タケ・タケ・エヴリバディ!

当ブログは「竹林や自然と共に生きる」をメインテーマに、管理人の田舎暮らしの様子をお届けします。

スポーツの力

2023年03月21日 | 健康・スポーツ・生涯学習

WBC準決勝のメキシコ戦、すごかったですね。興奮しました。日本中が熱狂したんじゃないでしょうか。ボクなんか普段は全然野球なんて見ないタイプの人間なのに、このWBCはずっと見てますものね。いっやぁ〜今日のゲームはすごかった。完全に流れはメキシコに行ってましたものね。あの2度の満塁の場面で得点できなかった時には、「このゲーム、メキシコかな?」って思っちゃいましたよ。

それがあの同点劇、そしてサヨナラの逆転劇。感動的でした。サヨナラヒットを打ったのが、WBCで絶不調、このゲームも3三振の村上ですからね。「眠れる獅子が覚醒!」って感じ。栗山監督の名采配でした。すばらしい!

野球ももちろんだけど、スポーツってやっぱり「人の心を動かす力」がありますよね。ボクら夫婦がビッグスワンに足を運び、アルビレックス新潟を熱狂的に応援するのも、やっぱりこの「スポーツの力」に魅せられたからです。昨シーズンのJ2優勝そしてJ1昇格のドラマ、そして今シーズンのJ1でのチャレンジ。サッカー観戦での胸を踊らす経験は、間違いなくボクらの生活をエキサイティングにしています。

ボクは自分自身がプレーするスポーツとして、卓球も楽しんでいます。一昨日も仲間と団体戦の卓球大会に出場してきました。

 

親善団体卓球大会 - タケ・タケ・エヴリバディ!

長岡市市民体育館で開催された親善団体卓球大会(一般・高校の部)に出場してきました。今年度最後の大会参加となります。体育館には県内外の各地からたくさんの卓球愛好家...

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レベルの低い市民プレーヤーが集うマイナーな卓球大会ですが、そこにも数々のドラマがあるわけですよ。ボクたちのチームはこの大会の2部で準優勝をすることができたのですが、準決勝の戦いはまさに手に汗を握る接戦でした。ポイント2対2で迎えた5番手で登場したボクは、相手チームのTさんと互角の戦いで共に2セットずつを奪い合い最終セットを迎えました。まさに1本ずつのラリーに両チームのメンバー全員が集中する緊迫した場面です。

幸いにも最後はボクが競り勝ちましたが、ボクにとっても相手のTさんにとっても、緊迫した展開は忘れられないゲームになったと思います。勝利後にチームメートから受けた祝福も、ボクにとっては得難い経験となりました。まぁ長い競技生活の中では、逆の結果になったことも数多くあるのですがね。

野球、サッカー、卓球などの対人スポーツと違って、マラソンなどはどちらかと言えば「相手と競い合う」というよりは、「自分との戦い」「記録との戦い」というタイプのスポーツですよ。これがまた楽しいのですよ。

ボクはマラソン大会(ハーフ)に出始めて5〜6年になりますが、小中高と学校時代には走るのが大嫌いだった少年が、この年になってマラソン大会に出るなんて信じられない気持ちです。でも、「走る楽しさ」や「気持ちよく自分のペースで走る爽快感」など、ボクのように感じている多くの市民ランナーが全国には大勢います。これもまた、間違いなくスポーツの魅力です。

「見るスポーツ」「支えるスポーツ」「勝負するスポーツ」「参加するスポーツ」…いろいろなスポーツの楽しみ方があっていいと思うのですよ。多くの皆さんからスポーツを楽しみ、スポーツの魅力を感じてほしいと思います。明日はWBCの決勝、アメリカ戦です。朝から仕事どころじゃないね。みんなで応援しましょう!

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シリーズ「米一万俵」⑤:明新館とパルスオキシメーター

2023年03月20日 | ふるさと長岡・嗚呼!田舎暮らし

前回までのブログ記事「シリーズ『米1万俵』」で、山田権左衛門の業績やわが家とのつながりについて書いてきました。今回は、「上山廻米」とともに権左衛門の大きな業績の1つであった「藩校・明新館支館への援助」について書きたいと思います。

藩校というのは、江戸時代に諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校のことです。新潟県内だと長岡藩の崇徳館(長岡崇徳大学に名前が残る)、与板藩の正徳館(県立正徳館高校に名前が残る)、三根山藩の入徳館などがありますね。

山形の上山藩にも明新館(山形には県立上山明新館高校という名で残っています)という藩校があり、「分領地を治めるためには、文武両道を本とせねばならぬ」との考えから、当時上山藩の藩校であった明新館の支館が、越後分領地の陣屋のある七日市村(三島地域)に建設されました。しかも、この建設は長岡藩の崇徳館よりも早かったようです。

