私はメンタルチャットの管理人

メンタルチャットでおこるさまざまな非日常

さて

2015-03-31 02:54:16 | メンタルヘルス
メンタルヘルスか
今日は祇園祭でいう山鉾巡航の日である。まあ言って見ればハレの日である。京都に住んでいる人にとっては 山鉾巡航は祇園祭の終わりの意味もある。あれは観光客の為のイベントなのだとあたしは思う。地元の人にとっては 祇園囃子の練習が始まる7月の初めからが 本当の祇園祭であり それは宵山 あるいは宵宵山あたりで終わってしまう。巡航はすでに祭の名残でしかないのである。今日は最後の出勤日だ。昼からは組織変更に伴う席替えなんかあったりして あたしの居場所はもう無い。おまけに退職の挨拶までさせられそうである。SAD 社会不安障害であるあたしには 何物にも替えて不快な日なのである。なので 今日は午後半休にして昼で帰る。暖かい春の陽の中を一人でじっくりかみしめて 今日と言う特別な日を送りたいのである。私の祭はこれで一旦終わる。 また次の祭の準備をせねば・・そういう思いを起こさせる今日なのである。
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なぜ

2015-03-31 02:21:07 | メンタルヘルス
メンタルヘルスではない。
片岡義男がバイクをメインにした小説を書かなくなって久しい。彼自身もバイク乗り 確かCB450に乗っていたはずなのになぜ?と不思議に思っていた。あたしたちの世代では オートバイというのは自分の行動範囲を広げることによって新しい経験を生み出す魔法の道具であった。なのでみんながこぞってバイクに乗ったものだった。その中では 彼が書くようなバイクを通してのファンタジーみたいなものが確かにあったことは否定しない。1996年になってこれまで 上級者のみに許されてきていた大型自動二輪免許が教習所で取れるようになった。ここで 昔からバイクに乗ってきたものと一線を画すような事態が起こるのである。原付すら乗ったことのない大人が大挙して免許を取り最初のオートバイがハーレー・というようなとんでもない時代が来たのである。オートバイはすでに感性の鋭い10代、20代の唯一の移動手段ではなく、お金のある大人のステータスシンボルと変わり果てたのある。ちょうど金にまかせてスーパーカーを買うようなものである。彼の後輪が滑った・・と言う太田出版から出ているハードカバーのエッセイがある。これに片岡はこう書いている。以後 抜粋  しかし教習所で免許を取得しオートバイを買って路上に出るとたちまちこのような世界に入れるのだ、と本当に思っている人が実にたくさんいることを知って驚愕した僕は それ以降オートバイの出てくる物語を書かなくなった。 ・・・と これを読んでなるほど そうだったのか・・と納得した。あたしたちがオートバイに乗っていたのは今振り返ればオートバイがその不便さを超えて 新しい世界を見せてくれていた時代だったのだと。あたしは今もライダーである。種々の事情から車にも乗るようになった。相方が事故で膝を痛めたからである。相方もバイク乗りで250のオフロードバイクを愛用していた。手術をへて回復したものの 今度やったら車椅子になりますよ・・と医者に言われたのがきっかけで あたしは車にも乗るようになった。ただオートバイの魅力は捨てきれず 買ったのはオートバイらしい楽しみを与えてくれるイギリスの古いオープンのスポーツカーである。決して高い車では無いが 転倒する危険から守ってくれるこの車で あたしたちはバイクと同じような旅をすることを覚えた。ただ違うのはカーヴで車体を傾ける楽しみが無くなったくらいである。エアコンもない 日差しを遮る屋根も無い TVを見るようなフロントガラスももない 見上げればオートバイと同じような景色が広がる。その土地の空気の匂いをかぎ 空気を切り裂いて走るのはオートバイとほとんど変わらないものだった。そしてあたしは オートバイから少し距離を置き始め オートバイは一人で乗るようになった。なので片岡の気持ちはよくわかる。彼が書くファンタジーにオートバイは不可欠の存在では無くなった。なので書かなくなった。あたしはそう理解している。その代わり彼は日常の一部をすばらしく切り取るファンタジーを書く作家となったのである。数年前に出た 彼のエッセイで洋食屋から歩いて5分・・というのがある。これを読んで ああ 片岡もあたしたちと同じように歳を取ったのだな・・と思う。歳を取ったからバイクを降りるのではない。若い頃の鋭い感性を刺激する体験を 彼は日常から得られるようになったのだ。彼もやっと ある意味大人の作家になったのだな・・と思うのはあたしだけであろうか
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もうすぐ

2015-03-30 04:52:34 | メンタルヘルス
メンタルヘルスかも
もうすぐ5時である。結局2時間くらい寝ただけで 本を2冊読み 今はJazz(Hard Bap)を聴きながら 朝のコーヒーを落としながらこれを書いている。どうせ今日も仕事が無いだろう。なので ぼんやり過ごすのも悪くは無い。祇園祭で言えば宵山なのである。あたしの好きな作家で森見登美彦氏の有頂天家族二代目の帰朝が出ている。失業したので新本は買いづらい。ふと図書館の蔵書を検索してみたら新入荷のところにあるではないか。ただし15人待ちであるw まあ 当分の間失業保険と障害年金でつないで 次に何をするか考えねばならないが とりあえずは朝のコーヒーと朝の薬である。6時になればご飯が炊き上がるので相方のお弁当を入れる。 あたしは昼はコーヒーだけで食べない。今日は世話になった上司に挨拶に行くくらいしか予定が無い。あとは私物持ち帰りくらいで 寝てないので今日は早く潰れるのでブログの更新はあてにしないで欲しい。さて コーヒーが落ちたらしいのでまずは宵山のコーヒーといくか
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4時をまわった

