タケ・タケ・エヴリバディ!

当ブログは「竹と生きる・竹を生かす」をメインテーマに、管理人の田舎暮らしの様子をお届けします。

シリーズ「米一万俵」③:山田権左衛門

2023年03月17日 | ふるさと長岡・嗚呼!田舎暮らし

前回の記事で、山形の上山藩が越後領を有しており、三島地域の南部もそれに該当することを記しました。ちなみに当時、上山藩の越後領は三島郡内に31村、刈羽郡内に21村があり、越後領の石高は上山藩全体の約4割を占めていたそうです。

領内を支配する陣屋もおかれ、領内には「大庄屋」と呼ばれる大地主が年貢の徴収等の協力・補完を行っていたそうです。その上山藩越後領の「大庄屋」の代表的な存在が、「七日市村(三島)の山田権左衛門家」、「塚野山村(越路)の長谷川市郎左衛門家」、「横沢村(小国)の山口権三郎家」です。

長谷川市郎左衛門は「長谷川邸」の長谷川家ってことで長岡市民にとっては親しみがありますし、山口権三郎は県議会議長や日本石油の設立など、政治家や実業家として活躍した長岡が生んだ郷土の偉人です。小国出身のボクの友人などは、「山口育英会の奨学金のおかげで自分は大学に行けた」と今でも感謝の言葉を口にしています。地域への貢献度も高かったのですね。

そして、もう1人の「山田権左衛門」。この人が今回のシリーズのテーマ「米一万俵」の主人公です。平成21年に「みしま観光推進協議会」が設置した、山田権左衛門家の跡地にかつて建てられた看板から、彼の業績を探ってみましょう。

左側の部分を、もう少し拡大してみましょうかね。


大庄屋・山田権左衛門家も尽力した上山藩時代の特筆すべき治績として、「天保の上山廻米」と藩校の分校建設がある。天保5(1834)年、飢饉寸前の上山本領へ、越後領から1万3800俵余もの米を送り、多くの領民を救った。これは今でも上山市民に越後廻米として語り継がれている。慶應2(1866)年には、藩校明新館の分校「明新館支館」が開校され、長岡・与板藩の藩校より早くに領民子弟の入学を許し、領内の指導と撫育に努めた。このような教育を大切にする思想は、明治5年以降、公立七日市校(現日吉小学校)へ受け継がれている。

山田権左衛門家は、同校設立のための資金、書籍、寄宿場を寄贈し、また明治11年の第六十九国立銀行(現北越銀行→第四北越銀行)創立にも尽力…(以下略)


この山田権左衛門なる人物が、飢饉の上山藩本領へ「米13800俵」を送って人々を飢餓から救った人物ってことです。「米百俵」よりも100倍スケールの大きな「米一万俵(正確には1万3800俵)」ってわけですね。(まぁ長岡藩の「米百俵の思想」はこれとは全く別物で数の問題ではありませんから、比較の対象にならないのは百も承知ですがね。米百俵だけに。)

まぁとにかく、天保の大飢饉のこの当時、山形の人々を飢饉の危機から救った傑物が、この山田権左衛門っていうことなんですよ。すごい人がいたもんだ!

先ほど「この看板がかつて立てられていた」と書きましたが、実は今はもうこの看板はなく、山田権左衛門の屋敷跡はだいぶ荒んだ様子になっています。さっき撮影してきた様子がこれです。

ご覧のように大きな石碑や石灯籠が倒れ、看板や表示も朽ち果てたり色褪せたりして、ちょっと悲惨な状況になっています。残念ですね。

今日の記事はとりあえずここで終わりですが、このシリーズ「米一万俵」はもう少し続きます。次回は、今回と違う側面からこの山田権左衛門に迫ります

コメント
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