夜の麗江の路地
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それにしても。
カム族に死ぬような目に遭わされたのは、再確認するが、漢代、つまりは紀元前後の時代のことだから、今から2000年も前の話である。
2000年前の恨みを今でも維持できるというのは、えらいこっちゃ。
それをいえば、ユダヤ人だってローマ帝国に滅ぼされて離散(ディアスポラ)したのは、紀元70年。
それから2000年近くをかけて再びイスラエルを建国した例もあり。
韓国でチョルラド(忠羅道)の人が差別されているのは、百済の遺民だからという話だが、
それって、紀元660年のことだから、1500年前の敗戦のために未だに差別されているってことーー??? という例もあり。
イスラムのシーア派のある山中の村での出来事をどこかの本で読んだことがあった。
村の語り部がシーア派のルーツであるマホメットの孫(娘ファーティマの婿アリーの子)フサインが、殉死したシーンを語ると、
村人たちは激昂して泣きわめき、口々にスンナ派への復讐を叫んで終わるのだという。
それは紀元680年の出来事だから、これまた1400年にわたり、憎しみが毎晩毎晩、語り部により温めなおされ、
綿々と千年以上に渡り、引き継がれているのである。
近いところでは、たとえば徳川幕府は薩長を成立当時から警戒しており、
200年以上たった後に起こった明治維新が、薩長にとっては「関ケ原のリベンジ」だったこと、
土佐藩で長宗我部の旧臣だった郷士らが、山内家にリベンジを挑んだのが、土佐志士らの大いなる原動力だったこともそうなるのか。
200年以上前の恨みが、生活の中に生きているわけだから、十分に気の長い話である。
憎しみや対立というのは、口伝によりなんぼでも長く、長しえに温め続けることができるということだ。
昨今のどこかの国とどこかの国のことを言っているわけではないのだが。
ナシ族が九死に一生を経て、麗江地区にまでたどり着いたところまでを描いた。
年代としては、大体後漢時代をいわれているので、
遥か北の西寧あたりを出発して、直線距離にすると、わずか1000㎞ほどの道のりを300年ほどかけて移動してきたことになる。
麗江周辺には、先住民族である僕(+さんずい)人らが住んでいたが、ナシの人々は彼らを征服した。
「麗江・歴史4、遊牧民の戦いはところ天式」にも書いたとおり、生産力の高くない牧畜という形態では、
先住者と侵入者という2つの部族を両方養うほどの土地の生産力がない場合が多い。
ということは、両部族ともそこに留まっている場合は、
負けた方がところ天式に追い出されて、新天地を求めてさまよい、自分たちが安住できる土地が見つかるまで流浪を続けるしかない。
それがナシの祖先が、故郷の地を後にしてきた理由であり、その後、500年かけてでき少しずつ南下を続けなければならない理由でもあった。
どれ以上の南下をせず、麗江をついに住処としたことには、それなりの科学的な理由があるだろう。
麗江の周辺まで南下くると、気候はもう十分に温暖であり、
農業を営むにも、牧畜を営むにも大人口を養えるだけの生産力は十分にある場所だ。
そうなると、「ところ天」式の公式的には、「遊牧民vs遊牧民」ではなく、「遊牧民vs農耕民」の戦いという図になり、
征服された側の先住民が、征服側を養ってもなお自分たちも飢え死にしないでも済むくらいの生産力に余力が残されていたことになる。
ナシ族の祖先は、征服者として麗江周辺に君臨しつつ、先住民の僕人らと混血し、
現在のナシ族の原型が出来上がる。
その構図は、おそらく「騎馬民族征服説」に見られる日本の弥生人と縄文人の関係もそうだろうし、
シルクロードの先住民、オアシス諸国のイラン系先住民と征服者のウィグル族の関係もそうであっただろう。
例を挙げだしたら、きりがないが。。。。
以上、ここまでの部分は、トンパの経典などや断片的な地方史料を元に再現された歴史である。
いわば「正史」ではない、神話、オーラル・ヒストリーに属する部分だ。
日本でいえば、中国史書の断片的な卑弥呼などに関する記述、百済の滅亡に関する記述と
天照大神やスサノオの伝説、『古事記』や『日本書紀』を元に、再編していくのと同じ作業である。
次に「正史」の部分を見ていきたい。
夏、商、周代、中国を九州に分けたが、雲南は「梁州」と呼ばれた。
戦国時代(紀元前316年)、秦が蜀、巴を滅ぼし、巴、蜀、漢の三郡をおき、この際、蜀の統治範囲に四川の西半分から麗江のあたりまで入っている。
前漢の元封2年(紀元前109)、武帝が巴蜀地区に兵を出し、真(+さんずい)池地区(現・昆明のあたり)を征服した。
これにより麗江地区もその支配下に入り、正式に中央王朝の統治下に入る。
後漢の永平年間(1世紀中葉)、現在の塩源(金沙江をはさみ、麗江の東北となり)から麗江一帯のナシ族先民「自狼」が、
朝廷に歌三章を献上し、内地に移住したい由を告げてきた、という記録がある。
