いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

マンジュの森ーーヌルハチの家族の物語1、民族誕生伝説

2018年01月17日 16時01分11秒 | マンジュの森 --ヌルハチの家族の物語
今日から新しいシリーズを始めたいと思います。

清朝の創始者ヌルハチの満州の原野にいた頃の話です。


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どの民族にも、民族誕生伝説というものがある。
アイデンティティーの拠り所として起源・誕生伝説が必要となるのだろう。

--ヌルハチから興った清朝にも、それがある。

しかしその誕生伝説は王朝としての体制が整ってきてから、慌てて作ったことを思わせるような、
いかにも後から取ってつけたようなものだ。

恐らく大規模な統治集団になってから、
起源伝説もないようでは体裁が悪いというので、短時間の間に急に作り上げた物語なのだろう。


いわく、三人の仙女が長白山の天池に水浴みに来たところ、
カササギが赤い実をくわえてやってきた。

三人姉妹のうちの末っ子の仙女が、その赤い実を食べてしまった。

するとおなかがどすんと重くなり、妊娠したことがわかった。


・・・・このあたり、いかにも慌ててつくった疎漏さが窺える笑。
どすんと重くなっただけで、なぜ年端も行かぬ少女が妊娠とわかるねん、とつっこみたくなる笑。

恐らくこれを聞いた清代の人も誰もあまり重視せず、
軽く受け流してしまうくらい重きを置かれなかったために、
さらに詳しく掘り下げて表現する必要がなかったのだろう。

作った方も聞く方もみえみえのフィクションをしたり顔に納得した振りをするための舞台装置だったのだろうか・・・・。


体が重くて飛べない、と末っ子がいうと姉二人は、
あなたを待っておられないから身二つになったら、飛んできなさい、
と言い残し飛び去っていった。

のちに三仙女は子供を産み落とし、
その子は生まれた瞬間から言葉を話すことができ、すぐに大人になった。

・・・・さらに手抜き感たっぷり。
ディテールすべてすっとばしですねー。


・・・・・と、甚だあやしい民族誕生伝説である。



清朝の始祖ヌルハチの先祖の逸話が現実味を帯びてくるのは、
ヌルハチの六代前の始祖と位置づけられるモンケ・テムールからである。

かささぎが運んできた赤い実と仙女の間に生まれたとされる
始祖プクリ・ヨンシュン(布庫里雍順)からは何代のちのことなのか、
はっきりということができぬらしい。

このあたりもかなりいい加減な起源伝説とわかってしまう笑。

 

ところでこのモンケ・テムール。

名前を聞いただけでも如何にもモンゴル風である。
時代は元代である。

「モンケ」といえば、
モンゴル帝国の第四代ハーン、チンギス・ハーンの末子トゥルイの長男と同名。

「テムール」は、
中央アジアを席巻した自称モンゴル帝国の末裔の「ティムール」と同名という、
贅沢な組み合わせである。


ちなみに元朝最後の皇帝、北京を捨てて北に回帰した「順帝」の名前も「トゴン・テムール」。
「テムール」はモンゴル的には極めてポピュラーな名前である。


モンゴル人が一番の先進民族だった時代なだけに、
それにあやかる響きの名前をつけたということらしい。

現代でも先進民族であるキリスト教諸国風なリサ、マリア、
といった名前がはやるのと同じことといえるだろうか。




ヌルハチ以前、モンゴルと満州がどういう関係にあったかといえば、
当時の満州族の重要な特徴として、文書はすべてモンゴル語で書かれていたということがある。

十二世紀に女真族によって創設された金王朝は、
漢字と契丹文字を参考にして女真文字を作ったが、
これはどうやらあまり合理的な文字ではなかったようである。

使いにくいことに加えて金の滅亡後、女真族は東北の原野のみで暮らす原始的な民族に逆戻りし、
それぞれので自給自足を基本とした生活を送り出したため、
文字も大して必要はなくなってしまった。

元来、文字とは社会が複雑化してきたときに初めて必要となるものである。
私有財産・土地・不動産の複雑な取引きが始まれば、
これを証明する契約書が必要となり、そのために文字にあらわす必要性が出てくる。

広大な領土を統一された法律で治めるためには、
その命令を伝達するために行政文書を書く必要性が生まれ、
過去の過ちを繰り返さないための反省材料としては、歴史を記すことも重要となってくる。


ところが、大興安嶺の原野に戻り、
限られた狭い地域の中で部族同士が大規模に連帯することもなく暮らすようになった女真族には、
単純な社会構造のために契約書も必要なく、
活動範囲が狭いために行政文書の流通も必要なくなり、文字が廃れてしまったのである。

それでも何か文字に残さなければならないものが発生すると、モンゴル語を使うようになった。
日本で正式な文書が多く漢語で書かれたこと、朝鮮でも漢語で書かれていたことと似た現象だろうか。


それはモンゴル語の文字体系が、少なくともかつての女真文字よりは、洗練されていたことがあるのだろう。
かつては広大なユーラシア大陸を治めた民族である。

最も、当初モンゴル人がつくらせたパスパ文字は、合理性に欠け、使いにくかったために結局廃れてしまい、
普及したのはかつてウィグル人が使っていたまったく別の文字体系なのだが。
とにかくもそのような自然淘汰の試練を受けてすでに確立された文字体系である。

さらには行政に関することを中心として、
モンゴル語ではすでに豊富な語彙と表現方法が確立されており、満州語にはそれがなかったこと、
満州語の表記方法が確立されておらず、そのまま表記するには不都合だったことがあったのだろう。


つまりモンゴルは、満州族にとって先進文化を持つ民族だったのである。




興味深いのは、天下を取った後の清朝が、自らの先祖を記すときの扱いである。

中原の主人となったからには、
あらゆる書物を少なくとも漢語に翻訳して公開する必要があるわけだが、
その時の固有名詞の漢字の使い方に微妙な民族意識、自尊心が表れていて興味深い。
 
例えば「モンケ・テムール」の「モンケ」の漢語表記である。
モンゴル帝国のハーン、モンケ・ハーンの場合は「蒙哥」であるし、
朝鮮の書物に記録された女真族「モンケ・テムール」の場合は、「猛哥」である。

「テムール」も一般的には「貼木爾」の字が当てられるのがポピュラーだった。
ところが、「蒙哥貼木爾」の漢字を使うと、ビジュアル的にあまりにモンゴル的なためなのか、
清朝の史書には「孟特穆(モントムー)」と書かれている。


まったくなじみのない漢字の組み合わせを使うことにより、
そのモンゴル色を消そうという苦しい試みが伺われて、いじましい。

統治者としてのプライドを表現しようとする微笑ましい現象だ。



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清の永陵。遼寧省の撫順市新賓満族自治県永陵鎮

ヌルハチの先祖が葬られている






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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
祝、復活! (Hiroshi)
2018-01-18 05:01:47
お久しぶりです。これからもよろしく。

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hiroshiさんへ (yichintang)
2018-01-18 09:56:52
はーい

こちらこそ、またよろしくお願いいたしますー!
返信する

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