いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

楡林古城・明とモンゴルの攻防戦2、明の万暦年間の建物が多いわけ

2012年08月02日 21時59分58秒 | 楡林古城・明とモンゴルの攻防戦
農業と遊牧業の境界線にある華北、陝北、甘粛、内モンゴルの南部などの地域では、
明の万暦年間に建立された寺院が多い。

前述の佳県・香炉寺も、楡林の南側にある塔も万暦年間の建立であったことを思い出してほしい。
実はこれはただの偶然はなく、この時期に久しぶりの国交回復ともいえる平和が訪れ、民力が蓄積されてきたことと関係がある。

--いわゆる「隆慶の和議」、その後の「三娘子」に負う所の大きい平和の時代である。


陝北がモンゴルとのフロンティアであったという歴史的な経緯のある以上、モンゴルの動向が
この地域的特性に大きく関わっており、その話を避けて通るわけにいかない。

しばらく話はモンゴルに飛躍するが、あしからず。


「三娘子」は、モンゴルのアルタン・ハーンの第三夫人だったモンゴル女性オヤンジュ・ジュンゲン・ハトンを
明側が親しみをこめていった呼び名だ。
学問があり、モンゴル文字に通じていた教養ある女性だったという。

明がモンゴル族の立てた元王朝を砂漠の北に追い出してできた王朝であることは、周知のとおりである。
まだ勢い衰えぬモンゴルに常に睨みを利かせつつ、最前線の北京に首都を移し、慢性的な臨戦態勢が続いた。

アルタン・ハーンは、「チンギス統原理」に則った、正当な血筋を持つハーンである。
所謂、チンギス・ハーンの男系直系「ボルジギン」の男子にしか、「ハーン」を名乗る資格がない、とするチンギス・ハーン以後のモンゴル系社会の不文律である。
これはそれなりに機能として役立っていたから、支持されたのだろう。
つまり内訌を少なくするという効果に。

遊牧社会では、肉体的な「痛み」を見せつけて証明できる腕力のある者でないと、
周囲が心服しない、納得しない、という極めて動物界に近い掟がある。

そのために少しでも「自分の方が強い」と思う者があれば、喰らいつき、挑戦し、腕力でその地位から引きずり落とし、自分が座ろうとする。

元王朝の後半、内訌が絶えず、内部で体力をすり減らしていったのも、
イスラム社会の初期のカリフが、すべて暗殺で交替したのも、
蛮族の侵入が日常化したローマ帝国後期に、くだらない理由で皇帝が何代も暗殺されたのも
すべてがこのセオリーに則った現象である。

せっかく手に入れた中原から追い出され、草原に帰ったモンゴル人の一つの反省が
「チンギス統原理」となって実を結んだといえるのではないだろうか。
---ボルジギンの生まれでない者は、いくら強くても認めないよ
と。

これにより少しでも政権を安定させ、集団の体力消耗を避けようという智慧だろう。




モンゴルで一時期、「チンギス統原理」が崩れた時期がある。
西モンゴルのオイラトの台頭により、そのリーダーのエセンが、資格がないのにハーンを名乗った時である(明の正統年間前後、1400年代)。

元朝の滅亡(1370)に引き続き、永楽帝の幾度にもわたるモンゴル遠征(1400-20年代)があった。

永楽帝は首都を最前線の北京に移し、モンゴルとの臨戦態勢のやる気まんまんの姿勢を示したばかりか、
鄭和の大航海によりがんがん商売で儲けさせて、その資金を惜しみもなく投入して遠征してきたのだからたまったものではない。

その時期にチンギス・ハーンの権威がやや弱まった。

国破れ、さらに永楽帝に叩かれ、といった時期を経ているからである。
そこに西のオイラトが力をつけつつあった。

ほとんどシルクロードの天山山脈や甘粛に近い場所を拠点とするため、永楽帝の遠征でもそこまでは届かず、被害や打撃も少ない。
また最も西に位置するので、ロシアやチュルク系の民族との貿易により利益を稼いで力をつけていた。

この力構造は、清代になっても変わらず、清朝の版図に最後まで入らず、敵対し続けたガルダン・ハーンなどは、すべてオイラトのリーダーである。
最後にオイラトが清に併合される乾隆帝時代(1700年代)まで実に300年以上にわたる強勢を誇ることになる。

そのような経緯があるからモンゴルの人々は、オイラトのエセンが「ハーン」を名乗った時も
無理やりではあるが、受け入れざるを得なかったのだろう。

但し、エセンは母方なら何重にもチンギス・ハーンの系統を受け継いでいる。
有力な部族として、オイラトは昔からチンギス・ハーン家と婚姻関係を結んできたからである。

つまりボルジギット家の多くの女性たちが、オイラトの首長の妃として嫁いできているのである。
しかしボルジギンの定義は、あくまでも「男系」でなければならないため、該当しない。


エセン・ハーンは、後に「土木の変」(1449)で明の英宗を生け捕りにし、身代金を要求したことで有名だが、
ここでは詳細は省く。

エセンの「ハーン」の称号について、それでもモンゴル諸部族から猛烈な反発があり、大変な圧力だったらしい。
そのプレッシャーに耐えかね、エセン・ハーンはボルジギンの男子を皆殺しにした。

