露店のスナック。
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剽悍無比で知られるカム族の居住地区に差し掛かったナシの祖先の人々は、
接触の最初から、カムの苛烈な略奪に遭う。
厳しい自然環境に生きる部族は、通りがかりの旅人らの略奪も生業の一つにしている場合が多い。
荒仕事で常日頃、精神と肉体を研ぎ澄ませているからこそ、剽悍なのだとも言える。
ナシの人々は、元いた場所の環境が厳しくなったからこそ、南を目指しているのであって、
カム族の猛烈果敢なる攻撃に出くわしたからといって、南下を止めるわけには行かぬ。
苛烈なカムの攻撃をかわして、彼らの居住地を通過し、さらに南を目指したいが、無事に済まされそうにない。
戻っても進んでも絶体絶命、という民族絶滅の危機に追い込まれた。
その中でたった一縷の望みをかけて決行したのが、除夕(大晦日)の急襲であった。
ナシのある賢者が言った。
明日は除夕だ、酔いつぶれた彼らを襲うしか生き残る道はない、と。
カムには、1年の邪気を大晦日の酒で吹き飛ばすという風習があった。
除夕の晩に酔いつぶれるまで飲まなければ、次の年は1年間、不運が続き、何をやってもうまくいかない、と信じられていた。
その反対に酔いつぶれるほど飲めば、前の年の邪気をそれですべて振り払い、新年は新たな出発をし、1年間幸運が続くと。
除夕の深夜、カムのの人々が酔いつぶれて、死んだように眠りこけたところをナシの男たちが急襲し、
スイカをかち割っていくように酔いつぶれたカムのを皆殺し、ようやく九死に一生を得て南への道を進むことができたのである。
民族が危うく絶滅するところまで追いつめられた経験は、
ナシの人々の心に深い傷跡を残した。
その経験を永遠に忘れぬため、子孫代々伝え続けていくために、
ナシの人々には今でも多くのその記憶と習慣が残されているという。
まず誰と結婚してもよいが、カム族との通婚だけは断固として許されていないという。
「納巴不過一座橋、不走一条路」(カムを家に入れれば、同じ橋を超えない、同じ道を歩かない)」。
つまりは村八分にするという意味である。
「娶巴女為妻室、家道敗落七世(カムの女を妻に娶れば、家は七代に渡って廃れる)」
という激しい口調だ。
ナシの人々の年越しには、かの急襲の夜の記憶も風習として残っている。
カムのを皆殺しにして、返り血で全身血だらけになって帰ってきたナシの男たちは、
邪気を洗い落とすために、泉の水で体を洗った。
その記憶のとおり、ナシの年越しでは、沐浴をする習慣があるという。
春節の頃といえば、一年で最も寒い時期である。
普段でも冬にあまり沐浴する習慣がないだろうことは、想像に難くない。
それを敢えて沐浴するのは、そういう由来がある。
大研城の露店。
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カム族との戦いで民族の絶滅を逃れた記憶は、
トンパ経典に盛り込むことにより、葬儀や祭事の行事のたびに演じられ、民族の記憶として、綿々と語り継がれてきた。
ナシ族はトンパ教を信奉する。
トンパ教は原始的なシャーマニズムをベースとし、チベット仏教の影響もある。
世の宗教とは大方、
この「土着の原始的なシャーマニズム=八百万の神の信仰」+「世界宗教として生き残った、高度な哲学的、科学的教義を持つ(当時としては)近代的宗教」
のミックスで成立したところの方が多いのではないだろうか。
日本の宗教観も神道と仏教が混然一体となっているし、ヨーロッパのキリスト教でも土着の聖人信仰や太陽信仰などが取り入れられているという。
中国の民間信仰は仏教と道教が判別不能なところが多くあるし、チベット仏教も後期インド仏教と土着ボン教の融合したものだ。
閑話休題。
とにかくナシ族は、人が死ぬとシャーマンであるトンパが呼ばれ、儀式を執り行って死者の霊を弔う。
彼らの意識は、数千年たった今もなおかつて暮らした祖先の地にあり、
死者の魂はかつてナシの人々がたどってきた道を同じように遡り、祖先の地に戻って家族と団らんの場に戻ることを極上の幸せとした。
それが彼らの価値観の中の「天国」ということだろう。
住み慣れた土地を生きるためにやむにやまれず離れてきた無念、生爪をはがされるがごときの痛み、
その道中で嘗め尽くした艱難辛苦、限界まで追いつめられた恐怖が数千年の時を経ても未だに生きている。
人間にとっての「天国」とは、時代と場所によってさまざまなものがあり、人々の価値観を反映しているものだろう。
中国で強調される不老不死であったり、コーランに書かれているのは美食と左右にはべり放題の美女だったり。
ここで思い出したのは先日河北の田舎で見た、地元の地べたで売っていた紙銭や死者のために燃やす「供え物」の紙である。
そこには、お金のほかにも、冷蔵庫、洗濯機、携帯電話、ベンツなどの絵が描かれており、思わず微笑んでしまった。
そういった「これ以上幸せなことはない」と人々が夢見る価値観が、「故郷の地に飛んで帰る」ということだった。
そのおかげでナシの人々が、南遷の道中で体験してきた苦難が、
死者が祖先の地に帰るために経験する苦難の道として、まるでビデオテープを逆戻しするかのように再現され、
文字に書き写されることもないままでも数千年に渡り、綿々と口伝として語り継がれてきた。
だ、だいぶ美人に描いている???