この明新館支館には、藩士の子弟はもとより、領内の庶民の子弟でも入学を志願するものには許可し、郷土の子弟を教育するのを主眼としていたそうです。領民も平素は農業に従事していても、事あるときには武器をとって領地を守らなければならぬという気持ちで文武の錬磨を盛んに行ったとされています。この明新館支館に多大な支援をしたのが、前回の記事に登場したわが家のルーツ「山田権左衛門」だったわけです。

この明新館支館は、明治の時代に学制頒布により七日市佼となり、更には日吉小学校(三島町立日吉小学校→今の長岡市立日吉小学校)へと続いて現在に至っています。

この明新館支館の跡地に記念碑が建てられていると聞いて、先日現地に行ってきました。

はい、こんな感じです。この脇にはこんな看板もありました。

今現在も日吉小学校では、地域学習の一環としてこの明新館を取り上げ、子どもたちに歴史を伝えているのですね。素晴らしい!興味のある方が、QRコードから長岡市のポータルサイトへどうぞ。

そして、この明新館の歴史を受け継いだ日吉小学校で学び育った新潟県輩出の偉人の一人が、このブログでも以前に取り上げたことのある、この人なのです。

 

パルスオキシメーターを発明したのは長岡人! - タケ・タケ・エヴリバディ!

昨日のブログ記事で、コロナによる自宅療養に伴い新潟県からパルスオキシメーター送られてきたということを話題にしました。今日は妻の分も送られてきたので、現在わが家に...

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現代医学では欠かせない「パルスオキシメーター」の発明者である、青柳卓雄氏(1936~2020)です。いやぁ~「米一万俵」が「パルスオキシメーター」につながりました。すごいなぁ~。

はい。これで5回シリーズの「米一万俵」は終了です。マイナーな長岡ネタにお付き合いいただき、ありがとうございました。一応、シリーズの記事を整理しておきますね。よろしかったら、記憶の片隅にお留めください。

シリーズ「米一万俵」①:米百俵じゃないの? - タケ・タケ・エヴリバディ!
シリーズ「米一万俵」②:三島地域は何藩? - タケ・タケ・エヴリバディ!
シリーズ「米一万俵」③:山田権左衛門 - タケ・タケ・エヴリバディ!
シリーズ「米一万俵」④:大旦那様と八百政家のルーツ - タケ・タケ・エヴリバディ!
シリーズ「米一万俵」⑤:明新館とパルスオキシメーター-タケ・タケ・エヴリバディ!

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親善団体卓球大会

2023年03月19日 | 健康・スポーツ・生涯学習

長岡市市民体育館で開催された親善団体卓球大会(一般・高校の部)に出場してきました。今年度最後の大会参加となります。体育館には県内外の各地からたくさんの卓球愛好家たちが集まり、予選リーグ、決勝トーナメント(順位トーナメント)と1日いい汗を流しました。

体育館に設置された卓球台は40台。こうして見るとけっこう壮観ですよね。今回ボクらは、いつもの「さわやかピンポンズ」のメンバーが都合で揃わず、60代の中に1名20代の若者(練習仲間)を誘って出場しました。

久しぶりの賞状をいただき、気持ちよく1日を終えることができました。ボクの戦績は…まぁ皆さんの足を引っ張らない程度に、チームに貢献することができました。めでたし、めでたし。晩酌のビールが超美味かったです。

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シリーズ「米一万俵」④:大旦那様と八百政家のルーツ

2023年03月18日 | ふるさと長岡・嗚呼!田舎暮らし

わが家(八百政家)は江戸寛政期から続く家で、ボク(八百政)が8代目になります(残念ながら8代で終わる予定です。9代目は埼玉在住。)。わが家の仏壇にしまってある家譜や過去帳を見ると、寛政8年生まれの初代が本家から分家し、わが家の歴史が始まっています。その本家というのがなんと、昨日のブログで取り上げた山田権左衛門家なのですよ。つまり、わが家のルーツは「米1万俵」ってことになります(笑)。

今でも覚えていますが、1958(昭和33)年生まれのボクが子どもの頃、ボクの祖父や曾祖母は、本家の当主を「大旦那様(おおだんなさま)」と呼んでいました。「江戸時代じゃあるまいし」「昭和の時代にそんなことって本当にあったの?」って思われる方がいるかもしれませんが、これは紛れもない事実です。「大旦那様」という前近代的な呼び名がボクの日常にはあり、会ったことはない人だけどその存在をボクは幼少期から感じていました。このブログ記事でも「大旦那様」という呼び名を使うことにしますね。

当時ボクの祖父は、お盆と年末年始には必ず「大旦那様」のお宅(本家)にご挨拶にうかがっていました。ですが、大旦那様がわが家にお出でになることは一度もありませんでした。まぁそういう家同士の関係だったのですよね。昭和の時代ですが。

