
『夜行列車』(イエジー・カヴァレロヴィチ監督、1959年)を観た。
サングラスをかけた中年男イエジーは、ワルシャワ駅から北上しバルト海沿岸の避暑地へ向かう夜行列車に乗ろうとする。
生憎、指定券を忘れた彼だが、独りになりたいために女性車掌と交渉し、15,16号室の指定席を確保する。
しかしこのコンパートメントに行くと、若い女性が占有していて決して席を空けようとはしなかった。
結果、イエジーは見知らぬ女マルタと個室を共にすることになり、夜行列車はいろいろな人々の思惑を乗せて走り出した・・・
同室になったイエジーとマルタは仕方なく会話を交わすが、話は噛み合わず、ギクシャクした感情のまま列車に身を委ねる。
なぜイエジーは独りになりたかったか。
マルタはなぜ孤独そうなのか。
列車の狭い通路で新聞を読む客の記事には妻殺しで逃亡中の事件が載っている。
名前も何も知らない他人同士が乗る列車の中の会話では、通り一遍的で深くその人物の人となりは見えてこない。
老牧師と若い牧師、不眠症に悩む男、独身主義のハゲの男、そして隣室の老弁護士とその妻など様々な人々。
老弁護士の妻は、溜め込んだストレスのために刺激を求めてイエジーに色目を使う。
二等車両には、マルタへの未練を捨て切れずにいる若いスタシェクが乗り込んでいる。
列車内では、満員の普通席の二等車両から指定席の一等車両へは遮断されていて行くことができない。
だからスタシェクは、熱がさめている感じのマルタにどうにかして会おうと必死である。
列車は走り続け、時と共に徐々に明らかになってくる人々の内面。
臨時停車。
そこに警察が乗り込んできて、16号室にいるイエジーに手錠を掛ける。
イエジーとしては何のことか訳が分からない。
物語はスリリングな展開と張り詰めた雰囲気で盛り上がっていく。
その緊張感を醸し出す、走り続ける列車の音。
狭い個室や通路の空間を巧みに使用したカメラワーク、その人々の顔の描写。
少ない会話から滲み出てくる、個々の人物の内実。
そして最後に、朝、終着駅のホームに降り立ってバラバラに分かれていく人たち。
トランクを持って、静かに、白波の見える砂浜を一人歩き続けるマルタ。
映画はサイレントから生まれて来たように、本来、このように無駄がない映像で見せるべきだと言う見本ような作品であった。
それ程、見事に映画の本質を突いていると、これこそ真の傑作の一本であると、思った。
サングラスをかけた中年男イエジーは、ワルシャワ駅から北上しバルト海沿岸の避暑地へ向かう夜行列車に乗ろうとする。
生憎、指定券を忘れた彼だが、独りになりたいために女性車掌と交渉し、15,16号室の指定席を確保する。
しかしこのコンパートメントに行くと、若い女性が占有していて決して席を空けようとはしなかった。
結果、イエジーは見知らぬ女マルタと個室を共にすることになり、夜行列車はいろいろな人々の思惑を乗せて走り出した・・・
同室になったイエジーとマルタは仕方なく会話を交わすが、話は噛み合わず、ギクシャクした感情のまま列車に身を委ねる。
なぜイエジーは独りになりたかったか。
マルタはなぜ孤独そうなのか。
列車の狭い通路で新聞を読む客の記事には妻殺しで逃亡中の事件が載っている。
名前も何も知らない他人同士が乗る列車の中の会話では、通り一遍的で深くその人物の人となりは見えてこない。
老牧師と若い牧師、不眠症に悩む男、独身主義のハゲの男、そして隣室の老弁護士とその妻など様々な人々。
老弁護士の妻は、溜め込んだストレスのために刺激を求めてイエジーに色目を使う。
二等車両には、マルタへの未練を捨て切れずにいる若いスタシェクが乗り込んでいる。
列車内では、満員の普通席の二等車両から指定席の一等車両へは遮断されていて行くことができない。
だからスタシェクは、熱がさめている感じのマルタにどうにかして会おうと必死である。
列車は走り続け、時と共に徐々に明らかになってくる人々の内面。
臨時停車。
そこに警察が乗り込んできて、16号室にいるイエジーに手錠を掛ける。
イエジーとしては何のことか訳が分からない。
物語はスリリングな展開と張り詰めた雰囲気で盛り上がっていく。
その緊張感を醸し出す、走り続ける列車の音。
狭い個室や通路の空間を巧みに使用したカメラワーク、その人々の顔の描写。
少ない会話から滲み出てくる、個々の人物の内実。
そして最後に、朝、終着駅のホームに降り立ってバラバラに分かれていく人たち。
トランクを持って、静かに、白波の見える砂浜を一人歩き続けるマルタ。
映画はサイレントから生まれて来たように、本来、このように無駄がない映像で見せるべきだと言う見本ような作品であった。
それ程、見事に映画の本質を突いていると、これこそ真の傑作の一本であると、思った。
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