谷沢健一のニューアマチュアリズム

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ロッテvs中日、74年の再現(その2)

2007-06-02 | プロ野球への独白
 木樽氏との因縁は深い。彼は古豪の銚子商業。私は新鋭の習志野高。対戦は2度あった。最初は春季大会で、延長10回、私が木樽氏から本塁打を放って、1対0で勝った。内角に投じられた小さく曲がるスライダーを捉えたのだった。
 2度目は夏の県予選の決勝。スライダーは1球も投げてこなかった。習志野高は0対5の完敗に終わり、銚子商は東関東代表(当時は千葉・茨城2県で1校のみが代表)として、甲子園大会で準優勝の大活躍であった(優勝は三池工)。
 セレモニー直前の打ち合わせで、北村・森野両氏から説明があり、私は3塁側から打席に向かうことになった。「対決の内容はお二人におまかせします。ただし1球です」木樽氏と私は顔を見合わせた。木樽氏が「どうする?」という表情を浮かべたので、「せっかくの企画なので、打ちに行くよ」と答えた。
 グランドに降りて、3塁側=中日ベンチ前に出て行くと、森野氏が今江選手からバットを借りてきてくれた。持ってみると長くて重いバット(ホークス多村選手仕様)で、今の私には到底振れそうになかったので、目の前にいた荒木君に「バットを貸してくれないか」と言うと、すぐにベンチへ飛んでいって福留君のバットを持ってきた。
 福留君がベンチから「どうぞ!」というゼスチャーをしてくれたので、握ってみると、滑り止めがたっぷり付着していた。ということは、このバットを今まさに試合で使う予定なのである。それをわざわざ貸してくれた。福留君クラスの選手なら、だれでもバットに神経質になるものである。それを貸してくれるとは、その心意気が嬉しかった。
 まもなく電光掲示板に74年当時の映像が流された。私は三塁側の観客席(中日だけでなく、ロッテのファンもかなりいたようだ)の声援と拍手に両手を挙げてこたえた。久しぶりに背筋に熱い電流が走り、打席に向かった。
 一振りだけスイングをして打席に入り、木樽投手を見据えた。大きく振りかぶったフォームから山なりのストレートが外角の低目まできた。その瞬間、私の体はその方向に踏み込んでボールを捉え、ライナー性の速い打球が、ワンバウンドして三塁手・今江君の股間を抜いていた。彼は普通の始球式のつもりでいて、まさか私が打つとは思わなかったのだろう。遅れて差し出したグラブの下をボールが通過した。観衆の「ウオー」というどよめきが瞬時に起こった。
 控室として特別室を用意していただいていると当日近くに知ったので、急遽、加藤副部長とその友人、久保田コーチ、上村コーチ兼主務に声を掛け、「特優」の観戦となった。
 そこへ瀬戸山社長が挨拶に見えられ、一同恐縮しただけでなく、MDS担当マネージャーの米田容子さんが付きっ切りで私たちを歓待してくれた。ロッテ球団の交流戦の強さにも改めて感心したが、おそらく米田さんのような方々がそれを支えていることに納得してしまうのであった。そのすばらしさはいちいち書かないが、米田さんの気配りは見事だった。

ロッテvs中日、74年の再現(その1)

2007-06-02 | プロ野球への独白
 セパ交流戦がスタートした5月22日、千葉マリンスタジアムには中日を迎えていた。試合直前のセレモニーで私は打席に入った。投手は木樽正明氏。1974年の日本シリーズの再現である。当時は仙台を本拠地とするロッテオリオンズだったが、シリーズは後楽園球場で実施された。深まりゆく東北の秋の冷気と収容人員の少なさを考慮した選択だったが、この決断が地元のファンを怒らせ、翌年から川崎球場が一応のホームとなったものの、「ジプシー球団」とからかわれる状態だった。
 日本一を掴んだ球団がまともなホームグランドももてない、それがプロ野球の実態だったのである。つまり、持てるものは奢(おご)り、持たざるものは耐える、他の損失は我が利益なり、という状態だった(過去形で書くべきか、現在進行形で書くべきか、迷うところだ)。
 だが、ロッテは強かった。金田監督が拵えた投手王国は、冒頭に挙げたエース木樽、金田留広、成田の3投手に、先発・抑えに獅子奮迅の活躍をした若き村田兆治氏がいた。打者では弘田、山崎、有籐、ロペス、前田ら、強打者が並んでいた。我が中日が2勝4敗に終わったのは、弁解じみるが、巨人の10連覇をついに阻んだという快挙と、29年ぶりのリーグ制覇の快感に浸りすぎて、その余韻が大きすぎたためではないかとも思う。
 5月半ば、千葉ロッテ事業部の森野氏(前フジテレビスポーツディレクター)から連絡が入った。「交流戦初戦のセレモニーとして、74年の再現を企画している。当時のユニフォームを着て打席に立っていただきたい。投手は木樽氏です」
 「いいですよ。面白い企画ですね」私は即答し、急いで女房に電話した。「当時のユニフォームや帽子はあるか」と聞くと、「保管してありますよ」とあっさり答えられてしまった。記念のトロフィーなどと一緒に知人宅の倉庫に預かって貰っていたのだ。さすが我が女房と心の内で見直して、名古屋から東京に送ってもらい、バッグに詰め込んで、当日、球場へ向かった。
 控室で着替えようとしたところ、木樽氏は「現在巨人軍のスタッフとしてお世話になっているので、ロッテのユニフォームは勘弁してください」という意向だとの連絡が来た。木樽氏らしい義理堅さである。それで、2人ともスーツ姿の登場となった。最近、懐古調のユニフォームを着て応援している熱狂的なファンを見かけるだけに、33年前のユニフォームに袖を通せなかったのは残念であった。