さて。
清代になると、紫荊関は「内地」となる。
満州族は、モンゴル族を味方につけることができたからこそ、
中原の主となることができたわけだが、最初から最後まで北方勢力を完全に掌握していたわけではない。
建国当初、同盟関係にあったのは、「漠南」(ゴビ砂漠の南側)と呼ばれる現在の内モンゴルのモンゴル諸部族(ホルチン部など)のみ。
次に康熙帝の時代になり、ジュンガル(オイラート・モンゴル)のガルダン・ハーンに攻められて
「漠北」(ゴビ砂漠の北、現在のモンゴル共和国、モンゴル高原、外モンゴル)のハルハ部が難民となって、漠南になだれ込み、
康熙帝がこれを保護、ハルハ部も清朝の傘下に入った。
シルクロードエリアにあたる天山山脈の南北にいたオイラート・モンゴルまで掌握するのは、
乾隆年間もようやく終わりかけた頃。
実に統治の半分くらいの時間をかけて、ゆっくりゆっくりと少しずつ傘下に収めている。
つまり雍正年間のこの頃、清朝はまだオイラト・モンゴルとの戦争の真っただ中にあり、
紫荊関の戦略的な重要性は、まったく下がっていなかったのである。
またまたお恥ずかしながら、手書きの地図。
西陵のすぐ西側に紫荊関がある。
清の統治時代になると、
紫荊関には、兵営が置かれる。
康熙帝は、モンゴル諸部族との連携を強めるため、
その生涯に何度も草原へ足を運んでいる。
・・・というか、一年のうちかなりの時間を北京の外で過ごしていると言っても過言ではなく、
まさに「遊牧民の正統なハーンの継承者を自称するマンジ(満州)の皇帝」にふさわしい生活パターンであった。
ほとんど毎年、草原のモンゴル諸部を訪ねるか、承徳まで諸部のリーダーたちを呼ぶ寄せるか。
ガルダンとの戦いでは、自ら軍隊の指揮を執りもした。
康熙42年(1703)の西巡の旅では、紫荊関を通って西側へ行くルートを取った。
皇帝一行が紫荊関に到着した時には、すでに夜も暮れており、
紫荊関の城門は閉じられていた。
城門を何度叩いても、中にいる兵士は門を開けず、
一行はやむなく外で野宿したという。
翌日、康熙帝は「よき心がけ」と兵士をほめ、
「天子閲武」
の四字を残したという。
今では石碑に刻され、山の中腹に置かれているとか。
・・・・今回は残念ながら、紫荊関まで足を延ばせなかったが、
次回はぜひとも訪ねたいものである。
泰陵
近すぎて、文字の判別不能。。。(汗)
北京の最も重要な関所は、前述のとおり、
「居庸関(きょようかん)」と「紫荊関(しけいかん)」なのだが、
居庸関の方に関しては、康熙帝がかなり周囲を固めまくっている。
清初期の最重要課題は、漠南のモンゴル諸部との親交を深めることだったかと思われる。
それまで中原王朝の歴史の中でずっと中原王朝を悩ませて来たモンゴル族を筆頭とする騎馬民族との間に
満州族という第三勢力である自分たちが入り、
中原の人々が再びその襲撃に怯えて暮らさなくてもよくすることが、
満州族の最大の存在意義だということには、深い自覚があったかと思われる。
漠南とは、文字通り、ゴビ砂漠の南、現在の内モンゴルのあたりを示すが、
つまりは北京の北に広がる草原地帯である。
漠南のモンゴル諸部と北京との行き来には、
北京の北側の各関所をじゃんじゃん往来しながら、盛んに往来した。
明代に作られた万里の長城の要所である各重要関所の居庸関、古北口、喜峰口、独石口も
八旗の関係者が盛んに行き来した。
ぽちっと、押していただけると、
励みになります!
