先週のこと。ボクが外出先から車で自宅に帰ってきたら、妻が玄関の前で知らない人たちと立ち話をしていました。ボクら夫婦よりも少し年上に見えるご夫妻です。「あっ、ちょうど夫が帰ってきました」ということで妻から対応を引き継いだボクは、そのAさんご夫妻と話をしながらビックリしてしまいました。ご夫妻の話からボクが理解したことは次のことでした。
●ご夫妻は神戸から車で新潟にやってきたこと。
●ご主人(Aさん)のルーツが新潟県にあり、それを辿ってわが家に来たこと。
●Aさんの祖母(27歳で逝去)の生家がわが家のようであること。
ボクはAさんとは面識がなく、父の代を含めAさん宅とわが家の交流はこれまでにありません。ですがAさんの話の中に出てきたAさんの祖母”なほ”さんの名前は、ボクの頭の中に間違いなく記憶がありました。
仏壇の奥から「家譜」が出てきた! - タケ・タケ・エヴリバディ!
3日前のブログ記事で、わが家が「仏壇じまい」を行ったことを記しました。その時に仏壇の抽斗(ひきだし)中から出てきた「すごいモノ」、今日はその話題です。まぁ「すご...
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昨年解体した家の仏壇の中からわが家の家譜(ボクの祖父誕生まで)が出てきたことは、以前にブログの記事にも書きました。ボクはその家譜を元に、現在八百政家の家系図を作っている途中なのですよ。その中に”なほ”さんの名前が確かにあったのです。

これを見て「とても立派な家系図がもう完成したんだな…」と思われる方がいるかもしれませんが、実はボクが作ったのは右側のシンプルな部分(しかもまだ未完成)だけで、左側の文字情報がたくさん書かれている家系図は、今から15年ほど前に横浜在住の遠縁のBさん(父の再従兄弟:ボクとは面識なし)が送ってくださったB家のものです。ボクが「わが家の家系図を完成させよう」と思ったのは、Bさんからいただいた家系図に触発されたからでもあるんですよ。
この2つの家系図の両方に、”なほ”さんの名前がありました。神戸からわが家を訪ねてきたAさんの祖母である”なほ”さんは、ボクの曾祖母(ボクが小学校低学年の頃に逝去:婿取り)の妹でした。わが家から隣村のC家の養女となった”なほ”さんは、婿を取って2人の子どもを産みますが、夫に先立たれて再婚(さらに婿を取った)します。その後”なほ”さんも病死。享年27歳の若さでした。再婚した夫のその後は不明ですが、残された2人の兄弟は別々の親戚に預けられて育ちました。その兄が育った親戚というのがわが家であり、神戸から今回いらっしゃったAさんは弟の方の息子さんでした。
実はこの事実をAさんとボクが互いに理解するにはずいぶん時間がかかり、玄関先から家の中に入っていただき、コーヒーを飲みながら家系図や過去帳を広げていろいろ確認し、ようやく相互理解できたことなのです。なんたって「Aさんの祖母(27歳で逝去)がボクの曾祖母の妹」という、極めて関係の薄い遠縁ですからね。イコール「ほぼ他人」ということですもの。(笑)
Aさんは退職後に自分のルーツについていろいろ調べはじめ、数年前に横浜在住の従兄弟のBさん(家系図をボクに送ってくれた人)に初めて会っていろいろ話をし、さまざまなことがわかり感激したと話されていました。どうやら父親同士は兄弟ですが、事情があって長い期間疎遠になっていたのだそうです。
今回も横浜在住のBさんを訪ねていろいろ話をするのを楽しみにしていたのですが、病気療養中(おそらく認知症か?)で会えず、「ダメでもともとの覚悟で長岡の八百政さんを訪ねてみよう」ということでやって来られたとか。住所も町名までしかわからず、いろいろ尋ねながらわが家にたどり着いたというわけです。まぁ「良寛を訪ねたい」というもう1つの来県の目的もあったらしいのですけどね。
あっという間の楽しい1時間半でした。なかなか話が噛み合わないことももちろんありましたが、ボクとAさんは家系図を見ながら共通な祖先の話題で盛り上がりました。この話題にはチンプンカンプンなはずの奥さん同士は…というと、「あら!香川出身?私は愛媛なんです!」なんてことで話が弾んおりました。

「思い切って新潟まで来てよかったです」と感激されていたAさんご夫妻と、記念撮影をさせていただきました。ボクも感激しましたよ。これも昨年、解体した仏壇から家譜が出てこなけれれば「”なほ”さん?誰?それ?」ってことになり、Aさんご夫妻を「不審者じゃね?」なんて疑いの目で見ていたかもしれません。いろいろな偶然が重なって、今回の出会いがあったことに人生の機微を感じました。
「今度、神戸にもぜひいらしてください」というAさんご夫妻の言葉に、「じゃぁ来年あたりにアウェイ・ヴィッセル神戸戦でかな?」などと、心のなかでほくそ笑むボクでありました。あぁ!人生は面白い!