ライトアップされた木土司府。
さて。
フライトの遅れを文句たらたら言ったり、昔のヒッピーの思い出ばかりを書き立てても発展性はないので、
遅まきながら、現地の歴史と風土についても少し復習をしたいという気になった。
麗江の主役といえば、ナシ族の人々。
その歴史を抑えておこうと、現地で買ってきた『木氏土司秘史』なる書籍を紐解く。
ナシ族が古代羌(きょう、Qiang1)族の一派だという部分の記述でまずはひっかかる。
そもそも羌族の概念をよくわかっておりませんー。
というわけで、まずは羌族について調べてみた。
「百度百科」によると、羌とは炎帝の姓「姜(きょう)」と同音同義、つまりは炎帝の一族のを指し、現在の陝西の渭水のほとりに居住していた。
つまりは現在の西安から宝鶏にかけての一帯である。
「羌」も「姜」も「羊の角の飾りを頭につけた人々」を指し、彼らのトーテムが羊だったことがわかる。
篝火の周りを羊の角かぶりのシャーマンがトランス状態で飛び回るようなシーンが浮かんでくるのは、ハリウッド映画(あるいは宮崎アニメ?)の見すぎだろうか。。。。
そこに隣接するのは黄帝(姫姓)の、この二つの部族の間で争いが起き、同時に次第に融合していったのが「華夏」族、つまり現在の漢族、中国人の祖先である。
よく使う言い回しで中国人が自分たちのことを「炎黄子孫」というのは、そういう意味らしい。
実在が怪しいとされている黄河の治水をした「禹」だって、両族が交じり合った「華夏」から出ていることになっている。
つまり羌族の存在はそれよりも古いということだ。
民族創設の神話の太古昔、有史以前まで遡っていけることになる。
まさに中国人がよくいう「中国悠久の歴史3000年」。少し箔をつけたくなったらそれを「5000年」と水増し(神話時代も網羅)する、その神話時代である。
そうして一部、黄帝の部族と融合して華夏族になっていったほかにも、
一部の羌族の一派は、中原から南下したり、西に進んだりして原住民と融合し、
シナ・チベット語系の諸民族であるチベット族、イ族、ナシ族、白族、ハニ族、リリ族、ラグ族、ジノ族などを形成するにいたる、ということらしい。
羌族の一派であったナシ族が、西安近くの誕生の地からどうやってヒマラヤの山奥にまでたどりつくかという歴史を追う前に、羌族の主流部隊のその後も追いたい。
華夏族に融合していった人々のほか、羌族は四川にも広がっていき、今の四川の西部に住み着く。
漢末の動乱で起こった東晋十六国の分裂時代には、成、前秦、夏、後涼、後趙などの地方政権を作った時代もあった。
唐末、羌族の一派である党項(タングート)羌人の拓跋思慕が夏州(内モンゴルと陝西の境の白城子)に「夏」を打ちたて、陝西、甘粛、寧夏、青海一帯のタングートを支配した。
これが宋末、チンギス・ハーンに滅ぼされるまで続いた所謂「西夏」王国である。
唐末から宋末まで、ということは延々と600年も続く超長期政権である。
朝鮮の李朝600年という長さもアジアではごく珍しいが、西夏もぶったまげる。
ちなみに「拓跋」姓といえば、北魏、隋、唐の王家であるアルタイ語系の鮮卑拓跋部のものだ。
なぜシナ・チベット語族のタングートが拓跋姓なのか、といぶかしく思い、調べたところ、どうやら直接の関係はないという説が有力らしい。
ただ単に西夏側が、拓跋部の名声にあやかりたくて勝手につけた可能性が高いという。
のちにその拓跋本家である唐王室から彼らの漢姓である「李」姓も賜り、それ以来李姓を名乗っている。
当初、タングートは四川の西部の山岳地帯を拠点にした部族だったが、チベット高原の吐蕃の度重なる侵入を受けて疲弊したため、唐王朝に請い、陝西、寧夏へ内遷したという。
唐の領土内に自分たちの居住地を賜るように願い出たというのだから、非常に興味深い。
西夏の首都の遺跡が誕生の地よりも遥かに東にある寧夏の銀川に残っているのもそういう事情らしい。
現在、西夏のタングート族の末裔といえるのではないか、といわれているのは、四川西部のアバ・チベット・チャン族自治区の羌族らしい。
今回の地震で一番の被害を受けたところである。
チャン族は文化的、言語的にもチベットに近く、抗議のじさつなども絶えないかなり敏感な場所でもあるので、
今回海外からの援助はおろか、中国国内からの援助もかなり厳しく規制されたというのことだが。
かれらの言語は、西夏文字によって残されているタングート語と比較的近いという。
チベット語アムド(現在の青海、四川、チベットの三角地帯)方言を話す遊牧民のことをタングートと呼ぶ場合もあり、
実際、古代のタングートの居住地域と、現在のチベット語アムド方言の話者が住む地域はほぼ重なっている。
一方で清代にいう「唐古特(タングート)」というのは、チベット、モンゴルを広く指したようだが、
これは西夏を作ったタングート族とは、厳密な意味では少し違うような気もする。
ウィキペディアより転載。アムドは麗江の北の地方。
どこもかしこも芋を洗うような人出。これでももう夜10時でっせ。
治安維持部隊の行進もその中を進む。こんだけの混雑だとそれも必要でしょうー。
お役目、ご苦労様ですー。
麗江名物土産。木彫りのプレート。
今は電気ドリルでジジジジっと掘っているが、図案は幾何学的でなかなかセンスがいい。
接写で撮影したいといったら、断られてしまったので、しかたなく遠巻きに。
うちにも帰国した友人から譲り受けた奴を飾っている。
何年もたった今頃になって、あれは麗江みやげだったのね、と判明した。
一瞬アフリカものかしら、と思うくらいにワイルドでアジアくさくない。
写真の上のほうに見える「福」の字のような、俗をてらったものもあるのですが。
まあ。それは俗な趣味の人も満足させるよろしきサービス精神ということで。
麗江、こんなに観光地化されていたんですね。思わず北京の「なんるおぐーしゃん」かと思ってしまい、複雑な気持ちです。いーちんたんさんの心をギュッとつかんで放さないような建物や風景などありましたら、ぜひご紹介、よろしくお願いします。
本当に俗化されていましたわー。
すでにおっさん化して簡単には感動しなくなっている私の視点からどれだけのものを伝えられるのかはわからないのですが、
引き続き、おつきあいくださいー。