いーちんたん

北京ときどき歴史随筆

清の西陵7、ばつの悪さと国防と

2016年01月16日 17時56分44秒 | 北京郊外・清の西陵
前述のとおり、北京の北の関所である居庸関、独石口、喜峰口、古北口などは、
周囲をすべて八旗軍の駐屯所で固め、鉄の守りになっている。

これに対して西の関所・紫荊関の西側は山西省。
漢人の民間人が住む地帯が続き、八旗軍の駐屯地はないことは言うまでもない。

また北京の西南方向には、北側ほどの緻密な八旗軍の駐屯がない。
北に比べると、紫荊関を破られた時は、丸裸の状態なのが、雍正帝としては気になり始めたのではないだろうか。


雍正帝の治世13年は、康熙末年、すでに破たんに近かった財政の立て直しのために費やされた。
各省の財政はほとんど赤字に陥り、中央からの補填が必要な状態となっていたのである。

康熙帝は、その治世の間中、一年の半分くらい、北京以外のあちこちに動き回って過ごすという生活を続けて死んで行った。
北方のモンゴル各部を廻り、清朝の最新鋭武器と圧倒的兵力で軍事演習をして見せ、
モンゴル王公らの腰を抜かさせたり。
ガルダン討伐のために自ら出征して大軍を指揮して、ゴビ砂漠を横断したり。
江南にまで出かけては、漢族の士大夫らと交流を持ったり。

そのような「外交」、「軍事」の成果は、目覚ましいものがあったが、
その統治の晩年には、どうしても内政の方のほころびが目立つようになっていた。

雍正帝がしなければならなかったのが、その財政の立て直しであり、
汚職官僚をばしばしと摘発したり、地方の官僚らと濃厚な奏文のやり取りをし、口汚く罵って叱咤したり、
汚職を未然に防ぐための制度を作ったり、ということに忙殺された。

そういう「経済感覚の鬼」のような雍正帝だからこそ、陵墓建設と軍事的効果の一石二鳥を狙ったのではないか、と思うと、
なるほど、と納得できる。


 

 泰陵

 土饅頭を取り囲む回廊にて。

 下から生えてきた松が、壁の側面から通路に侵入している。
 すごい生命力。


具体的に陵墓ができたことにより、どれくらいの変化があったか、見て行きたい。

まず泰陵の立地が決まると、泰陵の敷地をすっぽりと覆う形で「風水壁」が建てられた。
その全長42里。

さらにその外側に赤い杭を一里に三ヶ所、合計580本打ち、全長193里。
さらにその40歩外側に白い杭でぐるりと囲み、
さらにその10里外側に青い杭を打った。

すべての杭は、同じ色の杭を黄色い絹の紐で結び、杭に禁牌をぶら下げた。

さらに青い杭の外、10里には境界石を立てて官山とし、「禁地官山界石」と刻んだ。

それが今の西陵の全面積となる。

西陵の設立当時、この敷地内には、漢人の農村19村があったが、立ち退きが命じられる。
それ以後も民間人の立ち入りは禁止され、その内と外では、完全に分離された二つの世界を形成したのである。


但し、さすがにもう清初にやったような、馬で走って縄で囲んだ部分をすべて私有化して元の住民を裸で放り出すなどと言っためちゃくちゃなやり方はしていない。

雍正帝は立ち退きに当たっては、充分すぎるくらいの補償を出すこと、
次に移る場所が決まるまで、立ち退きをあまり急かせてはならないことなどを言い含めたという。


 

 泰陵

 土饅頭を取り囲む回廊にて。

 下から生えてきた松が、壁の側面から通路に侵入している。
 すごい生命力。



この広大な敷地の中に北京や東北の八旗軍の中から、
陵墓が増えるごとに旗人が配属され、最終的に一万人規模の陣容となった。

紫荊関のすぐ麓に一万人規模の八旗営がある――。
少しは国防の布石に役立つのではないか・・・。

雍正帝は、そのような腹積もりもあったのかと思われる。


――もちろん、兄弟争いの件で父親に顔向けできないというのも、
人の情として、わからないでもない。

私は少なからずそういう要素はあったかと想像する。
しかしまったく新しく陵墓を作って国の予算を無駄遣いするのは、申し訳ないから、
国防にも役立てる配置にしてみた・・・・。

そんなところではないだろうか・・・。


 

 乗り入れてきたたくましい松の木


ところで臣下らが、この場所を探して来た時、
雍正帝は一応、難色を示す「振り」をした。

「よき場所ではあるが、『子随父葬』の伝統的制度に反する」と。

しかし内心は、別に陵墓を作りたい気持ちで一杯だということを臣下らはよおおく汲み取り、
陛下のために言い訳が立つような先例を史書をひっくり返して探し出すことにした。

いわく
「夏の禹(う)は、浙江の会稽に埋葬されているが、その子の啓(けい)以降は山西の夏県に葬られている。
さらに少康(夏の7代目の王)は河南の太康に葬られており、その間の距離は千里では済まない・・。
また漢王朝の歴代皇帝の陵墓は、咸陽、長安、高陵、興平などに分かれている。」
と・・・。


こうして雍正帝はようやく「朕心始安」と表明。
体面を保ったのである。


どうやらこれが伝統的な皇帝の手続きらしい・・・・。






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