これがつまり、ナシの人々が遥か北から数百年をかけて遷徒し、安住の地として麗江一帯に住み着いた時期である。
三国時代、魏晋南北朝時代は蜀に属し、麗江は逐久県と呼ばれた。
その後、唐代は唐、チベットの吐蕃、大理周辺を統治する南詔の三ヶ国間で
あちこちに隷属し、めまぐるしく立ち位置を変える。
それは麗江が雲南の最北端に位置し、3つの地域(この当時は国)の交差点に位置する要所だからである。
そのすぐ上はチベット(カム地方は今は行政区としては四川だが、解放前までは行政的にもチベットに属しており、
気候的・文化的・生活様式的・民族的にもその要素が強いので、四川ではなくチベットと解釈)、
斜め東に少しいけば四川だ。
なぜそこで国、または行政区が分かれているかといえば、明らかにそこで人の流れや気候、民族、生活様式が分断されるからだ。
麗江までは熱帯・亜熱帯モンスーン気候、いわゆる稲の原産地となったような典型的な高温多湿の気候だが、
そのすぐ北には、標高がえらく高い山々がそびえ、その熱い、湿った空気を完全にそこでシャットアウトしている。
そこから北は、いわゆるシャングリラ地区、その先にはさらにチベットがある。
つまりは長らく幻のシャングリラといわれていたくらい外部からの人間が近づきにくい、
高地のために空気薄く、気温低く、雨少なく、草もろくに育たない不毛の地に突入する。
麗江に旅行に行き、そこから北に行こうと試みたらわかるだろう。
北へのルートは、途端に長距離バスもなくなってくる。
なぜ麗江にバックパックでくる若者たちが、自転車を運び込んでくるか。
それはそこから北に行こうと思えば、まったく路線バスがなくなってくるからだ。
徒歩か、自前の自転車か、ヒッチハイクしかない。
徒歩は、夜寝るまでに宿のある町にたどりつけるかわからない。
ヒッチハイクも運を天に任せるしかなく、当然女子には自殺行為だ。
それくらい人影もまばらなエリアに入っていき、つまりは大人数の人間を養おうにもその力のない地域に入っていくということだ。
そして麗江から少し東に曲がりながら北に行くと、高地からすとん、と高度が下がり、四川特有の雲に四六時中埋もれた、生ぬるい空気に包まれた大地に出る。
山脈、高地で分断されたそれぞれにまったく違う特徴を持った地域が交わる場所が麗江なのである。
だからこそ、昨日は唐に支配され、明日は南詔、さらに一晩寝てみたら吐蕃に、という具合に争奪戦の地になった。
麗江古城内の果物売りのおばさん。
お値段は決して安くないですが、ほかの食事と比べるとなお安いので、若い女性はこれで済ませることもあるでしょう。
そこで不思議に思っているのはモンゴルに対してです。金や遼は現在版図に入っているということなのかもしれませんが、モンゴルは別の国ですね。ここに対する憎しみは無いのですか?現在において、昔の漢族以外の王朝は教科書でどのように教えているのでしょうか?いまだに清史が書かれておりませんね。台湾にある清史は「清史稿」になってます。
だから自分の子分だと思っており、服従させたからにはそこまで憎くはないのでしょう。
今、日本が目の敵にされているのは、いうことを聞かない、いまだに自分たちをバカにする、自分たちよりもさまざまな面で上でコンプレックスを抱えざるを得ないからだと思います。
もし完全に屈服させたら、今のモンゴルに対してと同じで、「下々の者どもは、勝手によきにはからえ」と歯牙にもかけなくなるでしょう。
確かに日本は邪馬台国以前から中国に言わせれば属国で、江戸時代まで一部の大名とはいえこっそり朝貢してたかも知れません。皇帝は日本全部が属国と思っていた。それなのに明治維新以降生意気になった。戦争まで仕掛けてきて、以降侵略しやがった。ってなことですか。なるほどねぇ~。
『少数派であるシーア派は、政治的な敗者であった。その為にシーア派は、イマーム達の生涯がそうであったように、正義は自らの側にあると確信しながらも、現世では報いられることはないという思いを共有してきた』
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そしてそれは語り継がれてきた(=創られてきた)とも。 歴史が絶え間なく「創られるもの」である以上、憎しみも新たに「育ちうる」と云う事だと思います。
しかし、歴史というものが絶え間なく「創られるもの」であるが故に、また新しい歴史も創られるということでもあります。そこに可能性もあるかと。
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現実には、歴史が作り直されることは、今現在の利害にも関係しているからなのでしょうね。
つまりは「憎む理由」は、本当は何でもいい。
憎みたい口実がないと、やっていけない何かの利害の衝突があるということでもあると思います。
自国よりも遅れている国、とバカにしていた国に征服されたからこそ、もおお日本はどうしても許せんわけで。
まさにそのとおりかもしれないですねー。
北京在住ということで、ご存知の方ですか?
直接の知り合いではありません。