大研城内のお店にて。
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ナシ族には、古い「巴瓦捕(カムの山塞を襲う)」という葬儀の儀式が伝わる。
司祭のトンパが先頭に立ち、「献馬」の儀式を行う。
太古の昔は馬を殺して生贄にしていたが、後に仏教の影響により「放生(捕えた動物を自由にする)」に変わり、
それでも人が死ぬたびに貴重な馬を差し出していたのでは経済的に辛抱たまらんということで(殺しても放しても、どちらにしてもいなくなるわけだから)、
清代の「改土帰流」以後は、竹の骨格に紙で張りぼてした馬で代用してきたという。
これもナシ族が麗江の盆地におちつき、農耕と定住を中心とした生活に変わることにより、
人口密度が高くなり、馬が貴重品となったことによる変化だろう。
遊牧生活であれば、馬はいくらでもいるし、老いて乗り物として役に立たなくなった馬を生贄にすることは、それほど無駄な行為でもなかったはずだ。
ところが農耕生活に入ると、馬を育てるだけの草の確保はそう簡単ではなくなる。
牧畜ならば、数㎞にわたって草地が放牧のために確保できるが、農耕となれば、
一家族に与えられる土地は、せいぜい数十、百数メートル四方でしかない。
そうなると、一家族で養える馬の数は1-2頭に限られてくるだろうし、10頭も20頭も飼うには、飼料が足りない。
貴重な馬を人が死ぬたびに殺していたのでは、不経済この上ないというわけだ。
トンパが「献馬」の儀式で「馬の由来」の経典を読経する。
読経の間、死者の家族から3-9人の青年を選びだし、それぞれに1頭ずつの馬を率いてくる。
原則は青年らが全員、1頭ずつ牽いてくることになっているが、
そこはすべての家庭にそんなに多くの馬がいるわけではなく、その家庭の経済状況によりまちまちながら、
どんなに貧乏でも最低でも1頭は、隣近所のどこかから馬を借りてくる。
馬は死者を祖先の地まで連れて帰ってくれる大事な使者であり、馬の一頭もなければ、魂が本当に路頭に迷ってしまうからだ。
青年らは、雉の羽根のついたフェルトの帽子をかぶり、トラ柄のベストを羽織り、
手には楯と大なた、弓などの武器をもち、全身武装で馬を牽いて死者の霊前にやってきて棺に跪いて頭を下げ、口上を述べる。
「阿普(アブ)、阿注(アチュ)、我らを守りたまえ。これに馬を洗いたり。
道中に蟠踞する巴人(カム人)の山寨を殲滅させ、道中で略奪を働く巴人を撃退し、四代祖母三代祖父の暮らす祖先の地へ送りたまえ。」
祖母が四代で、祖父が三代。
祖母の方がやや格が上なのが、母系社会といわれるナシ族らしく、ほほえましい。
お兄さんのタトゥーTシャツがナイス。
後ろのおっちゃんの似顔絵は、まだ似ているわね。
目撃写真として見せられても、これなら判別がつく。。。。
前回のおねえちゃんは、あれは。。。。似顔絵と本人は、絶対見ても気づかないと思うよおおおお。
やっぱり女心をよくつかんでますな。きれいに描いてくれないと、商売になりまへん、てことですかね。
大研城内のお店にて。
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次に青年らはトンパに率いられ、馬を河べりまで牽いてきて、土のお椀に河の水をすくい、1椀は馬の頭に、
もう1椀は馬の体に、さらに1椀は馬の尻尾に注ぎ、土の椀をその場で地面にたたきつけて割る。
トンパは読経する。
「馬を洗い、人も清潔に洗い、物を入れるかごも洗いけり。
馬は雷の如く疾走し、掛け声は雷の鳴る音のごとし、虎や豹も馬の蹄を止めることはできず、狼も楯と大なたの行く先を止めることあたわず。
巴人の寨を殲滅し、勝利とともに祖先の故地へ送りたまえ。」
青年らはトンパに率いられ、素早く馬にまたがり、馬を鞭打って葬儀の家に駆け戻る。
道中では、「虎が跳ね、鷹が飛ぶ」戦いの踊りを踊り、虎と鷹の動きを模倣しつつ、
さまざまな道中を妨げる敵に勝ったことを象徴する勝利の踊りを踊りつつ、練り歩いて家まで戻る。
モンゴル相撲で勝者が踊る鷹踊りのようなものでしょうかね。。。。見たことないので、想像ですが。
葬儀の家にたどり着くと、家の前には、手に武器を持った敵に扮した相手が立ちはだかっており、
