いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

楠(タブノキ)物語4、明代の楠木切り出しの惨状

2017年04月23日 16時34分06秒 | 楠(タブノキ)物語
以上、少し横道に逸れたが、乾隆帝と楠木の浅からぬ因縁を見ている。

 
明初の紫禁城の建設には、ふんだんに楠木が使われた。
その後、明代を通じて楠木への執着は衰えることがない。

現在残る最も荘厳なる楠木建築は「明の十三陵」の長陵である。
宣徳二年(一四二七)の創建、六十本の楠木の大木を柱に使う。
 
その調達がどれくらい困難であったかというと、これまた想像を絶する。

万暦年間の工科給事中・王徳亮の奏文では、次のように訴える。

「採運之夫、歴険而渡水、触瘴死者積屍遍野
(伐採と運搬の人夫は、危険な道のりを越えて川を渡っていくが、瘴気に当たり死体が野を覆う)」

「木夫就道、子婦啼哭。畏死貧生如赴湯火
(木こりに徴用される男子が出発しようとすると、女子供が泣いてすがりつく。
 死を恐れ、生を貪ること、煮えたぎる湯か火に追い立てられるが如し)」

「風嵐煙瘴地区、木夫一触、輒僵溝叡、屍流水塞、積骨成山。其偸生而回者、又皆黄胆臃腫之夫。
 (風・嵐・煙・瘴気の地区、木こりはその空気に触れた途端、谷は麻痺する。
 屍-しかばね-が流れて水をつまらせ、骨が積み上げられること山の如し。
 その生を偸み-ぬすみ-回りし者も、皆黄疸、腫れの夫となれり)」

「一県計木夫之死、約近千人。合省不下十万
(一県の木こりの死を計算すると千人近い。省全体を見ると、十万を下らない)」

と、楠木の切り出しに「大量殺戮」が伴う現象を綿々と書き綴っている。

たかが木の切り出しになぜ十万単位の人が死ななければならないのか。

それを「瘴気(しょうき)」のためと説明する。
触れるだけで病気を惹き起こす「悪い気」という概念として、主にマラリアを指した。
 
運よく生き長らえたとしても「皆黄胆臃腫之夫」、というところを見ると、
「黄胆(=黄疸-おうだん。眼球、皮膚が黄色くなる)」、
浮腫(むくみ)などは、典型的なマラリアの症状である。

木の伐採に行っただけで、そんなに大量の人が死ぬものなのか。

その可能性を探っていくと、近代にもなぞらえることのできる例がある。 

太平洋戦争中に日本軍がタイとビルマの国境の山岳地帯で建設した「泰緬鉄道」は、ジャングルを切り開き、険しい山岳地帯を這うように作られた。

工事を担ったのは、連合国軍捕虜三万人と現地住民十万人である。
それ以前にもかつてイギリスが同じルートで鉄道建設を試みたことがあったが、
強烈なマラリア蚊の問題を解決することができず、断念したという経緯がある。
 
それにも関わらず、日本軍は全長四百五十キロの道のりをわずか十六ヵ月の突貫工事で強引に完成させたため、
この期間中、マラリアのために実に十万人が命を落とした。
枕木一本に対し、人間一人が犠牲になっている計算となり、まさに「死の鉄道」と呼ばれたいわく付きの鉄道である。
戦後にはこのために捕虜虐待として、国際問題にもなった。
 
二十世紀初頭でもそれくらいマラリアの殺傷力はすさまじく、ジャングルに入った途端、数万人単位で人が死ぬことが有り得たことがわかる。
だからこそ人類はジャングルの奥に入ることを恐れ、畏怖してきたのである。

楠木伐採はその条理に触れる行いだった。

太平洋戦争の時期におけるマラリア死亡率の壮絶さを見ると、
明代の四川の原生林に分け入った人夫たちが十万人も犠牲になったという数字もあながち荒唐無稽だとはいえないのである。

楠木の伐採に徴用された成人男子を見送る家族が
「子婦啼哭(女子供が泣いてすがった)」のも、
生きて返ってくる確率があまりにも低いことを土地の人々がよく知っていたためだ。

