下に埋もれることは、よくある現象だ。
 
その地に共産主義となってから、北京ピアノ工場が建てられた。
工場の職員らは、石碑から神木の由来を知るようになるが、巨大な神木はさらに傷み続けていた。
鼠と虫に冒され続け、年々一回りずつ小さくなってゆくのを見て、職員らは心を痛めた。

これ以上放置しておけば鼠と虫に喰われてなくなってしまう、と危機感を抱いた職員らは、
ある日、神木をノコギリで木材にし、迫力ある一枚板のテーブル二十個に変身させた。
表面にはピアノのニスを塗り、テーブルは鏡のように底光りした立派なものだったという。

その後、神木のテーブルは工場内で活用されていたが、後には文物担当部門が引き取りに来た。
某文化館の地下倉庫に眠っているという話は伝え聞くが、実際に見た人はいない。  

……以上が、首都の守り宝となった神木の末路である。


ところで神木とセットになっていた乾隆帝の『神木謡碑』は、どうなったか。
新中国成立時には、ほとんど地下に埋もれていたが、掘り出され、工場の敷地内に置かれていたことは、前述のとおりである。
神木の本体が朽ち果てるのを見かねてテーブルに加工された後も、石碑はそのまま安置されていた。

そのうちに文革が始まる。
文物への批判が日々高まるのを感じ、当時工場の党委員会書記だった宋治安氏は、
工場の社員食堂の白菜倉庫の中に石碑を運び入れ、埋めて保護した。

八十年代以前の華北以北では、冬の野菜保存には地下倉庫の利用が一般的だった。 
東北出身の三十歳以上の人に聞けば、住まいが庭付きの一軒家でなくてもアパートであっても、
アパートの横の敷地に各家庭に地下野菜倉庫のための土地が割り当てられた、という話を聞くことができるだろう。

冬の食事は白菜、大根、にんじん、じゃがいもなどの長期保存が可能な野菜をひたすら食べるしかない。
冬の始めに支給を受けてから、一冬かけて食べるのだ。

地下倉庫の造りはごく原始的、地面を掘り、中を杭などで支え、落盤しないようにした四平方メートルから十平方メートル程度の空間である。
高さは人が立って活動できる程度、つまりは二メートル程度、地表からの深さは、凍結しないように半メートル程度である。

入り口からはしごで真下に直角に出入りする。
計画経済の時代は大人たちが夫婦それぞれの職場から数十キロから百キロを越える白菜を支給されるだけでなく、
小学生の分は子供自身が小学校で支給を受ける。
それらをすべて地下の野菜貯蔵倉庫に入れ、一冬かけて食べたのだという。

つまり地下倉庫の壁、天井、床に至るまで土の地がそのまま露出している状態である。
雨の少ない華北の地ならでは成立する施設だ。
 
工場の社員食堂用の地下倉庫であれば、家庭用に比べ、かなり大規模なものであったろう。
足元は地面が露出しているため、神木謡碑を埋めることは簡単だったはずである。
 
その後、革命派がピアノ工場に石碑を求めて突入してきた。
石碑をどこへやった、と工場中に聞きまわったが、誰一人としてありかを教えた人はいなかった。

――神木と石碑は、工場の宝だから。
と、当時を振り返って人々はいう。

工場の創立当時からともに歩んできた神木と石碑に人々は愛着を感じていた。
 
石碑が再び日の目を見たのは一九八五年になってからである。
星海ピアノ工場と名前を改めていた工場では、新たな設備投資のために作業場を立て替えることになり、
基礎工事のために石碑も掘り起こされた。

二千年には、石碑の保護のため、工場では三万元をかけて碑亭を建てるとともに、ガラスで覆い、保護した。

二00三年、北京オリンピックを控え、都市再開発が進められる中、
市内にある工場を徐々に郊外に移転させる過程で星海ピアノ工場も通州(東郊外)に移転することとなった。
 
創立からともに歩んできた石碑を移転とともに持って行きたい、というのが職員の願いであったが、
文物は元あった場所で保護するという原則に従い、工場のみが移転し、石碑はそこに残された。

星海の職員は石碑を懐かしみ、
通州の移転先でも等身大の石碑のレプリカと碑亭を作り、工場内に立てているという。
また神木をテーブルに加工した当時、余った木片を保管していた当事者が、後に工場にこれを寄付した。

木片は工場の資料館で見ることができる。
 

さて。

神木謡碑そのものは、どうなっているか。
新開発のビル郡に埋もれ、ぽつりと残されているらしい。

周囲は今北京で最もホットな一等地。
工場の移転後、土地の半分は分譲マンションの建設用地として売られ、石碑のある部分はまだ空き地のままだという。
マンションの敷地の一部に取り込まれてしまう日も遅からず来ることだろう。

……というのが、私が2008年オリンピック前後までフォローした神木碑に関する行方である。
さらなる後日談は、情報が入ればまたアップしていきたい。





古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




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2 コメント

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Unknown (Hiroshi)
2017-04-14 17:20:15
これは「説話」に該当するなと読みながら思いました。

「説話」はある種のプロパガンダを広める為に作られたもので信憑性を添えるためにわざわざ<固有名詞を入れる>とか。西欧中世の説話はその典型だとか、
blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/4679/trackback
blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/675/trackback

この話だと、

『生れ落ちて三日目、雍和宮の五百羅漢山の前で金糸楠木の桶で湯浴みをした。この桶は「洗三盆」、「魚竜盆」と呼ばれる』

つまり時間と場所と、使用した容器を詳しく指定することで(しても当時庶民には検証不可能)信憑性を高めるという具合ですね。
返信する
Hiroshiさんへ (いーちんたん)
2017-04-14 21:05:20
リンクの記事を拝見いたしました。
「説話」には、わざわざ固有名詞ですかー。
なかなか説得力がありますね。

老子のふるさと争いのお話もわらってしまいました(爆)。
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