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北京ときどき歴史随筆

和[王申]少年物語16、ゴダン・ハーンとサキャ・バンディタ

2016年11月22日 11時11分26秒 | 和珅少年物語
この頃、草原ではモンゴル帝国が勃興しつつあった。
ナーランダ僧院がなくなるのと時を前後して、モンゴルは西夏を滅ぼす。

モンゴルの武将らが最初にラマ教に触れたのは、西夏の宮廷においてであったらしい。
西夏の宮廷では多くのラマ教の高僧が活躍し、国王の上師となっていた。

モンゴルは西夏を滅ぼすことにより、彼らと接しラマ教に興味を持つようになる。
モンゴルに行ったチベット最初の高僧はサキャ派の第三祖サキャ・パンディタである。

チンギス・ハーンの孫ゴダン・ハーンがサキャ・パンディタに宛てた親書はかなりドスの利いたものである。
尊師をぜひモンゴルに招請したいが、もし高齢を理由に来ないのであれば、わが国の決まりにより、大勢の軍を派遣することになるだろう。
そうなれば多くの衆生の命を損なうことになるとは思わないか、という。本人が来なければ、チベットを武力で征服するという脅しである。

モンゴル人がラマ教を信仰するようになったのは、
チンギス・ハーンの孫、ゴダン・ハーンが高僧サキャ・バンディタをモンゴルに招聘した時に本格的に始まるという。

チンギス・ハーンの軍隊は、西夏を滅ぼし、チベットにも手を伸ばそうとしていた。
モンゴル側ではラマ教各派の高僧に働きかけ、モンゴルに招聘しようとしたが、皆腰が引けて誰も行こうとしない。

こんな高原の天然の要塞に攻め入ってくることもないだろうと高をくくっていた部分もあるだろう。
ゴダン・ハーンの脅しの効いた文書ももちろん行きたくなくても行くべき、と思わせた理由ではあろう。

お前が来なければ、チベットに血の雨が降るというのであるから。
当時、サキャ・バンディタはすでに高齢であった。

若い頃からチベット全土を回り、各寺院の高僧を訪ねたり、説法に参加したりして、
その学問はチベット一という評判を取る高僧である。

だからこそモンゴルにまでその名声が及び、招聘されることになったのである。
サキャ・パンディタがモンゴルに行く決心をしたのも、
自らも積極的に仏法でモンゴルのトップを感化したいという積極的な意志があったからに違いない。

こうしてサキャ・バンディタはゴダン・ハーンの元に行く。
ゴダン・ハーンはこのとき病床にあり、彼は医術でハーンの病気を回復させたという。


ラマ教は医学に力を入れる宗教である。
通常ラマ寺における学問修行は、顕教、密教、と同列で医学部がある。

チベット医学の特徴は、精神面と肉体面を分けることなく同時に治療していく点にある。
つまり病人が持つ精神的な不安を、僧として修行した真理と包容力で和らげ、
かつ専門的な肉体の治療も行うということである。

病人からじっくりと生活全体の話を聞き、骨相からその人格、性格や精神状態などを推し量り、
家族や交友、仕事の話も聞きつつ、精神的な不安や生活習慣のどこかに異常なところがあり、
病の原因になっている部分はないか、と探りながら、治療を進めていく。

まずは本人の一番の悩みがどこにあるかを見抜く。
酒の飲みすぎで病気に影響している場合は、なぜ大量の酒をあおるのか、
その精神的不安の根源を探ろうとする。

その根源に合った仏教経典の真理があれば、
それを中心に語り、相手の心の患部にずばりと入って突き立てる。

優れた僧は、相手のレベルに合わせて心に響く話をすることができる。
教養が高くない人間に難しい理論を説いてもまったく琴線にはひっかからないだろう。

何を言ってるんだこの人は、と話の意味も分からないようでは困る。
逆に精神境地が高い人にあまり幼稚なことを説いても馬鹿にされるだけである。
優れた僧とは、相手のレベルを瞬時に見抜き、どんなレベルにある相手にも、
その境地段階に合った言葉をかけることができる人をいう。


精神と肉体を同時に治療していく、というチベット医学の発想は、
現代の医療制度から見ても興味深いものがある。

現代の日本でも、多くの老人が大した病気もないのに毎日近所の診療所に行き、
待合室で何時間も互いに体のどこが悪いのか、延々と語り合う。

診療の番が回ってきても、どこが悪いということもなく、医者も笑ってビタミン剤などを処方する。
ご老人たちに必要なのは、まさに精神と肉体の両方の治療ではないのか。

ところが現代の医学制度では、精神を病んでいる人は、精神分析医へ、
肉体を病んでいる人はその専門医へ、と分けて受け入れる。

まったく、時代が下ったからといって、すべてが先進的とは言いがたい例ではないだろうか。

また精神分析医の制度にしても、問題点はある。

私事ながら、作者の高校の同級生に心理学を研究する友人がいる。
以前に彼女が笑いながら話したところによると、
ある夫婦は二人とも精神分析医としてある病院に勤めている。

患者の話は本来は他言してはならないが、夫婦でもあり同じ病院内のことでもあり妻は家に帰ると、
夫に自分の患者の話を最初から終わりまですべて吐き出して聞かせるという。

つまり夫は医者二人分のキャパシティの情報を注ぎ込まれるわけで、
夫は寿命が縮んでいるのではないか、と彼女は冗談交じりにいう。

他人の悩み事を受け止めるというのは、
その人の持つドグマのようにどろどろとした精神的な澱を受け止めることでもあり、
聞き手も大きなダメージを受ける。

これを癒すには相当の精神力が必要となり、分析医も心を病むケースが多いと聞く。


チベット医学のいう精神面と肉体面を同時に治療する、という定義は、
系統だった修行のカリキュラムにより、まずは僧自身が揺るがない強い精神を持つことから始められるわけである

。哲学的な真理に徹底的に触れ、これを暗記し、駆使して討論で鍛え上げる。
肉体的な修行、苦行を通して、如何なるケースにも動揺しない強い精神と肉体を作り上げる。

その上で医学も身につけるということである。





 

  元・和[王申]の邸宅だった現恭親王府。最も奥にある花園。



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