現地の民謡に「入山一千、出山五百」と謡ったという。
まさに人間の欲望のための壮絶な犠牲に肝も冷える思いがする。
  

このように楠木伐採は、明代ですでにここまで困難になっていた。
切り出しにおけるマラリア感染も然ることながら、
今度は山奥からの運び出しにも莫大な経費と歳月がかかる。

巨木の運搬には舗装された道路がなければ、
丸木の上を転がしつつ移動させていくことができない。

このため山岳地帯での道路建設がまず行われ、
道路が完成してから初めて巨木を降ろすことができるのである。

さらに長江をくだり、大運河から北上、北京に到着するには六年の歳月を要したという。

その費用は莫大なものとなり、天安門城楼の楠の柱は運賃だけで黄金九十万両かかったといわれる。
 

康煕年間、官僚を南に派遣し、楠木の伐採を行ったことがあったが、
前述の如きあまりに困難な作業、民の犠牲が伴ったために康熙帝はついにこれをあきらめたという経緯がある。

このために康煕年間に建てられた宮殿は満洲黄松で代用し、外だけ楠木でくるんで面目を保った。
 
康煕年間はまだ建国まもなく、
異民族である満州族統治者が中原の民を疲弊させるのは、危険だったこともあるだろう。

内輪のいじめとよそ者によるいじめは、本質的に違うのだ。


  


古北口鎮。
北京の東北の玄関口、万里の長城のふもとにある古い町。

北京から承徳に行く道中に当たる。
このあたりに清朝の皇帝の行宮もあったという。


承徳の「避暑山荘」の写真があれば一番いいのだが、
残念ながら、手元にはない。

いずれまた整理することがあれば、写真を入れ替えたいと思う。




ぽちっと、押していただけると、
励みになります!

にほんブログ村 海外生活ブログ 北京情報へ  

最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
場所はどこでしょう? (Hiroshi)
2017-04-23 21:32:54
そこで書かれている楠の生えている地域はどちらなのでしょうか? Malariaのriskのある地域を調べてみると熱帯マラリアだと海南島と雲南地域のようですが。熱マラリアだと、それ以外にも安徽省付近も汚染地帯だとか。雲南はあまりに遠い気もします。海南島なら海運で運べないこともないが、それでも遠い? やはりこれは安徽省かな?? 
http://www.map.ox.ac.uk/explore/countries/chn/

もちろん、当時と今ではまた汚染地域も違うかもしれません。フランスのアルル近辺やイタリアのポー川流域などの湿地帯は、昔はマラリア汚染地帯で開墾に修道士たちが苦労したとどこかで聞いたことがあります。どうなんでしょう??
blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/666/trackback
blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/4205/trackback
返信する
hiroshiさんへ (yichintang)
2017-04-24 22:07:04
hiroshiさん、こんにちわ。

この記述は確か四川省のことだったと思います。
やはりかなり蒸し暑い気候ですよねー。


>フランスのアルル近辺やイタリアのポー川流域などの湿地帯は、昔はマラリア汚染地帯で開墾に修道士たちが苦労したとどこかで聞いたことがあります。

おおー。
ヨーロッパでもマラリアがあったんですね。

やはりやや南の方だからでしょうか。

興味深いです!
返信する
Unknown (Hiroshi)
2017-04-25 08:22:00
>ヨーロッパでもマラリアがあった

malariaの語源はイタリア語のmal=悪い、とaria=空気だそうです。西欧中世の「メメント・モリ」を語るお話の中には「沼地から沸き上がる悪い空気=malaria」が死霊のイメージと重なって語られることが多いような、、
http://www.jomf.or.jp/include/disp_text.html?type=n100&file=2002120102
返信する
hiroshiさんへ (yichintang)
2017-04-25 11:26:40
>malariaの語源はイタリア語のmal=悪い、とaria=空気だそうです。

なるほどー。
よく考えたら、ヨーロッパの言葉っぽいですものね。

死霊のイメージですか!
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。