ここでアルタン・ハーンの祖父に当たるダヤン・ハーンが登場する。
後のダヤン・ハーン、元の名前バト・モンケはボルジギンの生まれだったが、母親がエセン・ハーンの娘だったために
さすがに自分の孫まで殺すには忍びなかったのか、ごく赤ん坊だったこともあり、殺害を免れた。

つまりダヤン・ハーンは、チンギス・ハーン直系として唯一生き残った男子であり、
エセン・ハーンの孫でもあるのだ。


どういう系統かといえば----。

エセンは最初からハーンを名乗ったのではなく、当初は正統なボルジギンの血筋であるトクトア・ブハを傀儡のハーンに立て、
自分が実権を握るというやり方に甘んじていた。

そのうちに時機が熟したと見ると、このトクトア・ブハ・ハーンを殺し、自らが「ハーン」を名乗るようになる。
バト・モンケは、そのトクトア・ブハの次男の嫡男の息子の息子・・・・・だという。


バト・モンケの幼い頃、世の中はエセンの全盛期、ボルジギンであることの権威が失墜している中にあり、
まったく政治的に注目されることはなかった。

バト・モンケは幼い頃から里子に出されていたという。
エセンの皆殺しの際にボルジギンである父親は殺されており、母親は当然のことながら、父親であるエセンに
新しい再婚先を用意され、さっさと嫁がされていったことだろう。
その際にいわくつきのボルジギンの赤ん坊を連れて行くわけにいかなかったことは、想像に難くない。

命は助けたものの、里子に出された先でもその出自はなるべく人々に知られないようにしていたに違いない。

エセン・ハーンは、「土木の変」の後、これにより明との朝貢貿易に影が差し、財源が確保できなくなると、
次第に支持基盤を失っていく。

その後、エセンは部下に殺され、モンゴルは分裂状態になる。
しばらくはトクトア・ブハ・ハーンの息子や弟の幾人かが入れ替わり立ち替わり、ハーンの位については殺される。



トクトア・ブハ・ハーンの末弟マンドルーン・ハーンが殺されると、ハーンが空位になり、宙に浮いた。
ホルチン部のリーダー、ウネバラトは、ハーンの位を狙うに当たり、
すでにボルジギン男子は皆殺しにされているなら、自分にも資格があると考えた。

彼はチンギス・ハーンの弟ジョチ・カサルの血を引いており、まんざら遠くもないではないか、と。
が、それだけでは皆が納得するには理由が弱い、と思ったのか、
マンドルーン・ハーンの未亡人を自分が娶れば、その正統性にさらに説得力が増す、と思いついた。

マンドルーン・ハーンの未亡人は、オングト部出身のマンドフィ・ハトン(妃)。
ウネバラトからのプロポーズを受けると、妃はチンギス・ハーンの子孫の唯一の生き残りの男子である
バト・モンケが民間で暮らしていることを持ち出して断り、16歳になっていたバト・モンケを探し出してきて彼と結婚したのである。

つまりバト・モンケこと、のちのダヤン・ハーンは、わけわからないうちに民間からつれてこられ、
未亡人の夫になることで、ハーンの属民とすべての財産、権限を受け継いだのである。

夫の権威と統率権が未亡人に付随して残され、その再婚相手となる者がそれを継いだことになる。


中原系の王朝では、考えられない現象だ。

しかし現代でも例えば、英国のダイアナ妃もこれに準ずる例といえなくはないか。

英国の元・王妃だった彼女の再婚相手は、否応でも「元・英国王妃の夫」となるわけで、
だからこそアラブ系の恋人と結婚しそうになった彼女の選択が問題となった。

女性を媒介にして、イギリス人とアラブ人が「兄弟」になってしまうからだ。


・・・・話を15世紀のモンゴルに戻す。

この時、マンドフィ・ハトンはハーンの血統の正統性を考慮してウネバラトの求婚を断ったのだろうか。

私には半々のような気がする。
もし彼女が本気でウネバラトに惚れたなら、彼がハーンになっても混沌とした分裂状態にあった
当時のモンゴル社会では、それなりにまかり通ったのではないか、と思う。

恐らくは生理的に好きになれず、政治的野心も見え見えで可愛げがなかったのだろう。
野心見え見えでも、「かわいさ」があれば、許す場合もあるのだが。
実力を背景に高飛車に脅しをかけたのかもしれない。

さて。
この奇妙な夫婦は、妻が26歳年上。16歳の夫と42歳の妻だった。

形式上だけ夫婦になり、完全な仮面夫婦となっても少しも不思議ではないのだが、
この夫婦はなんと7人もの男子を設けている。ほかの妃とも4人の息子を設け、
合計11人の男子を成人させた。