ボクが大学3年の時に祖父は他界したのですが、その前年かその前の年、ボクが19歳か20歳のお正月に帰省した時に、祖父に頼みごとをされたことを今でもよく覚えています。「八百政、頼みがある。本家の大旦那様の所に新年のご挨拶に行ってきてくれ」「大旦那様のお宅は、今(事業に失敗して)非常に厳しい状況なんだ」「私(祖父)やお前の父親(当時40代か?)が行くと、触れられたくない話題になる可能性もあって大旦那様が気を遣われる」「お前ももう大学生だ。わが家の代表として新年のご挨拶に行くのは、大旦那様には失礼にならん」「世間話をして帰ってこい」「お酒を出されたら飲んで来い」

こんな感じだったと記憶しています。たぶんボクはその見返りとして祖父から小遣いをもらったのでしょう。ボクはその時、初めて大旦那様の家、山田権左衛門家の門をくぐりました。そして同様のことはボクの人生で2度とありませんでした。ボクが大学を卒業して地元に帰ってくると、大旦那様の一家は既に屋敷を手放され、県外に引っ越されていたのです。今から40年以上前の話です。

その後、ボクの父と大旦那様の息子さんは年賀状のやりとり等をしていた時期もあったようですが、その父も亡くなって既に15年が経ち、今はまったく音信は途絶えています。大旦那様の家の前に設置されていた「上山藩の越後領経営と山田権左衛門家」の看板も、朽ち果て撤去されていました。

「シリーズ『米一万俵』」のブログ記事は、もう1回だけ続きがあります。明日も(明後日かもしれません)また、よかったらお付き合いください。

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シリーズ「米一万俵」③:山田権左衛門

2023年03月17日 | ふるさと長岡・嗚呼!田舎暮らし

前回の記事で、山形の上山藩が越後領を有しており、三島地域の南部もそれに該当することを記しました。ちなみに当時、上山藩の越後領は三島郡内に31村、刈羽郡内に21村があり、越後領の石高は上山藩全体の約4割を占めていたそうです。

領内を支配する陣屋もおかれ、領内には「大庄屋」と呼ばれる大地主が年貢の徴収等の協力・補完を行っていたそうです。その上山藩越後領の「大庄屋」の代表的な存在が、「七日市村(三島)の山田権左衛門家」、「塚野山村(越路)の長谷川市郎左衛門家」、「横沢村(小国)の山口権三郎家」です。

長谷川市郎左衛門は「長谷川邸」の長谷川家ってことで長岡市民にとっては親しみがありますし、山口権三郎は県議会議長や日本石油の設立など、政治家や実業家として活躍した長岡が生んだ郷土の偉人です。小国出身のボクの友人などは、「山口育英会の奨学金のおかげで自分は大学に行けた」と今でも感謝の言葉を口にしています。地域への貢献度も高かったのですね。

そして、もう1人の「山田権左衛門」。この人が今回のシリーズのテーマ「米一万俵」の主人公です。平成21年に「みしま観光推進協議会」が設置した、山田権左衛門家の跡地にかつて建てられた看板から、彼の業績を探ってみましょう。

左側の部分を、もう少し拡大してみましょうかね。


大庄屋・山田権左衛門家も尽力した上山藩時代の特筆すべき治績として、「天保の上山廻米」と藩校の分校建設がある。天保5(1834)年、飢饉寸前の上山本領へ、越後領から1万3800俵余もの米を送り、多くの領民を救った。これは今でも上山市民に越後廻米として語り継がれている。慶應2(1866)年には、藩校明新館の分校「明新館支館」が開校され、長岡・与板藩の藩校より早くに領民子弟の入学を許し、領内の指導と撫育に努めた。このような教育を大切にする思想は、明治5年以降、公立七日市校(現日吉小学校)へ受け継がれている。

山田権左衛門家は、同校設立のための資金、書籍、寄宿場を寄贈し、また明治11年の第六十九国立銀行(現北越銀行→第四北越銀行)創立にも尽力…(以下略)


この山田権左衛門なる人物が、飢饉の上山藩本領へ「米13800俵」を送って人々を飢餓から救った人物ってことです。「米百俵」よりも100倍スケールの大きな「米一万俵(正確には1万3800俵)」ってわけですね。(まぁ長岡藩の「米百俵の思想」はこれとは全く別物で数の問題ではありませんから、比較の対象にならないのは百も承知ですがね。米百俵だけに。)

まぁとにかく、天保の大飢饉のこの当時、山形の人々を飢饉の危機から救った傑物が、この山田権左衛門っていうことなんですよ。すごい人がいたもんだ!

先ほど「この看板がかつて立てられていた」と書きましたが、実は今はもうこの看板はなく、山田権左衛門の屋敷跡はだいぶ荒んだ様子になっています。さっき撮影してきた様子がこれです。

ご覧のように大きな石碑や石灯籠が倒れ、看板や表示も朽ち果てたり色褪せたりして、ちょっと悲惨な状況になっています。残念ですね。

今日の記事はとりあえずここで終わりですが、このシリーズ「米一万俵」はもう少し続きます。次回は、今回と違う側面からこの山田権左衛門に迫ります

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