2015-03-30 04:08:11 | メンタルヘルス
メンタルヘルスではない。
軽いと言われるかも知れないが 片岡義男を4冊借りてきた。1時過ぎに眠れなくて起きだして来て 七月の水玉 と 人生模様の2冊を読み終わった。どちらも1995年の初版である。片岡義男という作家はオートバイの描写にかけて他に類をみない才能を持っている。あたしは 彼以外こんなに適切にオートバイとそれにまつわる話を書ける作家を知らない。多分彼以外では無理なのだろう。彼の書く小説 あるいは短編には 全く生活観というものが無く 登場人物が今風ではないが 芯のしっかりした男性と 自分を正確に認識している美しい女性しか出てこないところが好きなのである。ある意味 あたしの時代のファンタジーなのだが ちょうど田舎の夏の田圃を吹き抜けて行く風のような素敵な感じが好きだ。しかし最近のオートバイ あえてバイクと呼ばないが 事情はかなり複雑な様である。排ガス規制からキャブレターのバイクが消えインジェクションになり エンジンだけ見る限り車の進化のようになってしまっている。更には伝統的なタンクの下にエンジンがあり 丸いスピードメータとタコメータの間にランプが並んでパイプのハンドル 厚みのあるシート車体と並行にのびたメッキマフラーなんて古典的なバイクはほとんど姿を消した。一時期爆発的に数が増えたビッグスクーターも駐車禁止の規制が強化されたのと 高い値段が災いして 一部の改造マフラーをつけた怪しいものしか残っていない。増えたのは125ccの本当に足として使うこだわりのないものだけになってしまった。これも時代の趨勢なのかと思うと少し寂しいのだが あたしはいい時代に乗っていたので これはこれで良いのだと思う。ただあたしは現役のバイク乗りなので 今ガレージでバッテリ上がりで半ば放置されているGB250クラブマンを復活させないといけないのである。最悪 バイク屋 それも昔ながらの整備のできるバイク屋が近くにあるので そこで整備せざるを得ないのだが まあそれにしてもその予算をどう工面するかは頭が痛いところである。あたしのクラブマンは初期型なので もう作られてから35年くらいたっているので部品に不安があるのだが それでも復活させねば。いくつになってもあたしはオートバイ乗りでいたいのである。生き方が古い 不器用と言ってしまえばそれまでなのだが あたしは最後まで自分が若いときに目指した方向を向いていきたい。
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あと

2015-03-30 01:56:54 | メンタルヘルス
メンタルヘルスかもしれない。
あと1日半になった・と書いている時点でもう今日なので 性格には明日の昼で全て終わると言うことになる。長い間IT関連で仕事をしてきた。学校を出て最初に勤めた会社は 上司が創価学会の会員で ちょっとしたことで手を出してきたので 返りうちにして辞めたw その会社にいたのはほんの3ヶ月ほどのことである。叔母の つまり母の姉 あたしにとっては歳の離れたもう一人の母 小さい頃から叔母の家が我が家だったような家から電車で名古屋まで通った。叔母は独身で 叔母のというか母の家系は戦前台湾で果樹園をやっていたという少し裕福な家庭で 戦後引き揚げてきたのだが 叔母は看護婦だったので結婚もせず一人で暮らしていた。母はこの叔母が実質的な母代わりだったらしく それもあってあたしや あたしの弟を自分の子供のように可愛がってくれた。あたしも 叔母が自分の二人目の母みたいに思っていたし実際そんな関係であった。叔母の家は戦前にある金持ちが別荘として建てた家を含む数件の家の中の一軒で そこはあたしにとっては思い出の家 自分の家なのである。父が自衛隊だったのでしょっちゅう転勤があった。父は大阪外語をロシア語専攻で出たので 英語とロシア語が堪能で 航空自衛隊で英語の教官と対ソビエトの情報将校だった。なので 航空自衛隊の基地があるところへ3年間隔くらいで転勤があり どうしても都合のつかないときは あたしは叔母の家で居候していたのである。名古屋に通勤するあたしに叔母は弁当を入れてくれて今覚えているのはプロセスチーズにベーコンを巻いて焼いたものくらいだが。結局3ヶ月近く勤めただけで辞めたあたしは 当時東京でもう退官してスイス大使館の武官付きをしていた両親の元に戻ることになった。当時IT産業というかコンピュータの仕事は立ち上がってきたばかりで あたしは京都で仕事したかったのだが 京都には無く 職人志向もあったので手描き友禅の職人になろうともしたが叶わず 結局名古屋で就職し辞めたわけだが コンピュータの仕事となると当時は東京か大阪しかなく 両親のいた東京に来てもう久しい。叔母の家は道路の拡張工事の話が持ち上がって 市に買収されることになり家は取り壊された。叔母は岐阜に引越し その後色々あって 両親が名古屋に買ったマンションで最後の時間を過ごした。あたしが家に異常なほど執着するのはその叔母の家があったからである。戦前に立てたその家は玄関から台所まで長い廊下でつながっていて 左右に2つずつの部屋がある昔の家である。今でも目をつむると思い出す。あたしが使っていた部屋の外には山吹が植えてあり 叔母の部屋窓辺にはモクレンが植わっていた。今あたしが住んでいるのは東京の西のほうの文京都市のマンションだが 近くの一軒屋の庭にモクレンが咲いている。それを見ると叔母の家を思い出すのだ。深夜なのでちょいと感傷的なのである。
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