清代になると、紫荊関は「内地」となる。
満州族は、モンゴル族を味方につけることができたからこそ、
中原の主となることができたわけだが、最初から最後まで北方勢力を完全に掌握していたわけではない。
建国当初、同盟関係にあったのは、「漠南」(ゴビ砂漠の南側)と呼ばれる現在の内モンゴルのモンゴル諸部族(ホルチン部など)のみ。
次に康熙帝の時代になり、ジュンガル(オイラート・モンゴル)のガルダン・ハーンに攻められて
「漠北」(ゴビ砂漠の北、現在のモンゴル共和国、モンゴル高原、外モンゴル)のハルハ部が難民となって、漠南になだれ込み、
康熙帝がこれを保護、ハルハ部も清朝の傘下に入った。
シルクロードエリアにあたる天山山脈の南北にいたオイラート・モンゴルまで掌握するのは、
乾隆年間もようやく終わりかけた頃。
実に統治の半分くらいの時間をかけて、ゆっくりゆっくりと少しずつ傘下に収めている。
つまり雍正年間のこの頃、清朝はまだオイラト・モンゴルとの戦争の真っただ中にあり、
紫荊関の戦略的な重要性は、まったく下がっていなかったのである。
またまたお恥ずかしながら、手書きの地図。
西陵のすぐ西側に紫荊関がある。
清の統治時代になると、
紫荊関には、兵営が置かれる。
康熙帝は、モンゴル諸部族との連携を強めるため、
その生涯に何度も草原へ足を運んでいる。
・・・というか、一年のうちかなりの時間を北京の外で過ごしていると言っても過言ではなく、
まさに「遊牧民の正統なハーンの継承者を自称するマンジ(満州)の皇帝」にふさわしい生活パターンであった。
ほとんど毎年、草原のモンゴル諸部を訪ねるか、承徳まで諸部のリーダーたちを呼ぶ寄せるか。
ガルダンとの戦いでは、自ら軍隊の指揮を執りもした。
康熙42年(1703)の西巡の旅では、紫荊関を通って西側へ行くルートを取った。
皇帝一行が紫荊関に到着した時には、すでに夜も暮れており、
紫荊関の城門は閉じられていた。
城門を何度叩いても、中にいる兵士は門を開けず、
一行はやむなく外で野宿したという。
翌日、康熙帝は「よき心がけ」と兵士をほめ、
「天子閲武」
の四字を残したという。
今では石碑に刻され、山の中腹に置かれているとか。
・・・・今回は残念ながら、紫荊関まで足を延ばせなかったが、
次回はぜひとも訪ねたいものである。
泰陵
近すぎて、文字の判別不能。。。(汗)
北京の最も重要な関所は、前述のとおり、
「居庸関(きょようかん)」と「紫荊関(しけいかん)」なのだが、
居庸関の方に関しては、康熙帝がかなり周囲を固めまくっている。
清初期の最重要課題は、漠南のモンゴル諸部との親交を深めることだったかと思われる。
それまで中原王朝の歴史の中でずっと中原王朝を悩ませて来たモンゴル族を筆頭とする騎馬民族との間に
満州族という第三勢力である自分たちが入り、
中原の人々が再びその襲撃に怯えて暮らさなくてもよくすることが、
満州族の最大の存在意義だということには、深い自覚があったかと思われる。
漠南とは、文字通り、ゴビ砂漠の南、現在の内モンゴルのあたりを示すが、
つまりは北京の北に広がる草原地帯である。
漠南のモンゴル諸部と北京との行き来には、
北京の北側の各関所をじゃんじゃん往来しながら、盛んに往来した。
明代に作られた万里の長城の要所である各重要関所の居庸関、古北口、喜峰口、独石口も
八旗の関係者が盛んに行き来した。
ぽちっと、押していただけると、
励みになります!
私にとって、いささか難解でしてたじろいでいました。
先日、主人の弟たちに久しぶりにあったら、何となく歴史の話になり、
特に今中国にドップリだと言うのです。
実はPCが苦手らしく、もしPCがOKなら、いーちんたんさんのブログを紹介するのですが、
ただ、なかなか、頑固者でしてね、人の勧めには応じないと思います。
毎日の更新、すごいです!
スルーするのはもったいないです。
また来ます。読み返せば分かるかもです(^_^;)
ごめんなさい<m(__)m>
でも、尊敬の意を表して、ポチットね
ご無沙汰していますー。
いやー。
こうしておつきあいいただいているだけで嬉しいですー。
書く内容が続き物でもあり、
遡るのも大変でしょうし、不親切なブログで・・・(汗)。
ご親族の方に中国歴史ファンの方がおられるとのこと。
またPCをお使いになった暁には、読んでいただけると嬉しいです・・・(笑)。
そろそろ仕事が忙しくなり、
毎日の更新ができなくなると思います(汗)。
それでもあまり間が空かないように、
ぼちぼちマイペースにやって行きたいですね・・・。
また私も遊びに行かせてくださいー。
ところで、あちこちの「陵」の脇に「東稜」というのがあるのですが、それは何ですか?NETでは出てきませんので教えてください。
そうなんですよー。重要なのに、あまり地図には載っておらず、
もどかしいですね・・・。
特に昔は、山があると、文化も情報も人の流れも遮断されたわけですから、
その存在をきちんと把握しないと、正確な推測ができないですものね。。。
この地図は、ガイドブックにあるものを参考にしました(笑)。
「東稜」ですかー。
今、両方とも検索ワードに入れてみたのですが、
特に関連ある情報は出てきませんでした・・・。
「東稜」の方が、そのまま打ち込んでも出てくる漢字なので、
誤字ということは、ないでしょうか?