遊民ヤギ爺

俳句と映画のゆうゆう散歩

鐘の鳴る丘

2019-07-05 16:50:16 | 日記
令和元年7月5日(金)

鐘の鳴る丘


今朝、ラジオを聴いていると、「今日は何の日」
1947年(昭和22年)、NHKラジオ放送で
連続放送劇「金の鳴る丘」の放送が開始された
日、との事。
戦後間も無く、路頭に迷う戦災孤児は12万人
にのぼる。肉親を失い、行く場所のなくなった
彼らは「浮浪児」と呼ばれ、駅の地下道、ガード
下を塒に、靴磨き等をし、時にはカッパライ等
をして、その日一日を生き延びる、、、、。
巷に溢れる孤児達を収容する施設は少なく、、

そんな頃、戦後処理をするGHQは、この惨状
を重く見て、祖国米国で青少年問題を対応して
居た、ブラナガン神父を日本へ呼び寄せた。
ブラナガン神父と日本の現状を相談したGHQ
は、NHKに対し「戦災孤児の問題をテーマに
したドラマの制作を依頼した。
劇作家の菊田一夫さんは、生い立ちを孤児と同
様な体験をして居り、これに賛同した、、、。

毎日、ガード下等を訪れて孤児等に生い立ちや
体験を聞き、ドラマの構想を練り「鐘の鳴る丘」
を執筆した。
そして自らの詞に加え、作曲を古関裕而さんに
依頼、「とんがり帽子」の主題歌が完成。
(川田正子とゆりかご合唱団の歌)


当初、一話15分で、土、日の放送で在ったが
大きな反響を呼び、毎週月~金の放送となった。
テレビは基より何の娯楽のない時代、
子供達(私も)は夕方になるとラジオの前に
集った。
半年間の予定が数年間も続く事となった。

翌年(昭和23年)松竹で映画化(佐田啓二
主演)され、大ヒットし、3部作となる。

4部(完結編)の予告編を出しながら未完
となった。


このラジオドラマに感動した、ラバウルから
の復員兵の品川博さんは、菊田一夫氏を訪ね
「是非、お手伝いさせて下さい」と願うが、
「これはドラマで、実話ではない」と言われ、
自分で故郷の群馬県前橋市に「鐘の鳴る丘、
子供の家」を建てた。

後に、子供達と伴に働き、その収益で、
とんがり帽子の在る子供の家を完成した。
(昭和28年12月に完成)

「とんがり帽子」の歌は、我々の年代の者は
誰しもが耳にし、よく口ずさんだ歌で、、
明るい歌なのに、なぜか郷愁のある切なさ
を感じる、「昭和の歌」である。


今日の1句

サイダー瓶透かし昭和の蘇る    ヤギ爺




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