42歳から男子だけでも7人となれば、ほとんど新婚当時から孕みっぱなしということになり、
これは仮面夫婦とは言い逃れのしようがないだろう。

濃厚に情愛が絡み合った夫婦となっていた可能性が高い。


42歳から7人とは、純粋に計算しても1年に1人でも49歳まで生み続けるのは無理ではないか、と
妃の年齢には疑問がもたれているらしいが。。。

いずれにしても、閉経ぎりぎりまで生み続けたことは間違いない。


16歳の少年にとって、彼女は「卵から孵化した時に最初に目に入った存在」に等しい。
完全に洗脳され、人生観に大きく影響したとしても不思議ではない。
ましてや彼は、物心もつかぬうちに母親に捨てられて、里子に出されているのだ。
マザコンの嫌いがあった可能性も高い。

ま。そんなことは、どうでもいいんですが(笑)。



1487年、バト・モンケは、「ダヤン・ハーン」と名乗る。
「ダヤン」は、「大元(ダーユエン)」の中国語音のなまったものといわれる。
元王朝の復活を目指すという意気込みである。

翌年には明の北辺も脅かして(モンゴルのハーンとしては、必須アイテムなのでしょう)、
名実ともにモンゴルのリーダーとして、認められるようになる。

ダヤン・ハーンの11人の息子らは、全モンゴルの各有力部族長の元に婿入りし、
諸部の従来の部族長の上に君臨する領主となる。

現代でも続くチンギス・ハーンの後裔は、すべてダヤン・ハーンの子孫たちである。



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北京郊外では、もはや見かけることのなくなったふとんのわた販売。




    

大体、暖房の効いたアパート暮らしでは、部屋の中でセーターさえいらないくらい暖かいのだから、
そのへんの安もんのポリエステル綿のふとんでもまったく差し支えない。
申し訳程度に体の上に「かぶってさえすればいい」。

しかーし! 厳しい寒さの中、自腹で暖房を焚く一戸建ての住居には、ふとんの機能性は大事でしょうー。

自分の希望する重さまで綿を買い、ふとん打ち屋さんに持っていき、ふとんに打ってもらう。
そういえば、90年代の北京にはまだふとん打ち屋さんがあった。前述のとおり、アパートでは本来、
安もんのポリエステルふとんでもかまわないのだ。

ましてや、90年代の方が北京のアパートの暖房は暖かかった。

オリンピック以来、市内で石炭を焚かなくなり、割高な天然ガスに変えたので、温度は以前より下がった。
あの頃は、Tシャツに短パンで過ごせたが。。今はさすがにズボンの下にタイツくらいは必要。

しかしあの頃は、まだ物質的にもあまり豊かではなく、上質のふとんが生活の重要な彩りだったのだろう。
大消費時代に入った今、そんなことより目の行くものがあまりにも増えすぎている。



この茶色い塊はなんだー?




らくだの毛だってさ。 ふとんの綿にするらしい。究極の機能ふとん。あったかそうー。



いかにも「西北大漢」っぽいドスのきいたおっちゃんがおったので、盗み撮り。
気づかれて、逃げられたー。アップで撮らせてくれない。けちー。






おっちゃんは、牛乳売りであったー。
新鮮な絞りたての牛乳をその場で注いでくれる。煮沸していないので、そのまま飲むことはできない。


   

どうしても飲みたい! とだだをこねていると、同行の友人が近くの朝ごはんやさんと交渉し、
あっためてくれた。濃厚でした。。

いっしょに飲んだ画家の孫大力氏、「これだけで膝が強くなった気がする」とすんごい単純・・・・。
都会の中国人は、いつでも「普段、どんなものを口に入れさせられているか、わかったもんじゃない」と
不安を抱えつつ生きているので、正真正銘の安全な食品を目の当たりにすると、もおお大興奮。
気持ちはわかるが。。。




楡林のメインストリートに次の現れたのは、万仏楼。
清の康熙27年(1688)の創建である。






上が劇台になっており、縁日には、出し物が催されるようになっている。



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3 コメント

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大きな城ですね (~弥勒~)
2012-07-30 14:53:54
映画で見た「襄陽城」のような大きな城ですね。これがモンゴルに落とされると中原に進入されるというという位置づけなのでしょうか。

ちょいと横道にそれますが、最近「菜根譚」という明末に書かれた本を知りその訳本を読み始めました。
http://zh.wikisource.org/wiki/%E8%8F%9C%E6%A0%B9%E8%AD%9A#.E8.8F.9C.E6.A0.B9.E8.AB.87.E5.BA.8F1
訳の編成は原文、漢文としての読み、現代文の説明となっています。
ところで、漢文というのは中国の文語文で、昔も話し言葉ではないときいています。
現代中国では研究者以外に文語文を読む人はいるのですか?四書五経なんてのは今はどのような扱いをされているのでしょうか?三国志なんて現代中国文で読まれるのですか?
ちょいとその辺教えていただけませんでしょうか。
返信する
弥勒さんへ (いーちんたん)
2012-07-30 17:24:08
大学まで出るくらいの教養があれば、けっこう古文は読み込んでいると思います。
ことわざを口にするように、難しい論語の言葉をいわれ、意味がわからない時などもよくあります。
返信する
そうですか (~弥勒~)
2012-07-31 18:58:26
そうですか。
ありがとうございます。
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