青年らはこの敵との戦いを模した踊りを踊り、その垣根を突破して家の中に突撃していく。
家の中に入ると、順番に馬から降り、霊前に駆けつけ、口上を述べる。
「山の中に潜伏する巴人あり。撃退せり」と。
トンパが霊前で読経するが、経典は口汚く巴人を罵る。
「目の見えない巴人ども、七股に分かれた舌をもつ巴人ども。嘘と欺瞞に満ちた巴人ども。
その心臓を弓で射抜き、その首を大なたで掻き切り、白樺の木で殴りつけ、その骨を切断し、頭を粉々に砕かん。
巴人の(女性の)陰門はでかく、猫が7回飛ばなければ窪みを超えることができない(す、すごい口上。。。猫7飛び分くらい陰門がでかいといいたいのでしょうか。。)
巴人を強姦せよ(そんな女でも強姦したいのですね。。。)
巴人の男根は九柞の長さ(どういう単位なのか、調べても出てきませんでしたが。これまでの流れでいくと、短いと罵りたいのでしょう)。
巴の男根をぶった切れ。巴人の寨を焼き尽くせ。巴人の地をさら地にせよ」
・・・・・・と、まあ。穏やかならぬ野蛮の限りを尽くした経典じゃ。
トンパが読経を上げている間、青年らは家の中庭で「虎跳び鷹飛び」踊りを舞い、村の若者も武装に身を固めておたけびをあげつつ踊りの輪の中に入る。。。
という儀式らしい。
こういうカラーの情報も必要だと思います。
ただ私は本当に暴言吐きまくりの人なので、まったくカラーに合いません。
悪いことばかり報道される、という人もいますが、
あれだけ野蛮なことをやっておいて、あたりまえじゃ、と思っていますから。
また現代のことについては、私が最も書きたいことではなく、やはりそれを専門にされている方々がたくさんおられるので、敢えて私が意見を述べることに大きな意義もないと思っております。
多田さんはやはりお仲間ですか。「それ中」はどうやらいいところばかりのピックアップという、悪いところをピックアップしているマスコミの対極に作っているような感じもします。でも、こういうのもあった方がいいと思います。いーちんたんさんも参加してくださればよかったのに。
はっきりと出典は書いていないのですが、この出来事は、後漢時代と書いてありました。
この出来事は、トンパの儀式の呪文として伝わっており、
一方で後述しますが、漢書にナシ族が麗江付近で定住の許可を求めたとあり、はっきりとした年代があります。
ということは、後漢代にはすでに麗江地区にたどりついていた、と推測したのだと思います。
こちらに「胡同会」という北京の古い町並みを皆で見て回る会があり、多田さんはその会の主催者でもいらっしゃいます。
この本、私にも声はかかったのですが、
こんなご時勢でもこちらのよいところを紹介する、という主旨だと聞き、激昂するとどんな暴言が飛び出すかわからない私としては、遠慮させていただきました。。。
あちこちで話題になっているようで、
さまざまな方々から反響について耳にしますね。
皆さん、北京に長い方々ばかりで、まさに北京の日本人を代表する、といっていいと思います。
後ろのプロフィールを見ますと、39歳、翻訳書の一つ『乾隆帝の玄玉』などとあります。ますます分野が近い。いーちんたんさんを知りませんので、この方を例にとることで失礼がありましたらお許しください。
多田さんのブログはここにありました。
http://d.hatena.ne.jp/lecok/
そして彼女がブログで「それ中」の制作過程などを紹介しています。
http://d.hatena.ne.jp/lecok/20130814/1376508322
ご参考まで。
読後感については今のところほんの少ししか読んでいませんので後ほどということにしまして。
曇って前が見えない日もよくありますし、ひどい状況ですね。
ただ日本でも四日市ぜんそくの時代、あまり誰もマスクをしておらず、90年代の光化学スモッグ警報が出ていた東京でも今ほどマスクしている人がいなかったのと同じで、あまりマスクをしている人は多くありません。
おそらくあきらめの境地でしょうねええ。
三国志とか英雄の立志伝とかはよくありますが、こういった庶民の息づくストーリーはこれまで耳にしたことなかったので驚き~納得の連続です。有り難うございます。
ところで最近の北京はPM2.5とか大丈夫ですか?
大阪では急に冷え込み、今日の明け方前に初雪が観測されましたよ。