原野の言霊

風が流れて木の葉が囁く。鳥たちが囀り虫が羽音を揺らす。そのすべてが言葉となって届く。本当の原野はそんなところだ。

老いを思う。

2010年10月26日 08時49分53秒 | Weblog
老いを感じ、老いを思い始めたのは、いつからだったかな?
こんな話をすると、老いた証拠と言われそうだが、ま、聞いてほしい。不思議なことに、晩節を迎える頃となって、齢のことなどあまり意識しなくなった自分に驚いているのだ。むしろ若い時の方が老いを意識していたような気がする。諦めがそうさせたのか、齢に慣れたからなのか、認知症の始まりなのか。それほどの意味は感じないが、堂々巡りに思考してみた。

一番初めに老いを痛感したのは、たしか三十代半ばだったと思う。今まで普通にできたことができなくなったからだ。草野球をしていて、軽くさばいていたゴロが捕れない。ショックだったのは、全力疾走ができない自分を知った時である。
仕事で京都にいて、その日の最終の新幹線で東京に戻る予定だった。仕事が長引き最終ぎりぎりの時間となった。ホームでは発車のベルが鳴り響いていた。全力で走るしかない。階段を駆け上がり、ホームを疾走している時であった。ホームの地面がだんだん目の前に立ちふさがるようにせり上がってくる。次の瞬間、地面に激突していた。つまり転んでいたのである。意識は前に向かって進んでいたが、足が全くついていかず、前のめりに倒れたのである。それを地面がせり上がったと解釈していた。この意識のずれに気づくのに数分かかった。幸い転んだ乗客を確認した駅員が閉まるドアを押さえてくれたので、何とか最終に乗り込むことができた。手のひらと足に血が流れるほどの擦り傷が残っていた。この日から私は自分の老いを完全に意識した。プールに通い、スポーツジムにも行き出したのである。若い肉体に対する幻想がまだあり、その不安に対応するには、精神が若すぎた、ということだったのかもしれない。

だが、四十代から五十代となるほど、こうした意識がどんどん薄くなってくる。肉体を酷使する無理など、もちろんしなくなる。全力疾走などするはずもない。若い肉体に対する幻想が徐々に消滅していたからなのだろう。還暦を過ぎる時はさすがに老いを考えたが、それも一瞬のことであった。なぜ、こんなに楽天的に生きれるのだろうか。元来は結構な心配症のはずなのだが。

堂々巡りの意識を整理していくと、一つの道にたどり着いた。老いに対する「諦め」である。どうせいつか死ぬなら、あくせくしてもしようがない。なるようになるまで、好きに生きてみよう。まさに開き直りであった。よく言えば達観(言い過ぎだな)か。

(秋のエゾノキツネアザミ)

子供のころから、決して丈夫ではなかったが、不思議と重い病気にかかったことがない。何しろ入院という経験がない。元来、病院は大嫌いだから、ちょっとやそっとのことで病院に行くこともなかった。しかし、それほど胃腸が丈夫ではなかったので、よく薬は飲んでいた。風邪も始終罹っていた。しかし、三十代の後半頃から、そうしたことが不思議となくなっていた。つまり、肉体幻想に陥ったころから、胃腸もそれほど悪くならず、むしろ健康となっていた。皮肉なことに、肉体の衰えに悩み始めたころから、健康体となっていたのである。
自分は弱ったと意識していたのに、健全へと身体は進化していた。これは何を意味するのか。つまり、思いと現実はいつもずれるもの。あまり深く考えない方がうまくいくということなのでは。

いま、歳を意識せず、好きに生きている(それほど自由ではないが)。それができるのは、やはり健康体であるからだ。楽天的に過ごせる最大の要素だろう。だが、身体にいいことなどは全くしていない。タバコこそすわない(子供が誕生した時にやめた)が、酒はほとんど毎日やる。運動らしいこともしていない。それでも病気にならなかったのは、ただラッキーだったからだ。同時にこれほど丈夫な身体を作り上げてくれたのは、やはり母の力だろう。幸運と母の力に、改めて感謝している。

(まだ若いエゾノキツネアザミ)

毎年のように健康診断を受け、癌の検査も受けている。幸いこれまで、なんの問題もなかった。ところが、今年の9月の検診で多少の問題が生じていた。肝臓の周辺の問題である。同時に太り過ぎが指摘された(メタボだって)。まだ決定的な問題とはなっていないが、やはり飲み過ぎは徐々に影響を与え始めていたらしい。これもまた老いのあらわれなのだろう。

唐突に、このように老いに思いが走ったのには理由があった。山の中でエゾノキツネアザミの群生を見た時であった。すでに秋が深くなり、アザミは終末を迎えていた。花は種を持った胞子となり、空中へと飛び立っていた。消滅と再生が同時に進行していた。植物はそれができるが、人間はそうはいかない。再生と消滅にタイムラグがある。人の消滅は再生につながるのだろうかと、考えてしまったのがきっかけだった。結論が出る話でもなく、あまり意味のある想像だとは思わないが、こんなことを考える時間も人生には必要なのでは、と思う。

英語にWell Ageingという言葉がある。「うまく歳をとる」という意味らしい。その域にできれば近づきたいと、思った時、どこからか、Too Lateと嘲笑う声も聞こえてきた。

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2 コメント

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エゾノキツネアザミ・・ (numapy)
2010-10-27 14:12:44
昨日はご馳走様でした。
暫くぶりであえてよかった。大根貰っていただきありがとうございました。その後も振り分けが大変でした。
この花、エゾノキツネアザミと言うんですね。
植物もキノコも、幼時と老年期では劇的な変化を見せますね。人間もそうか。
ただ、老いのイメージが最近希薄になってきました。
老いに気がついてない老い、かもしれません。
・喜寿迎え華麗に加齢鰈喰ふ
なんてバカバカしいこと考えてるからかなぁ。
足のアーチサポーター買わされました。暫くあまり歩くな!ですと。太るなぁ。
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すべて加齢のなせる業 (原野人)
2010-10-27 14:30:09
いろいろ体調に変化があるようです。でも気にせず適当に生きることですね。気楽にいきましょう。
大根は私も少しはおすそ分けしてもらえるようです。ありがとうございました。
それにしても、足はお大事に!二足歩行動物にとっては要ですから。
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